5話

 現在、時刻は深夜二時十三分。場所は第伍棟の食堂。この第伍棟がどの第伍棟かは私もよく分かっていないので伏せておこう。全部第伍棟とか紛らわしすぎるんだよ。
 だだっ広い食堂の真ん中の辺りでしばらく突っ立って壁に掛けられた時計を眺め、どこまでも平等で有限かつ残酷な時間の流れに絶望していたけど、そうしている間にも時間は過ぎていく。どうにも虚しくなってきて、手近な椅子を引いてそのまま机に突っ伏した。

「つかれた……」

 壁に掛けられた時計が秒針を刻む音だけがしている部屋で独り言なんて言おうものなら、そりゃまあ響く。例に漏れず私の虚しい独り言も広い部屋で小さく響き、誰にも拾われることなく消えていった。当然だ。逆に声が返ってくる方が怖いだろう。とっくに消灯時間は過ぎてるし、予定されていた試合も消化されてるんだから。


 そう、試合。その試合が原因で、私はこんなに疲労困憊している。

 試合開始前までは順調だったのだ。食事メニューの改善を最良で成し遂げるためにやることをリストアップして、今日のうちに出来ることは粗方やった。明日以降の自分のためにと、今日試合の予定がない選手のデータも全部頭に叩き込んだ。解散からピッタリ一時間後に帝襟さん経由で呼び出され、業務に使うからとタブレットを支給され、モニターやマイクやなんやかんやの説明を受け。その最中に突然「さっきの体力テストの集計がまだ終わってない棟があるからそれもやれ」と言われた瞬間は「は?」と言いそうになったけど、別に難しいことでもなかったので了承した。絵心さんが試合前に私と帝襟さんに対して述べていたなにか小難しい自論も概ね理解できることではあったので、「ここではそういう方針なのね」と頷いた。
 その時は、時間帯によって二つの試合を同時に進行させなければいけない帝襟さんに「片方私が審判やりますよ。集計やりながらでもそれぐらいなら出来るので」なんていう余裕もあったのだ。問題はそのあと。帝襟さんとは別のモニターの前に座り、最終確認をしていた時に絵心さんがまるでこの世の常識を語るようにして「そこの赤いボタンが選手のボディースーツに電気ショック流すボタンだから」などと言い出した時である。

 予想してもいなかった言葉と下手したら普通に押し間違いかねない位置にとんでもないボタンがあることに驚いた私は椅子から転げ落ちた。もちろん三回は絵心さんに聞き直したが、絵心さんはロボットのように一字一句違えずに同じ言葉を繰り返すばかり。更には「下のテンキーで該当選手の順位と各棟の識別番号入れてからボタン押さないとピッチにいる全員に電気ショック流れるから、不用意に押すなよ」なんて言ってくる始末。

 きちんと話を聞いたところ暴動鎮圧用らしいのだが、ここは最強のFWを育成させる施設じゃなかったのか。それがどうして選手のボディースーツに電気を流して鎮圧するだなんて発想になるのか分からなくて、情けなくいことだけど養父の名前を呼んでしまったし、泣きそうになった。暴動が起こる前提なのが怖すぎる。

 目に見えて怯え出した私に帝襟さんは慌てて「もしもの時のためです! 押す予定はありませんから!」と言っていたけど、それは『フラグ』というやつだろう。知ってるぞ。


 そうやって揉めている間にも試合開始時刻になってしまい、無情にも試合は始まった。私とて自分の感情ひとつで緻密に予定が組まれている試合の開始を一試合目から遅らせるつもりはなかったので、渋々席についたわけだ。それでまあ、もう予想が出来てるかもしれないけど、フラグは回収された。つまり、その試合で暴動が起きた。


