3話

 仕切りにシャッターを切る音。たくさんの人がザワついたことで生まれるどよめき。それらが部屋中を支配しようとするその間も決して止まることの無い、帝襟さんのどこまでも真っ直ぐな声。眩しくて思わず目を細めてしまったのは、会見用に設置された明かりのせいなんかじゃない。


 イベントホールの奥の奥、沢山のカメラと記者を前にして、帝襟さんは怯むことなく夢を語っている。今日この日のために養父が見繕ってくれたスーツに着替えて髪を纏めた私は一番後ろで扉横の壁にもたれて、事前に渡されていた資料を片手にその話を聞いていた。マスコミが話について来れているかは別として、今のところ会見は順調に進んでいる。帝襟さんが上手く会場の空気を掴んだと言っていいだろう。

 朝の騒動の後、私たちは平常ぶって朝食を食べながら各所への連絡や対応に追われていた。本来ならば私が責任を取るべきところだったが、「私が遅れたせいでもありますし、部下一人に責任を押し付けられませんから!」と文字どおり胸を張った帝襟さんも尽力してくれて、幸いにも騒ぎはそこまで大きくならなかった。
 相手側──つまりは糸師冴の方でも「パスボートの更新のために帰国してたまたま会っただけのただの知り合い」と訂正してくれたのが良かったのだろう。マネージャーさんにご迷惑をお掛けしていることを電話で詫びた際にも「こちらも悪いから」と逆に詫びられてしまったし。

 とはいえ、当然ながらDFBにはそれはもう怒られた。「他国のフットボール協会にまで嗅ぎつけられたらどうするんだ」とのことだ。そう言われるとこちらとしては「申し訳ありません」と謝る他ない。「SNSでも例のプロジェクトは相当話題になっているんだし、もうとっくに世界中のみなさんがご存知なんじゃないですか」とは決して言えないのだ。バスタード・ミュンヘンの職員として雇用されている私だが、DFBの社員証を握らされている今はあの人たちが上司の上司みたいなものだからね。

 それに私が下手を打つと養父にまで飛び火しかねない。それは困る。だから極力上司には媚を売って従順でいる。よって、今手元にある例のプロジェクトことブルーロックプロジェクトに関する資料も概要を纏めたものをあとでこっそりDFBに転送する。初日から面倒事を運んできた私にあんなに親切にしてくれた帝襟さんへの裏切り行為になってしまうが、私は本気だ。


 朝の炎上騒動への対応に追われて未だにろくな説明は受けられていないが、渡された資料を見れば概要や目的、拉致……ではなく参加している選手のことなんかは分かる。帝襟さんが熱く語る声と報道陣のざわめきを聞きながら、選手名簿を眺めた。五十音順に並べられているらしいその中に知っている苗字や名前がいる可能性は低いが……あ、いた。
 上から四番目に書かれていた苗字はよく知っているものだった。いや、「よく」は言い過ぎたかもしれないけど、とにかく知ってる。簡易名簿だから住所や電話番号は書かれていないけど、そもそも知り合い本人の住所も電話番号も知らないから、書かれていたところでなんの判断材料にもなりはしない。

 でも本人にわざわざ聞くことでもないよなあ、と名簿を見下ろしながら考える。書かれている年齢的に血縁ならば弟だろう。弟がいると聞いたことがある気がする。それに私は日本人の中でどの苗字が多くてどの苗字が少ないかなんてことよく覚えていないけれど、結構珍しい苗字なんじゃないだろうか。だって、『糸師』なんてそんなに聞いたことないし……。

 まあ、日本人の苗字とかフランスとドイツじゃそもそも滅多に聞かないんだけど、と結論付けたタイミングで、帝襟さんが「会見は以上です」と宣言した。顔を上げて目の前に並ぶカメラの合間を縫うようにして前を見れば、立ち上がった帝襟さんは満足気にしている。言いたいことは言えたらしい。ここにいる間、書類上私は帝襟さんの部下。優しくて可愛くて良い人な上司がやりたいことをやれたなら何よりだ。
 そのまま帝襟さんと、いつの間にか一言も発さずに空気のようになっていたJFUの会長は退席していき、僅かな沈黙の後に火がついたように騒ぎ出したマスコミに対して司会が「質問には後日文書でご回答いたします」と会見を締めに掛かる。それを横目に私も踵を返してイベントホールから出た。これ以上この場にいても意味は無い。予定通り帝襟さんと合流しよう。

