4話

 部屋に戻ってから真っ先に浴槽にお湯を張り、そのままシャワーを浴びて入浴していたら時間はすぐに過ぎた。まあ時間は有限で平等なものなので、当たり前のことである。それが分かっているなら呑気に入浴なんてするなと言われてしまうかもしれないが、色々忙しくしていて帝襟さんに「そっちに女子風呂ありますか?」と聞けてない以上、これがゆっくりお湯に浸かれる最後の機会かもしれなかったのだ。だから仕方ないでしょ。

 私だって長風呂に洒落込むために努力はした。入浴中にカイザーに連絡を済ませて、そのあとに髪を乾かしたりスキンケアをしたりしながら、DFBに所属している間の期間限定の上司にJFUの会長クソさ加減を愚痴りつつ今回の件の報告をして指示を仰ぎ。
 そんな風に努力をしたから、ハゲと言い合いにでもなったのか草臥れた帝襟さんが迎えに来てくれた時には既に粗方の報告と準備は終わっていて、カイザーとDFBに渡す情報をそれぞれまとめる段階まで到達していたのだ。だから帝襟さんが迎えに来てくれてすぐにタクシーに乗り込めた。

 そのタクシーの中で、帝襟さんと話したことはいくつかある。お互いのこととか、これから向かう施設のこととか、今後の方針のこととか。その中でひとつ気になったのが、ブルーロックの指導者のことだった。

「えごさん……絵に心で『エゴ』さんですか?」
「はい。絵心で『エゴ』です。もしかしてお知り合いですか?」
「うーん……私の知り合いというか、私の父の知り合いというか。昔会ったことがある人の名前がこんな感じだった気が……」
「結構珍しい苗字ですから、その人がサッカー関係者だったら本人かもですね」
「いやあ、まさかそんな、本当に本人だったら世間も狭すぎますよ」

 完璧に整備されているとは言い難い所々荒い箇所のある山道をタクシーで登りながら、微笑み混じりにそんなことを話していた──わけだけど。


 説明通りに山奥にあった施設に辿り着き、案内された部屋に荷物を置き、その部屋に風呂トイレが完備されていることに感動して、「じゃあエゴさんにご挨拶しに行くか」となって。帝襟さんに先導されて向かったモニターだらけの部屋で、遅い昼食だというカップ焼きそばにマヨネーズをかけていたその人は、私を見た瞬間に鼻で笑ってみせた。そうして言ったのだ。

「パパと離れた瞬間に不純異性交友に走るとは、あのちっちゃい魔女っ子もとんだ不良娘になったもんだな」
「言葉選びの全てに悪意を感じるんですけど」
「もうパパに交際報告は済んだのか?」
「一応言っときますね。冴くんとは付き合ってません」

 言わなくても分かってるくせに白々しい。さっき軽く見た感じSNSでは秘めたる恋だ遠距離恋愛だと騒がれているようだが、その全てが間違っている。私と冴くんはただの知り合い。冴くんに言わせれば友人ですらないはずだ。

 今回マスコミが騒いでいるのはこれまで浮いた話のひとつもなかった冴くんが、よりにもよって世界的に有名なプロサッカー選手の養女と写真を撮られてしまったからである。しかもダバディさんがそばに居て、見方を変えれば「マネージャー公認!」みたいに騒げてしまうわけだ。いや、見方を変えるな。たまたま会っただけだし、極めて業務的な話し合いをしてたんだっつーの。


 私をからかうだけからかって満足したらしいその人──絵心さんは、並んだモニターを見ながらカップ焼きそばを啜り始めた。我がチームの選手でない上に現役選手でもない人に文句は言わないけど、カロリーの暴力でしょ、それ。食事制限から解放された選手の八割がこうなるから、やっぱり厳しい食事制限はダメなんだよな。絵心さんが体型を保てているのは奇跡だ。養父のチームメイトたちは引退後に急激な体型変化を遂げる人たちが大半。