 私が審判を務めたその試合では、開始数分でサッカーとも言えない玉取りごっこに勤しむ二十一人を出し抜いて、一人の選手がゴールを決めた。そこからはもう彼の独壇場で、シュートが決まる決まる。開始五分で三点も決め、瞬く間にピッチの空気を支配してしまった。
 その子は事前の体力テストでは結果が奮わなかった選手だったが、別のモニターで体力テスト時の映像を再生したところどうやら本気を出していない様子だった。サボり癖があるというか、やりたいこと以外では本気を出さないというか、そういう奴はどこにだっているものだ。私も「そういうタイプね」と納得してタブレットのメモ帳にその選手の名前をメモした。

 で、メモするために手元に向けていた視線をモニターに戻したら、その選手がチームメイトの一人に胸ぐらを掴まれていたのだ。慌てて両選手を名指しで注意をして、これもまたボディースーツに仕込まれているらしい集音マイクをオンにした。選手の分析に体力テストの結果の集計に試合の審判に、更には集音マイクからまでオンにしてプレー中の発言まで拾っていたらパンクすると判断してオフにしていたんだけど、非常時にはそんなこと言ってもいられない。
 そうしたら「お前だけシュート決めるな」とかなんとか聞こえてきて、もう私は「何言ってんだお前」と叫びそうになってしまった。例の選手がチーム内でずば抜けて運動神経もシュート力も高いんだから、そりゃ必然的に得点率も高くなる。そんなのは自明の理だ。FWが二十何人も集まっておいて、ただ待ってるだけでボールが来るわけないだろ。挑戦者の側に立った時点で、悔しければ奪いに行くしかないのだ。

 奪うことも蹴落とすことも、挑戦者にだけ認められた特別な権利。それがどれだけ貴重なものかを説明するところから始めなきゃいけないレベルなのか。これまで私が見てきた選手にそのレベルの人間はいなかった。未知との遭遇に慄きつつも再び選手たちに危険行為は一発レッドで退場だと忠告し、試合再開を促した。ら、例の選手が自分の胸ぐらを掴んでいた選手に脈絡なく殴りかかったわけである。

 もうそこからは阿鼻叫喚だった。スピーカー越しに聞こえてきた悲鳴に一拍置いて事態を把握した私は椅子を蹴っ飛ばすようにして立ち上がってマイクに向かって「やめなさい!」と叫び、帝襟さんが審判をしている試合を見ていた絵心さんは私の叫びを聞いて状態を察し、無理矢理例のボタンを押そうとし。その頃になってようやく他の選手たちが問題の二人を取り押さえに動き、私は結果として意識が飛ぶほど殴られた選手を見ることにはなったが、電気ショックで倒れる選手は見ずに済んだ。

 気絶した被害者の方は医務室に運び、取り押さえられた加害者の方はレッドカードで即退場。本人はその処罰に納得がいかないらしく文句を言っていたが、止めに入る人がいなければ相手を殺していたのではないかと思うほどの暴力にあそこまで軽率に走れる人は怖い。私は何も聞かずに集音マイクをオフにし、何度か深呼吸をしてから速やかな退場と試合の再開を促した。暴力肯定派の私だってリンチは反対だ。理由のない一方的な暴力はリンチと同等。


 片方のチームから二人も減って九人対十一人で進行することになった試合は、特に目立ったプレーが生まれることもなく、加害者くんの残していった三点の置き土産のおかげで加害者くんチームが勝利した。途中のハプニングを除けば全く持って平凡でつまらない試合だ。あのチームには加害者くんを上手く抑えて操れる人もいなさそうだし、かと言って加害者くんが今回の件で反省して、たった数分で分かってしまうようなあの迸る加害性を抑制するかと言われるとそうでもないだろうし、セレクションを突破できるかどうかは微妙だろう。
 その後の試合も、各チーム一人か二人ぐらいは目を引く子が居たり居なかったり。全ての試合を見たが個人的に興味が湧いた子は、冴くんの弟かもしれない糸師凛くんぐらいだった。それも「この子って冴くんの弟なのかな?」という興味の湧き方で、プレーに対しての興味関心が湧いたわけではない。ついついカイザー級の選手や養父レベルのプレーを求めてしまってるからダメなのかな。せっかくはるばる日本まで来てるんだから、それぐらいは期待させて欲しくもあるんだけど。

