2話


 養父の放逐宣言もどきに衝撃を受けたあの日から二週間ほど経ち、私は既に日本の地に降り立っていた。ドイツに戻ったのが九歳の頃だから、日本に来るのは約八年ぶりになる。

 そこまで顔が売れているわけでもないけれど、念の為に掛けていたサングラスをずらして辺りを見渡す。平日の朝だということもあってかそこまで人は多くないが、それでも日本人が沢山歩いている光景は私にとっては懐かしくもあるものだった。深呼吸をして肺に吸い込んだ空気もドイツとは違う匂いがするような気がする。それに向こうと比べるとまだそこまで寒くない。

 感慨深いようなそうでも無いような、筆舌にし難い感情が胸に込み上げてくるのを感じながらも僅かに首を振ってそれらの気持ちは振り切った。浸っている場合ではない。入国審査は無事に切り抜けたのに、まさかの緊急事態が発生しているのだ。


 約十二時間前、わざわざ空港まで見送りに来てくれた養父は「違う人間に着いていかないように」と、私を幼児と認識しているのかと疑ってしまうような忠告をしてくれた。私だからこそ口下手な養父の愛故なのだろうと受け止めることが出来たが、カイザー辺りに言ったらブチギレられていたことだろう。

 養父に「日本に行ってくれ」と言われたあの日の私の情けない勘違いは、幸いにも誰にも気付かれることがなかった。上手く隠し通したとも、みんなそんなことには興味はなかったともいえる。カイザーなんかに気付かれていたらなんだかんだとからかわれて面倒なことになっていただろうから、気付かれなくてよかった。
 まあ流石に養父はその話をされた時の私の慌てように思うことはあったみたいだが、特に何も言ってこなかった。その代わりなのかなんなのか、私が提案するよりも早く「毎日連絡をしよう」と言ってくれたけど。そういう人なのだ。

 とにかく、私の見事に空回りした「捨てられる」という恐怖は勘違いということで片付き、私はカイザーたちと話した数時間後にチームの運営陣に日本への出向を受け入れることを連絡した。彼らはたいそう喜んでその日のうちにDFBに話をつけ、そこからトントン拍子に交渉が進んだ結果、なんと今私の鞄の中にはDFBの社員証が入っている。そのプロジェクトの何がそこまで興味をそそるのかは分からないが、上はどうやら本気で探りを入れたいようだ。
 正直よその国のフットボール協会がとんでもなく力を入れているらしいプロジェクトの応援に私のような未成年を──それも強引に──捩じ込むのはどうかと思うんだが、そこのところはどう考えているんだろうか。一応私の生みの親は共に日本人で、彼らはそれなりに日本でも知名度がある人たちだったけど、日本と私との繋がりなんてそれぐらいしかない。現に何年間も日本に来ていなかったぐらいだ。

 プロジェクト関係者も他国のフットボール協会から応援要員として未成年が派遣されることに対して当初は渋っていたそうだが、その派遣される職員が私であることと、私が元日本人で通訳いらずどころか最低でも四ヶ国語、日常会話程度でよければプラスで二ヶ国語は問題なく話せるマルチリンガルであることを知って、JFU会長が何を言うよりも早く二つ返事で了承したらしい。
 その話を聞いた時は、それほどに人員が不足しているのかと不安に思った。交渉にあたったらしい上の人の半笑いな感じを見るに、私の能力は能力でも語学能力の方が買われた感じだったのだ。これでもバスタード・ミュンヘンでは分析力の方を買われているんだけどな。


 話を聞いた時から今に至るまで胸に残る虚しさにも似た感情にひっそりと息を吐きつつ、スカートのポケットから取り出したスマホを見下ろした。ドイツはまだ日付が変わったばかりの時間で知り合いはみんなとっくに寝ているだろう。起こしてしまってはいけないと一瞬迷ったものの養父にだけはメッセージアプリに到着の連絡を入れ、その他のフライト中に届いていたメッセージを確認していく。ネスから送られてきているカイザーの写真は無視でいいし、DFBからの連絡には「JFU職員と合流し、プロジェクトに関する詳細が分かり次第データを送れ」とあるから、これは後でいい。その他の連絡の中にも緊急を要するものはなさそうだ。