 選手の食事と体型のことを考えたからか、養父のことを思い浮かべたからか、懐かしい人に会ったからか、養父がちゃんと食事を取っているのか心配になってきた。養父はストイックな人だけど、その分「必要な栄養素さえ取れているならサプリメントでいいだろ」なんて言い出しかねない。この数年間は私がずっと調理を担当して美味しくて栄養の摂れる食事を提供してきたけど、私が居なくなったあとの養父が約束通りに食堂やチームの栄養管理士を利用せずにサプリメントで済ませていたら……。もしそうなったら、私は来日の原因になったハゲをもっと恨むだろう。

 まだ離れて一日しか経っていないのにこの調子でどうしようとは思うものの、一度不安になってくると本人に確認をしなくてはやってられない。バッグからスマホを取り出してメッセージアプリを開き、養父とのトークを開く。数時間前に到着報告には既読だけついており、それ以降に養父からはなんのメッセージも送られてきていない。私が冴くんと炎上したりマスコミに写真を撮られたりしていることも報告するべきか迷ったが、ひとまず「そろそろお昼だよね。ちゃんと食べてる?」とだけフランス語で送って画面の明かりを落とした。余計な説明は後ででいいだろう。

 スマホを再びバッグに仕舞い込んで顔を上げ、さあどうするか、この後の指示を仰ぐかと思ったタイミングで傍にいた帝襟さんにトップスの袖を引かれて少しだけ屈む。帝襟さんの正確な身長は分からないが、私の方が十センチは高いはずだ。内緒話をするにはこうする必要がある。
 片手で袖を掴んだまま、もう片方の手で口元を覆った帝襟さんが「本当にお知り合いだったんですか?」と驚いたように聞いてきた。めちゃくちゃ良い匂いする……っていうかなんか柔らかいものが腕に当たってるんだけど……と思考を邪念に支配されつつも、頷くことで答える。本当にお知り合いでした。

 と言っても、最後に会ったのは養父に引き取られる前後ぐらいだろうから私はよく覚えてないんだけど、絵心さんの馴れたからかい方からして知り合いで間違いない。私のことを魔女っ子と呼ぶのは、私が養父に引き取られる前のことを知っている人たちの中でも極々限られた一部の人だけだ。


 すごい偶然ですね、とにわかに興奮している帝襟さんに「ええ、本当に」と返して、ほんの少しだけ身を引いて距離を取った。このままだと開いてはいけない扉が開いてしまいそうだ。上司と部下、禁断の愛。ありだと思います。

 また浮かんできた邪念をどうにか散らすためにも、絵心さんの横顔を真っ直ぐ見つめた。今横を向いて帝襟さんを見たら禁断の愛にひた走ってしまうかもしれないから、禁断の愛とは正反対のものを見るのだ。隈が酷いけど絵心さんはちゃんと寝てるのかな。それともこのブルーロックはろくに睡眠も取れないような施設なのか。
 それは嫌だから絵心さんが寝ないことが趣味だとかで寝てないだけだといい。それもそれで怖いけど。

 とにかく、しばらくの間ジッと絵心さんを見つめていれば、流石にうざったかったのか絵心さんもモニターから私の方に視線を向けた。「なんだ」と聞かれたので、適当に答えておく。「帝襟さんとの禁断の愛に走ってしまいそうだったから絵心さんを見て心を落ち着けていました」とは言えない。

「この後はどういう予定なんですか。帝襟さんからは入寮から今日までの間で体力テストをやっているとは聞いてるんですけど、このモニターを見た感じだとまだ終わってないんですよね」
「あと一時間程度だな。それが終わったら棟ごとに総当たり戦でどんどん試合を回していく。試合がないチームは飯食って風呂入って就寝。お前の仕事は各選手の分析とアンリちゃんの補佐だ。試合開始までの一時間で今日試合予定のチームのデータは全部頭に叩き込め」
「各選手の基礎データ程度でいいなら一時間あれば余裕です。因みに今日の夕食メニューは?」
「各自調達」
「食堂の利用は」
「不可。そもそも極力人員を削減してるから、食堂は選手用しかない」
「はあ……」

 絵心さんの業務説明を聞いて案外温いなと思ったけど、だんだん風向きが怪しくなってきた。それは聞いてないぞ。思わず横目で帝襟さんを見たが、サッと逸らされる。どういうことなの。