 そうして通路を右に曲がって一秒。なんと今朝の炎上騒動以来の糸師冴がそこにいた。

「あっ」
「……仕事ってこれか」
「えー、まあ、うん……あの、ダバディさん、今朝の件ではご迷惑お掛けしてしまい申し訳ありません。ご挨拶が遅くなりましたが、私、本日付でDFBよりJFUに出向している、こういう者です」

 思わず見つめ合いながら立ち尽くしてしまったが、ムッとした顔で尋ねられれば答える他ない。それでも、糸師冴──砕けた呼び方をするなら、冴くんは他国のチームの選手。何が機密に差し障るか分かったものではないので出来るかぎり誤魔化すために言葉を濁してマネージャーさんに頭を下げた。そもそもタイミングが合わなかったし、更なる炎上を避けるためにも対面することは避けたので、マネージャーさんとの顔合わせは多分これが初めてだ。
 そのままポケットから名刺ケースを取り出して、冴くんを押し退けるようにしてマネージャーさんに名刺を渡す。冴くんには舌打ちされたが無視。マネージャーさんも冴くんの舌打ちは無視して「これはご丁寧に」と言いながら名刺を受け取ってくれた。練習の合間を縫って養父やカイザーたちを巻き込んで繰り返し練習した甲斐あってか、恙無く名刺交換ができた気がする。嬉しい、練習しててよかった。


 場違いではあるが初めての名刺交換が成功したことを喜びつつ、今度は押し退ける形になってしまった冴くんと向き合った。まだムッとしてる。なんだ。名刺が欲しいのか? さっきいらないって言ったの自分じゃん。
 どういう意図の表情か分からないため一応名刺を取り出したのだが、フッと顔を背けられた。はあ? なんかムカつくな。今の私はカイザーやネスに対するのとは違うタイプのムカつき方をしているぞ。

 そのまま冴くんは何も言わなかったが、一度取りだした名刺を仕舞うのも負けた気がして嫌だったので、何も言わずに彼のシャツの胸ポケットに名刺を押し込んでおいた。そのまま洗濯に出して怒られろ。


 そうしている間にも背後がざわめき出した。イベントホールから報道陣がそろそろ出てくる頃合いだろう。私たちが一緒にいるところを見られたらなんやかんやと言われかねないし、朝の件に関して否定した事が無駄になる。それは嫌だったので、何故か驚いた顔をしているマネージャーさんに「歩きながら話しませんか?」と促して、返事は待たずに歩き出した。二人分の足音が続いていることを確認しながら口を開く。

「今日スペインに戻られるんですよね。フライトは何時頃です? このまま空港に向かわれるんでしたら、エントランスまでタクシーを呼び付けましょうか」
「戻るのはやめた。しばらくこっちに残る」
「……ダバディさん、これってどういう意味なんですか?」
「糸師ちゃん、さっきの会見見てから急にこんな感じになっちゃって……」
「このタイミングで日本に出向してるっつーことはあのプロジェクトに関わってんだろ。資料寄越せ」
「機密です、無理です」

 話をしているうちに辿り着いたエレベーターホールで、二人を先導するように歩いていた私はようやく立ち止まって振り返る。資料が狙われていることは分かっていたのでバインダーごと両手で胸の前で抱き締めるようにしながら、冴くんをじとりと見つめた。ダバディさんはとても焦って冴くんを止めようと「考え直そう」「フライトまでもう時間が」と言葉を尽くしているが、冴くんは憮然と私に手を向けた。手のひらを差し出すようなそれは、『資料寄越せ』のポーズだ。
 しかし私もこう見えて社会人。それもDFBの、ひいてはドイツのサッカー界の威信を背負ってここに立っている。機密の流出なんて絶対ごめんだ。日本からドイツに機密を流出させようしている奴が何を言っているんだ、とは言わないでくれ。