 連絡を確認している間にだんだん下の方に移動していた画面を一気に最新メッセージの方までスクロールして、昨日向こうを出発する前にやり取りしていた相手のページを開く。「定刻通りに羽田に到着出来そうです。当初の予定から変更せずに、八時半頃に国際線の到着ゲート付近で待ち合わせましょう」という私のメッセージの下には、相手からの「了解です」という一言が続き、更に可愛らしいクマが「りょうかい!」と手を挙げているスタンプで会話は締め括られている。
 これはJFUの職員で例のプロジェクトを担当しているという帝襟さんとのやりとりだ。日本に出向している間は彼女が私の直属の上司となる。日本に到着してすぐに円滑に業務を行えるようにとこの二週間程やり取りを重ねてきた。その甲斐あってか、お互い私用のスタンプを送り合うぐらいには打ち解けられてきている。

 そんな帝襟さんは、今日私を迎えに来たあとにそのまま都内のホテルで記者会見を行うんだそうだ。元々このタイミングで記者会見を行うことは決まっていたらしいが、予想以上に世間から例のプロジェクトが批判されており、会見の予定を若干早めて今日になったのだと私も数日前に聞かされた。
 電話などの音声連絡は一切していないのに、文面からでも分かるほど準備に追われて疲弊していた帝襟さんとのやりとりを思い出しながら、きっと今も準備に奔走しているのだろうなと時刻を確認する。午前七時十三分。

「……早く着き過ぎたな」

 待ち合わせ時刻までまだ一時間以上ある。別に私が時間に余裕を持ち過ぎたわけではなく、追い風がすごく強くて飛行機が早く飛べてしまったが故に大幅に着陸時間が前倒しになったのだ。同乗していたビジネスマンたちも面倒そうな顔をしていた。そりゃそうだ。一時間以上の空き時間は流石に長すぎる。
 十分二十分ならば許容範囲内だったし、その程度なら着陸時間が早まるのも遅くなるのもこれまでにも何度も経験してきた。しかし一時間以上は初めてだ。そういうこともあるらしいとは聞いていたけど、まさか自分が体験することになるなんて思ってなかった。それもこのタイミングでなんて、運が悪いの一言で済ませていいのか怪しく思えてくる。


 とはいえ、こんな所で待っていても何にもならないし時間の無駄でしかないのも確かだ。片手で帝襟さんにメッセージを送りながらもう片方の手でスーツケースを引き、そのままタクシー乗り場に向かって歩き出す。もうこのまま今日会見を行うというホテルに向かってしまおう。金はあるし、ついでに時間もたっぷりある。

 ひとまず簡潔に「到着が早まり、既に羽田に到着しました。特に空港でやることもないので、このままホテルに向かいますね」と送ったのだが、送信から数秒で既読がついた。早いな。やっぱりもう会見の準備を始めてるんだろうか。更に数秒後に帝襟さんから着信が入ったので、迷うことなく応答する。ずっと文章でやり取りしていたので声を聞くのは初めてだ。

「もしもし、帝襟です。おはようございます。あの、ご無事ですか⁉︎」
「おはようございます。はい、無事です。追い風が強かったらしくて、だいぶ早く着いちゃいました」
「良かったあ……なにかフライトトラブルがあったのかと……」
「あはは、ご心配いただきありがとうございます。トラブルと言えるトラブルは今の所ありません。なのでこのままホテルに向かっちゃいますね。帝襟さんはもうホテルにいらっしゃいますか?」
「はい。一応昨日の夜から泊まり込みで準備してたので……そうだ、朝ごはんどうしますか? 多分まだ食べられてませんよね。ホテルは駅前なのでコンビニとかカフェとかもありますが、準備しておきましょうか」
「いえ、平気です。帝襟さんこそもう朝食はとられました?」
「もう少し書類作業を進めてから食べようかと思ってたので、まだです」
「じゃあ一緒に食べませんか?。昨日フライト前に調べてたんですけど、そこのホテルに併設されてるカフェのエッグベネディクトが評判みたいで気になってたんです。チェックインして一度シャワーを浴びたいので、少々お待たせすることになるかもしれませんが」
「えっ、私もあそこのカフェ気になってたんです! ぜひご一緒させてください。時間も全然平気です!」
「やった。じゃあ早速タクシーに乗りますね。ホテルに着いてシャワーを浴びて着替えてってやってたら多分一時間後ぐらいになっちゃうと思いますが、準備が出来たらまた連絡します」
「はい。ではまたあとで」