 たいした収穫もなく、ただただ疲れただけで本日の業務は終了した。この疲労の理由の八割は加害者くんなので、もう加害者くんに関わる仕事はしたくない。……それはダメか。ダメだな。


 社会人って辛いなあとため息をつきながら、のろのろと顔を上げる。そのまま伸びをしてから、椅子に座る前に向かいの席に置いていたおにぎりとタブレットを引き寄せた。

 このおにぎりは、件の調理ロボットのツクルくん(炊飯器Ver)との十分近い喧嘩の末に強奪したお米で握ったものだ。AI搭載のロボットと会話をするのは初めてなので最初は緊張したが、生意気にも「これは明日の朝食用の白米です」などと意見してきやがったので「こんな真夜中に炊くな! 朝ギリギリに炊いて炊きたてを食わせてやれ!」と言って強奪してきた。ついでにツクルくん(鍋Ver)からお味噌汁も奪っておいた。人間様に逆らうな。我ながら将来AIに世界が支配された時に真っ先に殺されそうな発言をしている。

 だけど、別に私だって食欲を満たすためだけにツクルくんから食料を強奪したわけではない。もちろん空腹を覚えたからというのも理由の一つだが、もっと大きな理由がある。
 帝襟さんに詳しく聞いたところ、お米とお味噌汁は毎食どの選手にも提供されているらしいのだ。食事メニューの中ではこれだけはおかわりも自由らしい。
 なら、食事メニューの改善を誓った者として実際に食べてみないわけにはいかない。三角おにぎりの形にしたのは自分の趣味だが、強奪したのには正当な理由がある。よって無罪。人類の勝利だ。


 疲労のあまり意味のわからない方向を向き出してまとまらない思考はそのままに、タブレットでレシピサイトを開き、スマホではメッセージアプリを開いて養父とのトーク画面を見る。数時間前に届いていた「食べてる」という一言と昼食の写真に今更ながらに「夜はタンパク質とビタミンを多めにとって」と返事をし、と言っても向こうは今ちょうど夕飯を食べてる頃かもなあとため息をついた。七時間の時差は結構大きい。

 一旦スマホをテーブルに置き、おにぎりを包んでいたラップを外して口を付けた。……うん。何年ぶりかの日本米、美味しい。日本食のレストランや寿司屋は向こうにもあるけど、やっぱり日本で食べるのと向こうで食べるのとじゃ違う。ただの塩にぎりでもめちゃくちゃ美味しい。
 ぺろっとひとつ平らげて、お味噌汁の方にも口を付ける。懐かしい味噌の香りと風味。特に凝った具材は入っていない定番の豆腐とわかめの味噌汁だが、これも美味しい。お椀を机にゆっくり戻しながら、体の芯が温まっていく感覚にホッと息をついた。ツクルくん、ロボットのくせに良い仕事をする。

 美味しい食事とは更なる食欲を誘うものだ。このままなら残り二つのおにぎりを食べてもまだまだ食べ足りないかもしれない。さっき調理場を見た感じ軽く食べれそうなフルーツがいくつかあったから、勝手に貰ってしまおうか。
 養父にビタミンを取れと言っておいて自分が取らないのも違う気がするし、と思った時に、伏せて置いておいたスマホが鳴った。誰だろうと画面をひっくり返して通知を確認し、思わず頬が緩む。養父だ。しかも電話。迷うことなく応答する。

「もしもし。パパ? そっちはどう、変わったことはない?」
「こっちはいつも通りだ。お前こそまだ起きてんのか? そっちはもう真夜中だろ」
「思ってた以上に仕事が多くてね。でも慣れればもっと要領よく立ち回れるだろうから平気だよ。それより私はパパのことが心配。ちゃんと寝てちゃんとご飯食べてね。カイザーが突っかかってくると思うけど、相手しちゃダメ」