 見つめ合う私と冴くん、コミカルに両手を振って汗をかき慌てるダバディさん。私たちの視線が徐々に睨みを効かせたものになり、ダバディさんが冴くんを呼ぶ声はどんどん悲痛なものになっていく。一足先にイベントホールを抜けて随分足早に進んできたとはいえ、そろそろ報道陣は到着するのではないか。そうしたら面倒事どころの話じゃなくなってしまいそうだ。だけどそれでも絶対に、この資料は渡さない──。
 いっその事走って逃げてしまおうかな、と思ったその瞬間、スーツのポケットに入れていた携帯が震えた。一拍遅れて、初期設定のまま変えていない着信音が鳴り響く。ダバディさんが両手をあげた変なポーズで固まって私を見つめ、冴くんは顎でこちらを指して「出ろよ」と言った。言われなくたって出るよ。

 資料を抱き締めていた両手の力を緩め、ポケットに手を伸ばそうとし……私は固まった。一瞬忘れかけていたが、なんのために資料を抱き締めていたのかを思い出したのだ。その途端に、もしや電話に出た瞬間に資料を奪うつもりでは? という疑念も浮かび上がってきた。

 動いたと思ったらフリーズした私と、困り顔を浮かべて私と冴くんとの間で視線を行ったり来たりさせているダバディさんと、それから依然として手を差し出したままの冴くん。なんとも言えない膠着状態が続いたのはほんの数秒だった。ため息をついた冴くんが一歩踏み出して、差し出していた手を私のスーツのポケットに突っ込んでスマホを取り出したのだ。そのまま冴くんは画面に触れてなにか操作したかと思うと、スマホを耳に寄せて「もしもし。あ? 糸師冴だけど」と口にした。
 そのまま、まるで自分の携帯で友人と会話をするような気安さで「どこ連れてきゃいいんだよ。今? 二階のエレベーターホール」と喋り出した冴くんをしばらく眺めていたのだが、ようやく事態を飲み込んだのかダバディさんが「あっ!」と声を上げ、続いて私も「おい!」と叫んだ。そのまま資料をダバディさんに押し付けて、冴くんに掴み掛かる。

「返っ、返せ!」
「うるせえな、聞こえねえだろ」
「知らないよ! それ私のスマホだし! 大体誰と電話してんの?」
「知らねえ」
「はあ⁉︎ 知らない人からの電話出んな! 待って、パパじゃないよね⁉︎」

 高く掲げられたスマホを冴くんから奪い返そうと、その肩に手を置いて出来るだけ背伸びする。冴くんは仰け反るようにして更にスマホを高く掲げ、私も半ば飛び跳ねるようにしてスマホを奪い返そうと必死になった。ダバディさんが「二人ともストップ」と言っているがお説教はスマホを取り返してから聞く。

 というか、結局今は誰と電話をしてるんだ。一度飛び跳ねるのはやめて、再び冴くんの肩に手を当てて爪先立ちになって目を細めた。冴くんは日本語で話していたから養父ではないはず。だけど、養父以外にだって冴くんに電話に出られると面倒な人はたくさんいるのだ。
 画面を睨むようにして見つめ通話相手の名前を読み取る。えーっと、帝襟アンリ……。

「いや、帝襟さんじゃん! その人私の上司! なんで勝手に電話出てんの⁉︎」
「お前が出ねえから代わりに出てやったんだろ」
「出てやったって、私そんなの頼んでないもん! 帝ッ、襟ッ、さんッ! お待たせして、すみませんッ! 冴くんからスマホ取り返したら、すぐッ、そっち行くので! ねえ冴くん返して! そろそろ怒るよ!」

 俄然スマホを取り返さなければならない理由が出来てしまった私は、もう必死でスマホに向かって手を伸ばす。十センチ近くありそうな身長差が憎い。

 聞こえてるかどうかも分からない帝襟さんへの謝罪と冴くんへの文句を交互に叫んでいれば、気付けば他所を向いていた冴くんが私の名前を呼んだ。私の名前なんてよく覚えてたなと思いながらも「なに⁉︎」と声を荒らげる。冴くんはそんな私を気にすることも無く、在らぬ方向を向いたまま呟いた。