 ……こんなに長々と日本語で会話するのなんて七年ぶりとかだから若干緊張してたんだけど、案外普通に喋れたな。それに帝襟さんの声がめちゃくちゃ可愛くてちょっとドキドキした。

 ああ、いけない。邪念を追い出すために首を振り、通話を終えたスマホをスカートのポケットに仕舞う。いつの間にか止めていた足をまた動かして、自動ドアを潜り抜けた。外に出たことでより強くなったどこか懐かしい日本の空気にえもいえぬ感情を覚えつつも、もう足を止めることはなかった。


 ──こんな風にちょっと間抜けに始まった今日一日でまさか人生が変わってしまうなんてこと、美味しい朝食と優しそうな上司に胸を躍らせながらタクシー乗り場を目指してスーツケースを引きずる私はまだ思っていなかった。


 +


 日本に降りたって二時間弱。私は早速日本のいい所を見つけてしまった。

 ズバリ、風呂である。


 うちは養父がフランス人で、フランスには湯船に浸かる文化があまりない。バスタブはシャワーを浴びて体を洗って髪を洗うところ、と認識されているらしい。ドイツでも湯船に浸かる文化は大衆的ではなくて、私は養父と暮らし出してからの七年間で数える程しか湯船に浸かることができていなかった。
 生みの親が二人とも日本人で十歳までは日本文化が相当な割合を占める環境で生活していたとはいえ、日本で暮らしていたのはこの十七年間の人生で三年半だけ。残りはずっとドイツで暮らしているんだから、別に湯船に浸からなくて平気だ……と、思っていた。ついさっきまでは。

 JFUの方で用意してくれていた部屋はとても広く、もちろん風呂場も広々としていた。ドイツでもフランスでもこんなに広い風呂は滅多に見ない。その時点で私はもう既にワクワクしてしまっていて、「帝襟さんにはシャワーだけって言ったけど、すぐに済ませるならお湯も溜めていいでしょ」と言い訳しながらも欲望に素直にバスタブにお湯を張った。


 結論から言おう。めちゃくちゃ良かった。「湯船に浸かって疲れをほぐそう」とかいう言葉に「湯船に浸かった程度で疲れってなくならなくない?」と思っていた少し前の自分をぶん殴ってやりたい。湯船に浸かる前後では明らかに違う。上手く言葉に出来ないけど、とにかく違うのだ。
 流石に「湯船に浸かってリラックスしてたら遅れました」なんて理由で帝襟さんを待たせるわけにはいかないので予定通りに風呂を出たが、もう既に名残惜しい。なんなら湯上りのスキンケアをしている時点で「もう一回……いやダメだ」とか独り言を言っていた。

 今日の夜には寮……寮? とにかく例のプロジェクトのために集められた高校生たちが集団生活している山奥の建物に私も移動することになるらしいのだが、そちらには私が自由に入れる風呂はあるんだろうか。養父は思春期真っ只中の青年たちと私が同じ建物で共同生活すると知って複雑そうな顔をしていたし、私も「色々と面倒そうだな」と話を聞いた時には思っていたけど、今は風呂のことが何より気になる。女子風呂はありますか? 個室に備え付けのシャワールームで我慢してくれと言われたら絶望してしまうかもしれない。湯船に浸からない生活に慣れていた数時間前の私にはもう戻れそうにもないのだ。たった一回の入浴が私を狂わせた。