「自分で作って食べていいってことですよね。食材は?」
「それはアンリちゃんに聞いて」
「了解。一応お聞きしたいんですけど、選手用の食堂で出るものがどうしても食べたいって時は、選手が就寝した後なら可、とかあります?」
「食堂で余り物が出ることは基本ない」
「どういうことです」
「各棟の食堂に併設されてる調理場でAIが調理してるから必要分しか作ってない」
「各棟の食堂に併設されてる調理場でAIが調理してるから必要分しか作ってない⁉︎」

 思わず復唱してしまった。絵心さんは煩わしそうに目を細め、「人間のスタッフが確認はしてる」と言ったが、そもそもAIが調理してるというところから私は理解出来ていないのに、そんなことを説明されたって「ああそうなんですね」とはならない。
 衝撃的すぎる言葉に頭痛がしてきた気がして額を押さえながら、頭を整理する。つまり、ここの選手たちはAIが作った料理を日夜食べていると。いや、どういうことだよ。

「待って、上手く理解出来てないんですけど、各棟の食堂には調理ロボ的な感じのAIがいるんですね? で、そのAI……調理ロボが人数分の食事を作っていると。献立は? ロボットって何なら作れるんですか」
「アンリちゃん、見せてやって」
「……はい」
「なんですかそのなんとも言えない顔。なに、そんなやばいの?」

 帝襟さんがあんまりにもあんまりな顔でタブレットを差し出してくるので私も身構えたが、受け取って恐る恐る眺めた献立は案外普通だった。野菜炒めとか餃子とか、カレーとかもある。結構豊富じゃん。でもなんでこんなにリスト化されてるんだろう。あとなんかメニューの隣に二百五十から三百までの数字が振られてるのはなんなんだろう。注文番号? それなら一から二百四十九までも見てみたくて画面を左にスクロールしようかと思ったけど、動かない。右もだ。これしかページはないのか。
 っていうか下に行くにつれて微妙なメニューになっていくけど、特に三百の沢庵と二百九十九は納豆はもう副菜ですらない。わざわざこれだけ頼む人いるのかな。

 一番下まで画面をスクロールし終えたので、タブレットを帝襟さんに返す。帝襟さんは相変わらずなんとも言えない顔をしたままだが、私としてはそこまでとんでもないものだとも思えなかった。逆にAIってすごいんだなと感心したぐらいだ。

「かなりメニュー数あるんですね。これって注文されてから調理ロボが作るんでしょ? ロボットってすごいなあ」
「注文? 何の話だ」
「え? これ横に書いてあるのが注文番号で、その番号のものを注文したらロボットが作ってくれて、それを食べる形式なんですよね?」
「馬鹿か? ひとつの食堂で一気に六十人近く食事をするのに、そんな手間掛かることするわけないだろ。この番号は選手のランキング順位。順位に対応した数字のものが食堂で提供されてる」
「三食ですか?」
「そう」

 あっけらかんと絵心さんはそう言い放ち、帝襟さんはタブレットで顔を覆い隠して天を仰いだ。私はというと、咄嗟に「お前こそ馬鹿か?」と聞き返すことしか出来なかった。いいや、聞き返すのは正しくなかったな。「お前馬鹿だろ」と言った方が良かった。
 帝襟さんからタブレットを奪い取り、再度先程のメニューを見る。三百番、沢庵。つまり三百位の人間に提供されるものは沢庵。そんなのどう考えたって馬鹿だろ。

「は?」
「は? じゃないですけど。え、本気でこれを出してるんですか? 上位の番号のメニューを見るに、これっておかずとして提供されてるんですよね。沢庵が? 納豆が? おかず? 成長期で食べ盛りの男子高校生に提供するおかずがこれなの?」
「ブルーロックはそういう場所だ」
「そういう場所だ、じゃねーよ! あのねえ、大事なお子さんをお預かりしてるんですよ! ここに来ている高校生たちに時間も夢も人生も賭けさせてるんです! それだけのものを賭けさせておいてなんなんですかこのメニューは! 虐待⁉︎ ここでは競争主義と何でもかんでも自分の実力で勝ち取れってスタンスが当たり前なんだとしても、衣食住の保証は絶対なの! それが大人であり指導者である人間の義務なの!」