「写真撮られてる」
「へー、ふーん、そうなの……そうなの⁉︎ 誰が⁉︎ なんで⁉︎」

 それってそんなに平然と言うことなの⁉︎ と続けて叫びながら、一旦スマホは諦めて慌てて冴くんの視線を追った。そこには、興奮も顕にカメラを構える数名の男女がいて、彼らの腕に巻かれた腕章には今日の会見で取材に入ると聞いていた新聞社やテレビ局の名前が書かれていた。もしかしなくても、彼らはカメラマンと記者である。

 状況が上手く理解出来ず呆然としている間にも何度かシャッターが切られた。
 は? ……は? これは一体どういう、と視線をダバディさんに向ければ、彼は小声で「離れて!」と繰り返している。ああなるほどね……肩に手をね、置いたままだったから……肩に手を、置いたままだったから⁉︎

 今更ながらに言い訳のしようがないほどに冴くんに近付いてしまっていたことを思い出し、飛び退くようにして距離を取った。そのまま逃げるようにエレベーターの操作盤に飛び付いてボタンを連打する。逃げるように、というか、逃げるために、だ。
 幸いにも一階に止まっていたエレベーターはすぐに動きだし、到着を知らせるベルも鳴る。開いた扉の中に駆け込んで、それからまたエレベーターから飛び出した。スマホ返してもらってない!

 最早混乱のあまり正常な判断が出来なくなった頭と体で冴くんに駆け寄って、思いっきりその手を引く。まさか私が戻ってきて剰え自分を連れて行こうとするなんて思っていなかったのか冴くんはちょっと驚いた顔をしていたけれど、想定外の動きだったからこそなのかなんなのか思っていた以上にすんなりと動いてくれた。そのせいで逆に私はたたらを踏みながらも、冴くんの手を引いたまま、またエレベーターに乗り込むことに成功した。そして再びボタンを連打。その途中で「あっダバディさん置いてきてる」とは思ったがもう戻りたくなかったし、そんなことを考えている間にも扉は閉まった。
 エレベーターの扉が閉まってすぐ、先程までの驚いた顔はどこへやら、冴くんは普通の顔で二十五階のボタンを押した。元々帝襟さんと合流する予定だった、私たちの泊まっている部屋のある階だ。どうやら冴くんは先程の帝襟さんとの連絡でそこまで聞き出していたらしい。


 ゆっくりと動き出したエレベーターの中。壁に埋め込まれた鏡に映る私の表情は引き攣っていた。せっかく上手くいったと思ったメイクも疲れきった表情のせいで霞んでいる気がする。養父に選んでもらったスーツも、こんな疲れきった顔をしていると全体的にくたびれて見えた。

 そうやってぼんやりと鏡で全身を見ているうちに、冴くんと鏡越しに目が合った。ムカつくぐらいに綺麗な色をした瞳としばらく見つめ合い、ようやく手を繋ぎっぱなしだったことに気付いて手を解く。
 ……本人には言わないが、視線でアピールするな馬鹿。赤ちゃんじゃないんだから伝えたいことは口で伝えろ。カイザーだって言いたいことは言葉で伝えてくるのに……まあアイツのアレは、伝えるというよりかはボロクソに扱き下ろすと言った方が正しいかもしれないけど。

 それを思うといっその事何も言わない冴くんの方がマシなのか? 首を傾げたくなりながらも、ひとまず鏡に背を向けて冴くんに手を差し出す。さっきとは逆だ。これは『スマホ返せ』のポーズ。
 もう私からスマホを奪う意味もなくなったのか、冴くんは先程までとは違ってすんなりとスマホを返してくれた。そもそも私からスマホを奪う意味ってなんだよって感じなんだけどね。それこそ初めからそんなものないだろ。

 とにかく、ようやく返ってきてくれたスマホの電源ボタンに触れてもう帝襟さんとの通話は終わっていることを確認する。帝襟さんがどのタイミングで通話を切ったのかは分からないが、全部聞かれているのと途中までしか聞かれていないの、どっちの方が楽だろうか。ギリギリ前者かな……? 自分の口から全部を説明するのはいたたまれないから、出来れば遠慮したい。
 スマホの画面の明かりを落とし、小さくため息をつきながらスーツのポケットに仕舞い込む。そのまま顔を上げ、冴くんを見上げた。冴くんは相変わらず普通そうな顔だ。私だけが疲れているようで、それもまたムカつく。