 さっき入った風呂みたいに大きなバスタブじゃなくていいから、一息つける風呂があるといい。なんなら帝襟さんに聞いてみよう。確か帝襟さんは三日ほど前からその施設で暮らしているらしいし、その辺りはもうとっくに分かっていることだろう。いや、そもそも企画者側なんだから最初から知っていた可能性もある。
 そうと決めたからには、早く帝襟さんに来て欲しい。二週間程連絡を取り合っていたが、顔を合わせるのは初めてだ。電話でも上手く喋れたし、対面してもきっと上手くやれる。だけど、一応顔写真ぐらいは確認して顔だけは分かる、あの綺麗なお姉さんに初対面で聞くことが「自由に入れるお風呂はありますか?」なのか。帝襟さんも「最初にそれ?」と驚くことだろう。すみませんね。私は既に風呂の虜になってしまったのです。


 朝食を終えたら一度部屋に戻る予定だから、その時にまた風呂に入ろうかな。本当に入るかどうかは分からないがそんなことを考えながら、ロビーに置かれたビロードのソファの上で足を組み替える。「上司に書類を渡してから行くので少し遅れます」とクマが申し訳なさそうに頭を下げているスタンプ付きで連絡が入ったのはほんの数分前のことだ。私も「だいじょーぶ!」と顔の描かれたリンゴが挙手しているスタンプを送っておいた。

 JFUが会見の会場としてセッティングするだけあって格式高いホテルの格式高い調度品を失礼にならない程度に眺めながら時間を潰す。時刻は八時を少し過ぎているが、まだ朝と言って問題ない時間だ。相当この日を楽しみにしていたらしい外国人観光客たちは既にカウンターでスタッフ相手に何かを尋ねたり、仲間同士で額を付き合わせて地図を覗き込んだりしている。どうやら彼らはフランス人のようで、聞こえてくるのは聞き馴染みのあるフランス語だった。スタッフも母語ではない言語を喋っているが故の多少の拙さはあるが、聞き取りには問題のないフランス語でその対応をしている。

 私は養父が生粋のフランス人で常日頃からフランス語を聞いて育ってきたから、どれだけの言語を学んでもフランス語には特別思い入れがある。最早第二の母語と言っても差し支えないほどだ。

 カウンターの方をぼーっと見つめながら第三の母語はドイツ語かなとぼんやりと考えていれば、少し離れたところから歓声が聞こえて、思わず意識がそちらに向いた。ホテルの入口の辺りだ。どうやら例のフランス人観光客の連れの一人が何かを見つけたか誰かを見つけたかして興奮しているらしい。「まさかこんな所で会えるなんて」とフランス語で感極まったように喋っているのが聞こえた。有名人がいるのだろうか。


 さして興味はなかったが、興味半分に会話の相手を見ようと若干首を伸ばす。そうすると、大柄な観光客の背中に隠れてしまっているがそれでも十分高い位置にある赤紫っぽい色をした髪が僅かに見えた。見覚えのあるその髪色に、ソファから僅かに腰を浮かせる。

 実はあの髪色の知り合いが一人いる。数年前に養父の付き添いでスペインに行った時に、最近日本からチームに加わった選手で、歳も近いし故郷も同じなのだから積もる話もあるだろうと紹介してもらったのだ。
 その時点で私はとっくにフランスに国籍を移していたし、日本に住んでいたのなんてほんの三年半程度。それ以外の時間の大半をドイツで過ごしてきた私にとって日本は故郷と言えるほどに懐かしむ場所でもなかったが、周りの目もあったし相手はどうやら若干ホームシックになっていたようだったしでなんとなく話をした。その話の最中で偶然にもあの三年半を過ごした母方の実家とその人の実家との場所が近く、小学校の学区がほとんど隣接していたことが分かったのだ。

 「もしかしたら知り合いがいるかもしれないから」と無理を言って連絡先を交換し、わざわざ後日送ってもらった小学生の頃の写真の中でも彼は同じ髪色をしていて、「日本人の地毛では珍しい色ですね」という話もした。それ以降も何度かテレビのニュースだったり雑誌だったり資料だったりで目にしてはその度に「染めないでこんな綺麗な色になるんだ」と思っていたから忘れるはずもない。そもそもあのカイザーと同じく新世代十一傑だとかなんだとか呼ばれている選手を忘れられるほどお気楽な頭の作りはしていない。