 分かりにくい言葉選びだが、養父が私を心配してくれているのはよく分かった。嬉しくてついつい多弁になってしまったが、それに対する返答は「分かってる」だけ。ああもう、この人はこれだから心配なのだ。
 それでもそんな養父らしさにだらしなく緩み続ける頬を手で抑えながら、この数時間ですっかり懐かしく感じるフランス語で養父との会話に興じる。下手な愚痴を言うと余計な心配を掛けてしまうだろうから、帝襟さんが良い人そうなこととか、懐かしい知り合いにあったこととか、食事が美味しいこととか、そういう楽しくて明るい話を振った。その中で養父が相槌以外の反応を示してくれたのは冴くんのことだけだったけど、こうして私の話を聞いてくれるだけでも十分嬉しい。

 背中と肩に重くのしかかっていた疲労が徐々に気にならなくなっていくのは勘違いでもなんでもない。養父に話を聞いてもらうことが私にとって一番のストレス解消になる。養父だってそれが分かっているから、こうしてわざわざ時間をとって電話をしてくれているのだろう。それを思うと更に疲労が消えていく。最高の永久機関がここで完成しているのだ。

 でも、こうして話しているとだんだん心細くもなってくる。紆余曲折を経て養父が私を引き取ってくれてからの約七年間、養父と物理的にこんなにも離れて暮らすのは初めてだ。更には出向の期間は未定。今度はいつ会えるのかが分からない別れがこんなに寂しいものだなんて思わなかった。

 電話越しだというのに声のトーンだけで私の気持ちが下を向いたことに気付いたのか、養父は静かに私を呼ぶ。

「帰りたくなったらいつでも帰ってこい」
「……うん。でも平気。頑張るよ。今帰ったらカイザーに変な風にからかわれそうだし。それに私ももう大人だからね」
「……そうか」
「そうだよ? けど、また電話してもいい? 私は大人だけど、それでも寂しいのは本当のことだし、こうやってパパと電話したらもっと頑張れそうなの」
「……ああ。でもこの時間はナシだ。昼過ぎに手が空いたタイミングで掛けてこい」
「はあい。お昼休憩のタイミングで電話するね。じゃあ……あ、待ってパパ。一個伝えて起きたかったんだけど、ブルーロックの指導者で総指揮取ってる人がね」

 パパの元チームメイトの絵心さんだったんだけど。

 そう言おうとした時、後ろの方から「えっ」と声が聞こえてきた。私も「えっ」と声を上げながら慌てて立ち上がって振り返り、ジャージ姿の男の子が食堂の入口で立ち尽くしているのを確認する。その弾みに座っていた椅子が倒れそうになって、咄嗟に両手で支えた。
 食堂の入口で目を見開いて立ち尽くしているジャージ姿の男の子と数秒見つめ合ってから、スマホで時間を確認する。もうとっくに消灯時間は過ぎているし、最終試合からも結構時間が経っている。夜間の出歩きが許可されてるタイプの監獄なのかどうか帝襟さんに確認しておくべきだったか。

 一歩踏み出して「あの」と声を上げた男の子を左手で制して、右手に持ったスマホを耳に当てた。さっきから養父が私を呼んでいる。

「ごめんパパ、なんでもないの。なんでもないんだけど、なんか人来ちゃった」
「人? 施設関係者か?」
「選手の子。対応しなきゃだから切るね。おやすみ、パパ」
「待て、」

 言うだけ言って電話を切ってから、明日怒られるかもなと思った。途中で電話切っちゃった。

 娘としては養父がなんて言おうとしていたのかは気になるが、職員としては色々と対応をしなきゃいけない。ここが夜間の出歩きが許可されてないタイプの監獄だったら一応怒ったりしなきゃダメだろう。


 スマホをパーカーのポケットに仕舞い、相変わらず食堂の入口の辺りで立ち尽くしているその子を手招きした。一瞬躊躇うような顔をしたものの、もう一度手招きをすれば素直に寄って来てくれる。カイザーだったら「お前が来い」って言うんだろうな。この子は良い子だ。
 比べる対象があのクソカスなので相対的にみんな良い子に見えるだけだろうと言われればそこまでではあるが。ネスだってカイザーと比べれば『良い子』だ。……いや、全然そんなことないな。やっぱり比べる対象がカスだとカスみたいな判断しかできなくなってしまう。