「冴くんと一緒にいると面倒事ばっかり」
「こっちの台詞だ」
「……ねえ、冴くんって誰にでもそうやってツンケンしてるわけ? それって冴くんだけ? それとも弟くんもそんな感じなの?」
「……弟がいるなんて言ったか?」
「前に教えてくれたでしょ。あとブルーロックの名簿に、えーっと、糸師凛くん、だっけ……その子が弟くんかなって思ったんだけど、ダバディさんに名簿ごと渡しちゃったのか」

 冴くんをこっちに連れてきてしまった以上合流することになるだろうし、もう諦めてしまっているけど朝の炎上騒動以上の騒ぎになることは間違いないからどうせ顔は合わせるだろう。その時に返してもらえばいいや。


 エレベーターが止まり、扉が開く。二十五階に到着したようだ。でも斜め前の背中がなかなか動かない。どうしたんだろう。何か声を掛けようかと思ったが、そのタイミングでようやく冴くんは歩き出してエレベーターを降りた。私もその背を追うようにしてエレベーターを降りて、何歩か先を歩いている冴くんの元に小走りで近寄る。そして隣に並び、少し迷ってからその顔を覗き込んだ。うわ、怖い顔。

 何を考えているのかまっすぐ前を見て眉間に皺を寄せている冴くんを覗き込みながら、早足でどんどん進んでいってしまうので合わせて小走りになること数秒。徐に私の方を見た冴くんが今度は呆れた顔になってわざとらしくため息をつき、僅かに歩幅を緩めてくれた。おかげで私もようやくゆっくり歩ける。

「疲れたあ。どっかの誰かさんが身長差も気にせずになっがい足でズカズカ早足で歩くせいで走らされちゃった」
「どっかの誰かさんの足が短いのがわりーんだろ」
「ウザ! 冴くんと比べたらそりゃ短いっつーの! あー、傷付いた! 冴くんに傷付けられた! 罰として、アレね。このあとの説明全部してね」
「やだ」
「私だってやだよ。っていうかなんでここまで来たの? 滞在伸ばすんなら部屋戻ればいいでしょ」

 今更ながらもっとも疑問をぶつければ、冴くんは「今更何言ってんだコイツ」という顔で私を見下ろした。

「機密だ何だっつってお前が資料寄越さなかったから、もっと偉い奴に資料寄越せって直接言いに行くんだよ」
「なんで私のせいみたいな言い方してんの?」
「お前のせいだからだろ」
「どこが」
「全てが」

 どう考えたって全てが私のせいなわけないだろうが。

 朝の炎上騒動もさっきマスコミに写真を撮られたのも客観的に捉えて私と冴くんの責任は半々ぐらいで、私が冴くんに資料を渡さなかったのは完全に私のファインプレー。悪いのは冴くんだけだ。
 大体、こうして資料を取りに来たり出来るんなら私から奪おうとしないで欲しかった。それを考えるとさっきマスコミに撮られたのだって六割は冴くんのせいじゃない? 絡んできたの冴くんだし。


 ぶつぶつ文句を言いながら、静かな通路を進んでいく。奥の方に会議室があって、そこでJFUのスタッフは作業をしていると事前に帝襟さんに説明を受けていた。会見終わりの集合場所もそこに設定されていたので向かっているわけだが、迷いなく進んでいく冴くんもそのことは知っているのだろうか。帝襟さんはあの短い会話でどこまで冴くんに情報を引き出されてしまったのだろう。この人といるとどうにもペースが狂いますよね、分かります。

 内心で帝襟さんに同情しながらもいくつめかの角を曲がれば、正面に半分だけ開かれた扉が見えた。イベントホールのそれと比べるとひとまわりもふたまわりも小さいが、それでも十分な大きさだ。奥って言ってたし、多分ここだろう。そのまま歩を止めずに扉の傍までより、中を覗き込む。そんな私を無視して、冴くんは堂々と入室していった。ほんとそういうところだと思うな。間髪入れずに「えっ⁉︎」という帝襟さんの叫びも聞こえてきたので、慌てて私も続く。