 それで、あそこにいるのは知り合いか、知り合いじゃないか。もちろん有名な人だからファンも多いだろうし、そのうちの一人が同じ髪色に染めた可能性があるのではないか。私は日本の有名人には疎いから、実は知り合いと同じ髪色をしている有名人がいる可能性も高いだろう。それらはあそこで現在フランス人に声を掛けられている人を助けない理由にはならないが、それでも知り合いでないのならなんとなく葛藤はある。

 そもそも知り合いだったとして、JFUの息のかかったこのホテルに滞在する理由は分かるが、どうして日本に帰国しているのだろうか。写真を送ってもらって髪色の話をして以降、知り合いとは連絡を取り合ってはいない。いないが、雑誌のインタビューだったりで軽く目にしていた感じでは帰国する気なんてなさそうだったのに。もしかして知り合いも例のプロジェクトのために帰国したんだろうか? でも、わざわざ帰国するほど日本のサッカーに期待しているような人だっけ。

 ……待って、理由思い付いた! パスポートの更新! そういえば十八歳以下は期限が五年だった。彼がスペインに渡った時と年齢と、そこから加算した今の年齢とを考えるに帰国の理由は多分それだ。


 知り合いが帰国する理由に思い当たった途端にそこにいるのが知り合いだとしか思えなくなってしまって、先程までの葛藤を一瞬で忘れた私は立ち上がって足早にそちらに向かう。だってフランス語喋れるとか聞いたことないし、基本的にサッカー中心の考え方をしている人だから、自分のファンに対してだっておざなりな対応をする可能性は低くない。スペインでもそういうことをしているらしい、という噂は耳にしているし、我がチームにも似たような奴は少なからずいる。そういう、外面を取り繕うことをしない選手とファンとの間に入るのも向こうでの私の仕事のひとつだった。
 こちらに来てまで同じようなことをしなければならないなんて複雑だが、どうせどの道私の意思なんて関係なしにこっちでも似たようなことをさせられるんだ。ならまあ、恐らく知り合いであろう人物を助けることぐらいしても罰は当たらないし、逆に徳を積めるはずだ。それにせっかく数年ぶりに会うんだから、少しぐらい特殊な再会の仕方をしたっていいだろう。私の中では既にあの赤紫っぽい髪色の人は知り合いとして結論づけられているのだ。

 二割の打算と八割の善意を胸にある程度近寄ってから「失礼」とフランス語で声を掛ければ、観光客とその観光客に話し掛けられていた相手とは同時に私の方を向いた。観光客が体をこちらに向けたので相手の顔が確認できたが、そこに居たのは予想通りの人物だった。そうだろうと思っていたので特に驚くこともなく、軽く目礼をしておく。
 私とこんなところで会うとは思っていなかったらしく、分かりやすく驚いた顔をしている彼はトレーニングウェアを着ているからランニングでもしてきた帰りなのだろう。養父もよく朝から走っている。サッカー選手はみんなトレーニングが大好きだからね。実体験に基づいた偏見だ。

 こちらをまじまじと見つめる知り合いとは、先述した通り数年ぶりの再会ではあるが特に感動的な再会シーンを演出するような仲でもない。私はすぐに視線を観光客の方に戻した。そのまま出来るかぎりにこやかに笑いかけ、彼はフランス語が分からないので私が対応をすること、諸事情あって帰国しているがここで彼と会ったことは内密にして欲しいことなどを伝えていく。本人も特に何も言ってこないから私が勝手に話を進めていいのだと認識した。
 私のことを彼のマネージャーか何かだと認識した観光客は鷹揚に頷いて、「彼のファンなんだ。まさか会えるなんて思っていなかったから嬉しい。日本で試合の予定でもあるのか?」と聞いてきた。うん、知らない。それこそ本物のマネージャーであれば知っていたのだろうが、私はマネージャーではないし、そもそも彼の所属するチームの関係者でもない。

 そういえばマネージャーはどこなんだ、まさか一人で帰国したわけじゃないよなと今更なことを思いつつ、僅かに体を傾けて彼の耳元に口を寄せて、そこから更に手で自分の口元を隠す。こうしている間にもチェックアウトのためにかスーツケースを手にロビーまで降りてきた日本人と思われる数名も彼に気付いたようで何かを小声で喋っているし、フロントスタッフもチラチラとこちらを気にしている。一応何を喋っているかバレないように、という配慮だ。