 カイザーのせいで余計な方向に向いてしまった思考を咳払いひとつで引き戻し、「もう消灯時間過ぎてるけど、どうしたの」と尋ねる。さっき選手のプロフィールは粗方覚えたから、同い年のこの子にはタメ口でいく。これもまた社会人の威厳。……威厳か?
 あっちへフラフラこっちへフラフラ、私の思考は行ったり来たりしているが、私の正面に立つその子は緊張した面持ちでバッと頭を下げた。なんでだ。もしかして脱走しようとしてたのか?

「すみません! 腹減って寝れなくて、食堂ならなんか食べ物あるかなって思って来ちゃいました」

 全然違った。というかこの子はあんまり悪くない感じの理由だった。栄養が偏る上に満腹になれないような食事メニューを提供している私たちが十割悪いやつだ。
 前髪をかきあげ、腕を組む。そして未だに申し訳なさそうにぺこぺこ頭を下げているその子をまっすぐ見た。頭を下げる度に頭の双葉が元気に揺れている。どうするかなあ。

「来ちゃったかあ」
「すみません……」
「ううん、まともなメニュー出せてない私たちのせいだから、謝らないで。三日間カスみたいな食事させられてた上に試合後だもんね、そりゃお腹空くよ。ここにあるおにぎり、まだ手付けてないし見ての通りラップ使って握ってるから、食べて待ってて。いまお味噌汁持ってきてあげる」

 まあ、この施設の管理者側かつプロジェクトの運営側の私としてはこうするしかないよね。選手たちは杜撰な食育計画の被害者みたいなものだし。

 さっきまで私が座っていた椅子を引いて手で指し示し、飲みかけのお味噌汁の入ったお椀と箸は向かいに寄せる。そのままレシピサイトを表示しっぱなしになっていたタブレットも手に取って明かりを落とした。フルーツ……はこの子にだけ出すと贔屓だのなんだので面倒なことになりそうだ。でもおかわり自由のお米とお味噌汁ぐらいなら文句は言われないだろう。空きっ腹の選手をそのまま寝かせて翌朝のコンディションが向上するのは到底思えないし。

 お椀の横にタブレットも置き、立ち尽くしているその子に「座っていいよ」と言ってあげた。いいよって言われるまで座っちゃいけないみたいなルールがこの監獄にあるのかもしれない。本物の監獄かよ。
 でも、その子はテーブルの上のおにぎりと私の顔とを見比べて困った顔をしたままだ。

「これ、えっと……職員さんが食べてたんですよね? それを貰っちゃったり、わざわざ準備してもらったりするのは申し訳ないんで、オレは平気です」

 うわ、カイザーにはない謙虚さ! でもその調子だとこの監獄じゃ生き残れないぞ! 食事でもエゴ向き出しにしろ!

 だなんてことは本人には言えないので、再び腕を組んで顎に指を当て、斜め上を向いて小さく唸る。こんなのは演技臭いぐらいでちょうどいいのだ。

「うーん……さっきも言ったけど、君がこうしてお腹を空かせて寝れなくなって食堂まで来ちゃってるのは、元はと言えば私たちのせいでしょ? ここは素直に食べてくれた方が助かるかな、潔世一くん」

 ちらりと視線を向けてそう言えば、その子──潔くんは目を見張って「なんでオレのこと……」と声を上げた。なんでかというと、それが私の仕事だからです。昔から人よりずっと記憶力がいいから、人の簡単なブロフィールを覚えるぐらいおちゃのこさいさいだ。
 今度は別の意味で困惑しているらしい潔くんの肩を掴んで、無理矢理椅子に座らせる。そしてその目の前におにぎりをふたつ置き、一瞬迷ってからタブレットも手繰り寄せて先程のレシピサイトを開いた。そのタブレットもおにぎりの横に置く。