「なんでここに糸師冴くんが……」
「ブルーロックプロジェクトとやらの資料、寄越せ」
「すみません帝襟さん……この人こうなるともう全然言うこと聞いてくれなくて」

 入室早々、要件だけを口にする冴くんと驚いてフリーズしている帝襟さんの間に割って入り、後ろ手で「資料寄越せ」ポーズになっていた冴くんの腕を抑える。まずは名乗って、突然入ってきたことを詫びるのが社会人の基礎。彼はまだ社会人じゃないけど、ヨーロッパの大体の国の成人年齢は十八歳で冴くんだって十八歳なんだから、向こうでは成人として扱われてもおかしくないのだ。それならそれ相応の振る舞いをした方が冴くんのためにもなる。
 背後から聞こえてきた不機嫌そうな「おい」を「ちょっと黙ってて」と押し切って、帝襟さんに頭を下げる。

「申し訳ありません。この人といるところをマスコミに撮られてしまいました。今はこの人のマネージャーさんが対応してくださってるんですけど、こちらからも早急に動きを掛けないと、週刊誌とか、下手したら今日の夕刊とかに載ってしまうかも……」
「それは……分かりました、すぐにマスコミ各社に」

 また仕事を増やしてしまうことを申し訳なく思いながらも顔を上げれば、帝襟さんは「大丈夫ですよ!」と微笑みかけてくれた。なんか涙が出てきそう……可愛くて優しくて判断も早くて優秀とか最高の上司だ。たった一日で仕事を倍以上に増やしてしまってごめんなさい。これから日本にいる間は何があっても帝襟さんを献身的に支えてみせます。
 そう固く決意して、「私もやります」と帝襟さんの方に行こうと一歩踏み出した時、部屋の奥の方でギッと椅子が軋む音がして、直後に「いいよいいよ」と声がした。なにが? と思いながらもそちらを見る。紙の束を片手にニヤニヤ笑いながらご機嫌そうにこちらに歩いてくるのは、JFUの会長の不乱蔦さんだ。この人ここに居たんだ。全然気付かなかった。やっぱり空気に溶け込むのが上手いな。

 若干失礼なことを考えつつも、そういえばまだ挨拶を済ませていなかったことを思い出して名刺ケースを取り出そうとしたのだが、こっちを見もせずに「そういうのいいから」と片手で制されてしまった。は? 受け取れ。名刺交換は社会人の基礎中の基礎だろ。

 浮かぶ悪態を必死で押し留め、引き攣る口角を無理矢理吊り上げて微笑む。私はDFBの職員、私はDFBの職員、私はDFBの職員。
 私がそんな風に表情を取り繕うことに必死になっているとは露知らず、私と冴くんの目の前で止まった不乱蔦会長は呑気に口を開いた。

「マスコミはさあ、そのままにしといていいから」
「……黙って報道させておけ、ということでしょうか?」
「そうそう。はいこれ、ブルーロック関連の資料」
「ちょっと、会長!」

 JFUの会長がしたとは思えない発言に思わず顔も声も険しくなってしまったのだが、そんなことは気にも止めずに不乱蔦会長……会長と呼んでいい人格をもちあわせていなさそうなので不乱蔦さんと呼ぶが、とにかく不乱蔦さんはその手に持っていた資料を何も躊躇わずに冴くんに渡した。帝襟さんが慌てて立ち上がって声を上げ、私もギョッとして斜め後ろに立っていた冴くんを振り返る。一気に注目の的になった冴くんは、そんなことは気にせずにお得意の普通の顔で手の中の資料を捲った。

 その際にチラッと見えたけど、それは私が極々僅かな関係者にしか渡せない社外秘のものとして帝襟さんからいただいて、万が一どこかで落としたりしても嫌だからと部屋に置いてきたものではないだろうか。そのレベルのものを部外者にこんな風にポンッと渡しちゃうような感覚の人が、JFUの会長……。


 資料をパラパラ捲っている冴くんから、帝襟さんの猛烈な抗議を受けている不乱蔦さんに視線を移す。帝襟さんは部外者に勝手に資料を渡したことをすごく怒っているけれど、不乱蔦さんはのらりくらりと交わしている。傍から見ても、暖簾に腕押しといった様相だ。何も響いていないのだろう。
 そんな状態で抗議をしても意味はない。自分が優位に立っていると信じきった権力者には弁論なんて通用しないのだ。通用するのは暴力のみ。