「日本で試合の予定は、って聞かれてるんですけど」
「ない」
「了解」

 記憶にあるよりも幾分か低くなったような気がする声に「声変わりか」とある意味当然のことを考えながらも、すぐに体を観光客の方に向き直して「いいえ。試合の予定はありません」と答えた。そのまま毒にも薬にもならないような会話を続ける。そうしているうちにカウンターの方からも観光客の知り合いであろう数人が寄ってきたが、それぐらいのタイミングで背後から「早く帰りたい」とばかりのオーラが発されるようになり、自然と解散の空気になった。解散の空気に「させた」と言い替えてもいいだろう。

 最後に握手を求められたが適当な理由をつけて断って、今から近場の神社にお参りするのだという観光客たちに手を振って見送る。完全にその背中が見えなくなって自動ドアも閉まってから、私はため息をつきつつ振り返った。そうして、ようやく解放されたという顔をしている知り合いを見上げて口を開く。

「あのねえ、もうちょっと愛想良くしたらどうなんです。最初の方、何も言わずに無視してたでしょ。私がいなかったらどうするつもりだったんですか」
「あのまま声掛けられ続けてたらマネージャーを呼ぶつもりだった」
「声掛けられ続けてたらって……はあ、それでそのマネージャーさんはどこに? 一緒じゃないんですか」

 何故自分が小言を言われなければならないのか、とばかりに不服そうにしている知り合いに、カイザーやネスに普段しているように悪態をついてやりたくなりながらもなんとか堪える。エメラルドに似た色をした瞳は感情を取り繕うことをしない。私の問いに対して憮然と「ランニングに連れてくわけねーだろ。部屋じゃねえの」と答える口も同様だ。あのまま放置していれば、相手になにか失礼なことを言っていただろう。あの時の私の判断は間違いなかった。
 良くも悪くも自分のペースを貫くつもりであるらしい知り合いは、私が視線を斜め下に向けてため息をつき、苛立ちを誤魔化すように前髪をかきあげている間にも「お前こそ父親は?」と聞いてきた。まるで私が父と来日していることを前提にしているかのような聞き方だ。顔を上げ、じとりとそちらを見つめる。

「父は今頃自宅で寝ているはずです。今回はDFBの仕事で私だけ来たの」
「へえ」

 バッグから社員証を取り出して顔の前でひらひら揺らせば、伸びてきた手にひったくられた。は? 見せてやるという意味ではあったが、貸してやるという意味ではなかったのだが。

「名刺あげますから、それは返してくれません?」
「いらねえ」
「どっちが」
「どっちも」

 手に取った社員証は一瞥したあとに投げ返され、私はそれを釈然としない気持ちで再びバッグにしまった。これがなければこの後合流する帝襟さんに身分を証明できないし、このためだけに用意された社員証をなくしたどころか奪われたともなればDFBにも怒られてカイザーとネスには笑われる。それを考えるとすんなり返してもらえたのは喜ばしいことだ。しかし、ここまで取り付く島もなく名刺を断れるのもムカつく。わざわざ日本のビジネスマナーに関する本を何冊も買ってめちゃくちゃ練習したんだぞ。

 今日までの諸々の準備の中でも大変だったあの練習の日々を思い出して苦い気持ちになっていたのだが、そういえば確認したいことがあったのだと思い出した。気持ちを切り替えるように軽く頭を振ってから再度口を開く。

「あなたはどうして日本へ?」
「パスポートの更新。もう終わったから今日スペインに戻る」
「へえ。なら私とちょうど入れ替わりみたいな感じですね。じゃあずっとこのホテルに泊まってたのかな。ここのカフェのエッグベネディクトが美味しいって聞いたんですけど、食べました?」
「オレは食ってねえけどマネージャーが何回か食ってたな」
「ってことは、リピートするぐらいには美味しいのか……ああ、引き止めてごめんなさい。汗も流したいでしょうし、解散しましょう。シャワーを浴びたら早めにドライヤーしてくださいね」
「は?」
「……」
「……お前まさか、いつも父親にそんなこと言ってんのか……?」
「父ではなく、チームの馬鹿たちに……あの、言い訳してから言うのもなんですけど、どの道恥ずかしいことに変わりなかったので今すぐ忘れてください」