「そのサイト内なら自由に見ていいから、私が準備してくる間におにぎり食べつつ今後の監獄生活で食べたいメニュー見つけといて」

 どうせなら選手が食べたいものを提供した方が士気も上がるだろう。まだ困惑中の潔くんを無視して調理場に引っ込む。そのままシンクで手を洗い、真横に置かれた普通に生活してるだけでは絶対に目にしないような寸胴鍋の蓋を開けた。ツクルくん(鍋Ver)が「これは朝食用の味噌汁です」などと言っているが、そんなものは無視だ。お前同じことしか言えないの? 芸を見せろ、芸を。そうしたら言うこと聞いてやるよ。

 つい二十分ほど前に私が温めたからまだ十分温かいお味噌汁を適当なお椀によそい、棚から取り出した二つのコップに冷蔵庫の中に入っていたミネラルウォーターを注いで、これもまた適当にケースから箸を一膳引っ掴んでそれら全てをお盆に乗せた。そのままお盆を持って調理場を出る。両手が塞がっててもすんなり出入りが出来るのは自動ドアのおかげだ。自動ドア万歳。AI搭載調理ロボツクルくんといい自動ドアといい、他に金をかけるところはいくらでもあるんじゃない? と思わなくもないが、実際生活が便利になっている以上は私から言うことは何もない。


 こぼしたら大変なことになるのは目に見えているので、慎重にバランスを取りながら潔くんがいる方に向かう。ツクルくんがいるならハコブくんもいてもいいと思うんだけどな。いないのかな。案外いる気もするんだけど。
 そんなことを考えつつも無事にお盆を運び切り、潔くんの元に到着した。私は思慮深いので最後の最後でお盆をひっくり返したりはしない。静かに、それでも真剣にお盆を机に置く。……はい、置けた。

 無事にお盆を運び切れたことに対する安堵のため息を吐き出し、ふと視線を感じて顔を上げる。この場には私を含めて二人しかいないので、必然的に私を見つめているのは私以外の一人になる。まじまじと私を見つめる潔くんを見つめ返し、小首を傾げてみせた。なんですか。
 私がそうしたことでハッとした潔くんが半分ぐらいなくなったおにぎりを片手に「ありがとうございます」と軽く頭を下げるのを横目に、「気にしないで」と手をひらひらと振りながら席に着く。もちろん潔くんの正面である。潔くんは私の動きを追うように視線をこちらに向け、それからまたハッとして下を向いた。なんですか?

 最後にメイクを直してからだいぶ経ってるからよれてるとかか? だったら嫌だなとポケットから取り出したスマホの画面で軽く顔を確認したが、そこまで問題はなさそうだった。高い下地とファンデを使っているだけある。

 スマホを取り出したついでにメッセージアプリを開き、何故か養父から「誰とどこにいるんだ」とメッセージが来ていたので「選手の子と食堂」とだけ返し、画面の明かりを落とした。さっきそう言わなかったっけ?
 画面を伏せる形でスマホを机に置き、自分の分のコップを手に取って残りはお盆ごと潔くんの方に寄せた。そのまま入れ替えるようにしてタブレットを自分の方に引き寄せる。あ、ちゃんと調べてくれてる。えー、なになに。

「伊勢海老のグラタン……は、ごめん、無理かな……」
「違っ、ちょっと見てただけです!」
「そうなの? でもこれわりと簡単に作れそうだな……そうだ、潔くんが最後の方まで残ってたら作ってあげる」

 ネックになるのはコストだからもっと人数が減ればある程度単価が高いものも出してあげられるようになるし、と続ければ、潔くんは微妙な顔をして頷いた。はっきり言うなコイツって顔だ。冴くんやカイザーと比べて感情が表情に出てるから考えていることが分かりやすい。ネス並みの分かりやすさじゃないだろうか。

 微妙な顔のままお味噌汁に手を伸ばす潔くんから目を逸らし、またタブレットを見た。あとは何を見ていたのか、履歴を確認していく。

「エビチリ、エビ春巻き、エビカツ……海老好きなの?」
「海老が好きっていうか、伊勢海老のフォルムが好きです」
「伊勢海老のフォルム? ……あー、まあ確かに、可愛い? かも……因みに好きな食べ物は?」
「きんつば」
「ごめん、それも無理。もっとこう、おかずっぽいものでなんかない?」
「……塩鮭?」
「採用」