 帝襟さんには悪いけど、その言葉を遮って「あの」と声を上げる。面倒そうな顔で帝襟さんの言葉を聞き流していた不乱蔦さんは、今度は不自然なぐらい「どうかしたかな」とにっこり笑って私に言った。露骨なガキ扱いだ。一応これでも、他国から派遣されてる正規の職員なんだけどな。

「先程の、マスコミへの対応はしなくていい、というのはどういう意図のお言葉なのでしょうか? 火のないところに放火してでも煙を立てるのが昨今のマスコミです。放っておけば確実に面倒なことになります。写真を撮られたのは確かに私たちのせいですが、ろくな理由もなしに一切の対応を禁じられるのには納得が行きません」

 ここで感情的になるのはナンセンスだ。理由を求めて、提示されたその理由の穴をついて自分に有利な方に運ぶことを優先しなければならない。私だけならともかく一緒に写真を撮られてしまった人がいて、その人には当然未来がある。
 それにこういう風に私の名前が使われると、養父にまで飛び火してしまう。私の名誉なんてものはもう焼け焦げて灰になってしまっているからどうでもいいけど、私を引き取るというリスクを選んでくれた養父の名誉まで落とすわけにはいかない。

 私が引き下がらないとは思っていなかったのか、不乱蔦さんは一気に面倒そうな顔になった。負の感情が全部顔に出るのも社会人として失格なのではないだろうか。会長職辞任して動物園に戻れハゲ狸。

「そんなかっかしないでよ。付き合ってるんでしょ? ならいいじゃん、別に」
「私たちは付き合ってませんし、何もよくありません。それがマスコミへの対応を禁止する理由ですか? そうなのでしたら、私は従いません」

 そんなクソみたいな理由に従えるわけがない。何が「付き合ってるんでしょ?」だよ。こうして会うのだって四年ぶりだっつーの。連絡ですら取ってなかったのに、付き合ってるもクソもあるか。マスコミもそうだけど、男女が二人でいるだけで何でもかんでも恋愛に結びつけるのやめてくれないかな。


 傍にあった椅子を引いて腰掛け、つまらなさそうに肘をついた不乱蔦会長を見下ろしながら舌打ちしてやりたくなる。責任ある立場の人が部下しかいない場でならまだしも、完全に部外者かつやがてはこの国の代表としてプレーをするかもしれない冴くんがいる場でこれ。正しくカイザー以下の、クソカスと言って差し支えない蛮行だ。これが上司の上司ってだけで辛くなってくる。帝襟さんはこんなのハゲの下でよく耐えてるな。私だったら三日持たない。

 無性にドイツに帰りたくなりながらも、ここで負けるわけにはいかないと頭を巡らせる。私のため、冴くんのため、ひいては養父のために。

「……マスコミの報道で私の名前が出てしまうと、本来ドイツにいるはずの私が何故日本にいるのか、それもJFUの会見が行われたホテルにいたのかまで説明しなきゃいけなくなるんですよ。どうなさるおつもりですか」
「あー……そろそろご両親の命日じゃなかった? 墓参りってことで」


 普通の顔で言い放たれたその言葉の意味を理解するのに少し時間が掛かった。「会長!」と声を荒らげた帝襟さんとあっけらかんと「ホントのことじゃん」と言っている不乱蔦さんを数秒間眺め、それからようやく何を言われたのかを理解して、私の喉の奥からは息を吸い込もうとして失敗したみたいな音が出た。そのままこの場で許されていいものじゃない言葉が出そうになってしまって、咄嗟に右手で口を覆って何歩か後退る。


 自分で分かるほどに尋常じゃない行動だ。もちろん周りから見ても異常に見える。私が倒れると思ったのか帝襟さんは駆け寄ってきて背中を支えてくれて、私が後退ったことで立ち位置が逆転した冴くんは資料から視線を上げてこちらを向いた。そうして、もうこれが今日で何度目か分からないが、ただただ何も言わずに私を見るだけのその瞳と見つめ合う。
 数秒そうしていれば、言われたばかりの嫌な言葉を繰り返すことしか出来なかった頭が徐々に動き出した。かわりにふつふつと怒りが湧いてくる。年下の小娘相手なら何を言ってもいいと思っているのであれば、動物園どころか母親の腹の中に帰るべきだろう。受精卵からやり直せよ。