 鏡を見なくたって赤くなっていると分かる顔を片手で覆い、もう片方の手は相手の視線を遮るためにお互いの間に翳す。今更ながらに周囲の視線も痛くなってきた。普通に話してしまっていたけれどこの人は有名人だし、私だって一部の界隈ではそれなりに顔を知られている。変な風にSNSに書き込まれたらどうしよう。あとで色々チェックしなくては。

 それにしても、今のは本当に最悪な失言だった。この異国の地で数年ぶりに会う知り合いと話すうちについつい気を緩め過ぎてしまったのがどう考えても失言の原因だ。チームの馬鹿、主にカイザーを脳内で罵倒しながら、ちらりと視線を上に向ける。相手は予想通りに「ドン引きしています」という顔をしていた。うっせ! あの馬鹿が変な甘え方してくるのに慣れちゃったんだから仕方ないだろ!


 ごほんと咳払いをひとつ。こんなことをしている間にも帝襟さんが来てしまうかもしれない。どうやらこの人は例のプロジェクトに関わっていないようだし、帝襟さんと鉢合わせてご挨拶、みたいなことになる前にさっさと部屋に帰ってもらおう。

「久々に会えて嬉しかったです。部屋までお気を付けてお帰りください」

 そう言いながらエレベーターの方を手で示す。が、私が空気を変えたがっていることに気付いているだろう彼は、「コイツに従うのはなんか嫌だな……」という顔で一歩も動かなかった。そのまましばらく笑顔でエレベーターの方に手を向ける私と憮然とこちらを見つめる彼とは見つめ合った。……もしかして目を逸らしたら負けるバトルか何かが始まってる?
 それなら相手が逸らすまで絶対に私からは目を逸らさない、と決意を固めたちょうどその時、ひとつため息をついた彼はエレベーターに向かって歩き出した。そしてそのまま、ちょうど到着したエレベーターに乗り込んで消えていった。


 私は突然彼が動き出したせいでなんとなく状況が飲み込めないままその背をぼーっと目で追っていたが、エレベーターの扉が完全に閉まったタイミングでハッとしてようやく思考が動き出す。再会が突然なら別れも突然。そういうことなのか。

 そんなことを考えている間にも、一人になった途端に周囲からの視線が集まっていることが嫌でも分かってしまい、なんだか急速に居心地が悪くなってきた。取り敢えず先程と同じようにソファで帝襟さんを待とうと踵を返したのだが、ちょっと歩いただけでも周囲の視線がついてくる。
 ちらりと周囲を伺えば、何人かはスマホを手にしつつ私と先程彼が消えていったエレベーターの方をチラチラと見ていた。その様子になんとなーく嫌な予感がするのは絶対に勘違いじゃない。これはアレだ。炎上直前の空気感。カイザーの炎上に散々付き合わされてきた私が言うんだから間違いない。絶対SNSにあることないこと書き立てられるんだ。いいや、きっと今この瞬間にも書かれている。泣きそう。


 面倒なことになってしまった。ひとまず帝襟さんに謝って、この後顔合わせをすることになるであろうJFUの会長にもご迷惑をお掛けすることをお詫びして、DFBにも連絡を入れなきゃいけないし、養父にも謝らなくちゃ。それから私をこの空気の中に放置してさっさと帰っていった知り合いにも連絡した方がいいんだろうか。いいんだろうな。早く部屋に戻れと促したのは私だけど、でもなんか置いていかれたことを恨みたくなってくる。いや、ここに残ってても色んな意味で面倒なことになってはいたんだろうけど、それでもね。

 慌ただしくスマホをバッグから取り出してメッセージアプリを開き、誰に連絡を一番最初にいれるか迷ったのはほんの数秒だ。全員面倒で、全員嫌。なのでその中だと一番楽そうで何より当事者である知り合いの名前を探す。
 最後に連絡を取ったのが数年前だから当然彼との会話は全然見つからなくて、画面をスクロールして名前を探すことは早々に諦めた。アプリの検索欄にフルネームで名前を入れて、表示されたアイコンをタップする。私からの「ありがとうございます」という一言で締め括られて終わっていた会話を数年ぶりに動かすのがこんなことだなんて、とは思うものの、もう仕方のないことだ。何を言っても現実は変わらないので、一言だけ「炎上するかも」と送った。