 タブレットの液晶部分をバシバシ叩いてそう言えば、帝襟さんは「ご尤もです……」と項垂れ、絵心さんは不服そうにした。するな! 納得しろ! 大人だろ!
 どうしようもない大人はひとまず放っておくことにして、帝襟さんに向き直る。この人から説得するしかない。

「良質なフィジカルは良質な食事から! 私の父のことは知ってますよね⁉︎ ヨーロッパの年間最優秀選手にも選ばれてる父の生活を支えるため、私が何より気にしていたのは食事! 必要な栄養素を摂れるようにきちんと計算して、専門家とも何度も相談して色んなことを教えてもらって、見た目も味も完璧な料理をこの七年間提供し続けてきました! 世界最高峰の選手はそういう所から気を使ってるの! 私たちサポート側がそれを怠ってどうするんですか!」
「た、確かに、食事も大事ですよね! やっぱり今のままじゃダメですよ、絵心さん!」
「ほら聞きましたか絵心さん! 帝襟さんもこう言ってます! 食事メニューをどうにかしましょう! 順位で差別化したいなら、上に行けば行くほど豪華なデザートがつくとか高い肉が食べられるとか、そんなのでいいんですよ! 男子高校生なんてみんな馬鹿なんですから高い肉出しとけば誤魔化されます!」

 男子高校生なんて、って言ったけど十代後半の男子なんて大体馬鹿だ。どの国でもそれは変わらないだろう。あのカイザーだってネスだって、ステーキでも焼いて出してやれば黙って食べる。冴くんだってきっとそう。つまり、彼らは高級肉に抗えない。絵心さんだってそういう時代はあったはずだ。

 私が熱弁し、帝襟さんも感化され、そうなってくると流石に分が悪いと判断したのかそれとも時間の無駄だと思ったのか、絵心さんは面倒だと考えていることを隠しもせずに私たちに向かってヒラヒラと手を振った。

「分かった分かった、勝手にしろ。ただしアンリちゃんには予定通り試合の運営やらせるから、そっちは全部一人でやれよ」
「言われなくても私が言い出したことに帝襟さんを巻き込む気はありません。調理ロボットだかAIだかは勝手に使っていいんですよね。それの説明書と業者のリスト、送っておいてください。あ、それから選手のデータもお願いしますね」

 奪いっぱなしになっていたタブレットを帝襟さんに返し、バッグから取り出したスマホを使って個人的にブックマークしているレシピサイトのいくつかをピックアップしておく。日本食のレシピが載っているサイトもあったはず。


 遅くとも今週中、出来れば三日以内にはまともな食事が出来るようにしてあげたい。この年代の子たちにとって栄養不足は馬鹿にならない話だ。特にスポーツなんてやっていて体を酷使している子たちは尚更、しっかりと栄養を摂る必要がある。
 絵心さんと帝襟さんにも言ったが、衣食住の提供は私たち管理者側の義務だ。ここはブルーロック、つまりは青い監獄だけど、本物の監獄でだって最低限の栄養が取れる食事は提供される。このままじゃ監獄以下の監獄の汚名を着せられることになりかねない。

 それに、ただでさえもこのプロジェクトは前代未聞。今日だって会見では反対意見しか出ておらず帝襟さん及びJFUは散々非難されていたし、マスコミはこれからも必死でブルーロックの粗を探すだろう。そんな状況で外からでもよく見える「衣食住」に関する弱味を残すのは、決して得策ではない。

 選手のためにも、そしてこのプロジェクトのためにも、現状のカスみたいな食事メニューは早急に廃止すべきだ。早速送られてきた調理ロボットだかAIだかの説明書に軽く目を通し、書かれている単語からして全くもって意味がわからないことに絶望したくなりつつも「スマホよりも大きい画面で見たいから部屋に戻ります」とお二人に告げた。試合が開始されたら呼んでください。施設内で迷わなければすぐに向かいます。

 帝襟さんは「何かあったら言ってください! 手伝います!」と可愛らしく力こぶを作って応援してくれたけど、絵心さんは無言で選手のデータを送り付けてきた。養父へ、新しい職場での私の癒しは可愛くて優しくて良い匂いのする上司だけです。

ふたつおりのひとひら