 口を抑えていた右手で前髪をかきあげて、背中を摩ってくれていた帝襟さんに「大丈夫です」と告げる。冴くんはもう私を見てはいなかった。冴くんはそういう人で、それでいいと分かっているので気が楽だ。四年ぶりに会ってもこうなのは、私たちが良い意味で変わっていないのか、悪い意味で変われていないのか。


 まあ今はそんなことはいい。帝襟さんに支えられているままでは格好が付かないので一歩前に出て、不乱蔦さんをまっすぐ見下ろした。私の尋常ではない様子を見て流石に失言に気付いたのか若干申し訳なさそうな顔をしてはいるが、未だに肘をついている辺り私を舐め腐っていることに変わりはないのだ。それならそれでいい。それがJFUの判断だとDFBに伝えるだけだ。

「不乱蔦さんがどうお考えなのか、納得はしていませんが理解はしました。しかし、私は現在はJFUに出向しておりますが、本来DFBの職員です。このまま埒が明かない話に時間を費やすぐらいなら、DFBに全てを報告して指示を仰ぎます」

 不乱蔦さんの顔が曇る。こういう思い上がったカスに効くのはやはり暴力。このカスに対しては立場上直接殴ったり蹴ったりはご法度なので、言葉の暴力だ。

「ひとつご確認したいのですが、一体何故私が出向するような事になったのか、何故DFBがこのプロジェクトのことを知ったのか……まさかお忘れではありませんよね?」

 全部が全部、お前の電話ミスのせいだよな。それがなきゃ今頃私はいつもと変わらずに養父と家を出て、事務所で書類仕事でもなんでもしていただろう。ピッチでバインダー片手に選手に絡まれていたかもしれない。
 それが普通なのだ。私にとってはそれが日常で、やるべきことで、やりたいことだった。だと言うのにこうしてわざわざ日本まで来ているのは、どこかのハゲ狸が軽率かつ馬鹿なミスをしたせいだ。

 今更ながらにこのハゲの頭がおかしいとしか思えないミスに関しても苛立ちが募ってきた。そうだ。全部の元凶はコイツじゃないか。コイツのせいで私は養父と引き離されたのだと思うと張り倒してその残り少ない髪を全部毟ってやりたくなる。相手がJFUの会長じゃなきゃぶん殴ってた。役職に感謝しとけ。


 私が突如怒りを顕にしたことで何も言えなくなっているハゲは無視して、帝襟さんに「部屋に戻って報告してきます。これ以上この人と建設的な話し合いは出来そうにないので、帝襟さんの準備が完了してホテルを出られるタイミングで連絡をください。荷造りはしておきますから」と言って踵を返す。「この人」のところでハゲを指差したのはせめてもの抵抗だ。そっちがガキ扱いを貫くんならこっちもガキらしく接してやる。

 冴くんにはわざわざ挨拶なんてしなくていいだろう。そんな仲じゃない。なのでそれっきり振り返ることも誰に声を掛けることもなく部屋を出れば、扉の傍でダバディさんが右往左往していた。部屋から出てきた私に露骨に安堵の表情を浮かべ、「これって入ってもいい感じ?」と聞いてくる。

「JFUの会長さんはまともな話し合いをする気がないみたいなんで、全然入って平気ですよ。冴くんも中にいます。呼びますか?」
「ええ……僕からも色々話さなきゃだから、うん、平気。あとこれ、さっき返しそびれた資料。あ、開きっぱなしだったページちょっと見ちゃったんだけど、それ以外はなんにも見てないから!」
「わざわざありがとうございます。どうせ冴くんが同じものもらっちゃってますから、資料のことも気になさらないでください。それと、一日で何度もご迷惑お掛けしてしまって申し訳ありません。このあとDFBに今回の件を報告して指示を仰ぐんですけど、色々共有したいので連絡先を交換しませんか?」

 室内からはハゲのものと思われる咳払いが何度が聞こえてきたが、全部無視してスマホを取り出してダバディさんに微笑みかけた。ダバディさんは顔を引き攣らせて私と室内とを見比べながらも、同じくスマホを出してくれた。

ふたつおりのひとひら