 送ってから気付いたけど、私は私だとバレずに知人女性Aさんとして処理される可能性もあるが、彼が彼だとバレない可能性はゼロである。文章的には「炎上するかも」より「炎上する」の方が正しかったな。


 ちょうどそのタイミングでエレベーターの到着を知らせる控えめなベルの音が鳴った。誰かが降りてきたらしい。静かだから団体客ではないだろうなと現実逃避のように考えながらも、全然既読のつかない画面を意味もなく爪で弾く。もう部屋には着いているはず。早速シャワーを浴びているんだろうか。だとしたら既読がつくことを待つことなく他の人に連絡を──あ、既読ついた。

 その時、可愛らしい声が慌ただしくも私を呼んだ。全く同じタイミングで「なんで」と簡潔なメッセージが表示される。それから誰かが「やっぱりミュンヘンの魔女だ」と囁く声も聞こえてきた。


 そんな声を背に、私は錆び付いたブリキのおもちゃを無理に動かすみたいにして首を動かして顔を上げた。写真で見たまま声に違わず可愛らしい女性──つまりは帝襟さんが、私の方に不自然に集まる視線に目に見えてビクつきながらもこちらに駆け寄ってくる。可愛い、それに理想のプロポーションだな……。そんなふうに二度目の逃避をしている間にも私の真横に到着した帝襟さんは今度は小声で私の名前を呼んで、「遅れてごめんなさい。何かありました?」と聞いてきた。対する私の声は申し訳なさ五割の絶望感五割。

「すみません帝襟さん、炎上します。いいえ、恐らくもう既に炎上しています」
「えっ」
「実はですね、さっきまで偶然、本当に偶然、たまたま、ここで知り合いと喋ってたんです」
「……知り合い、とは……」
「帝襟さんもご存知、日本の至宝……」

 そう言って、スマホの画面を帝襟さんに向ける。私が既読を付けたっきり返事をしない間にも送られてきていた彼からメッセージは二通。一通はSNSアプリのとあるページへのリンクで、もう一通は「これか」という平然とした一言。会話の内容と相手の名前を確認してかスッと顔色を悪くさせていく帝襟さんに土下座して謝罪したくなりながらも、画面を彼女に向けたままそのリンクの辺りをタップする。私からはきちんとリンクが開けたかどうかは見えないが、更に顔色を悪くさせた帝襟さんを見るに成功しているらしい。全然嬉しくない。

「糸師冴が都内のホテルで美女と密着してた。彼女かも……」
「密着してませんし、彼女じゃないです」
「……続きも読んでいいですか」
「……お願いします」
「糸師冴の彼女、ミュンヘンの魔女っぽい……その後に、ミュンヘンの魔女って誰? バスタード・ミュンヘンのめちゃくちゃ可愛いって有名な職員だろ、と続いてます……」
「……」
「……」

 ゆっくりとスマホの画面から視線を私に移した帝襟さんと見つめ合う。帝襟さんは青白い顔でダラダラと冷や汗を流しているが、恐らく私もそんな顔をしていることだろう。せっかく入浴したのに、なんて言っている事態ではないが、せっかく入浴したのに、と思った。三度目の現実逃避だ。

「…………とりあえず朝ごはん食べに行きませんか」
「はい、行きましょう……本っ当に申し訳ない。ここでご迷惑お掛けする分、今後必ず挽回させていただきますので……」

 同じく現実逃避のために朝食を優先させることにしたらしい帝襟さんに謝罪をしつつ、周囲を見渡してスマホ片手にこちらをチラチラ見てくる奴らを脳内の「絶対訴えるリスト」にぶち込んでいく。顔覚えたからな。震えて眠れ。
 手の中で震えたスマホの画面に「糸師冴のマネージャーです。今回の件に関する対応についてご相談したいため……」と通知が浮かんだが、今は見ないふりをさせて欲しい。カフェに着いたら絶対返事をします。少しの間だけ現実から逃げさせて。

ふたつおりのひとひら