 作るのは私じゃなくてツクルくんなので、多少手間のかかるものでも単価的に問題がなさそうならどかどか採用していこう。食事メニューは全員基本的に一緒にして、ランキング順位が高い子にはリクエスト権とか高級肉とかメロンとかを食べさせる。アレルギーがある子にもそれ用の食事を作らなきゃいけないけど、それは人間の職員にやらせるかな。
 改めて今後の方針を脳内で整理しながら、潔くんが見ていたレシピをざっとスクロールしていく。この高野豆腐の卵とじとか美味しそう。私が食べたい。

 そのままレシピに目を通して自分でもいくつか調べていれば、潔くんが「あの」と声を上げた。タブレットから視線を上げる。潔くんはピシッと背を伸ばして「緊張してます」って感じの顔をしているけど、なんだろう。そう言えばさっきから私に何か聞きたそうにしてたな。私も少しだけ姿勢を正す。

「なに? どうかした?」
「……ブルーロックってドイツも関わってるんですか?」

 二人きりだというのに僅かに声を潜めて潔くんはそう言い、対する私はというと一瞬言葉に詰まった。タブレットの電源を落として机の上に置き、まっすぐ潔くんを見つめる。

「……もしかして私のこと知ってる?」
「知っ……てます。オレ、お父さんのファンで、ドイツリーグの試合よく見てたんで……」
「父の……それはどうも……」
「いえ……」

 沈黙。なんとなく微妙な空気になり、示し合わせたわけではないが二人揃ってそれぞれのお椀に手を伸ばした。冷めても美味しいお味噌汁を飲みながら、軽く俯いて何をどう説明するべきかと考える。職員として働くうちに私のことを知っている人に遭遇することもあるだろうとは覚悟していたが、まさか初日に、それも父のファンに会ってしまうとは思っていなかった。ドイツリーグの試合を見るほどの父のファンが私のことを知らないはずがない。

 どうするかな。ひとまず、最初に聞かれたことに答えるべきか。今更だけど、最初に驚いていたのは私の存在に対してだったのね。

 お椀を置き、また潔くんを見つめた。

「まず言っておくと、このプロジェクトの運営にはドイツ……っていうかDFBは関わってないよ。ただ、たまたまこのプロジェクトの話がDFBに伝わって……色々あって私が派遣されたの」
「色々」
「うん、色々。で、ここからはお願いなんだけど、一応私のことは伏せてもらってもいい? DFBから職員が出向してるってなると他の国のフットボール協会に何か言われるかもしれないし」

 まあ今日一日で冴くんといくつか問題を起こしてしまったから、今更無意味な可能性もあるが。この施設内では選手のスマホは取り上げられているけど、ゴールポイントを使えば取り返すことが出来る。早速スマホを取りに来た子がいたらしいと帝襟さんから報告は受けていた。その子がSNSを見たりしたら、必ず私と冴くんに関する何かしらを目にするだろう。もしもその子がおしゃべり好きな子だったら、この狭い施設内では噂が回るのも早いはず。

 それもこれもあのハゲのせいだ。DFBもDFBで下手につついて事を大きくしたくないと消極的な対応しかしてくれなかったし。


 今更ながらに上の対応に理不尽な何かを感じながらも、取り敢えず今のところ潔くんはそんなことは知らないんだからと意識を切り替える。知られていないなら伏せておいていいだろう。わざわざ自分から話すようなことではないし、何より説明が面倒。ややこしいことに「冴くんが悪いの」の一言で済ませられるようなことでもない。

「それに、父のファンなら私の経歴も知ってるんだろうけど、結構スキャンダラスでしょ? これでも正規の職員として派遣されてるんだから、過去のことで仕事に支障が出るのは避けたいの。これからも施設内で会うかもしれないけど、その時は私のことはあの人の娘としてじゃなくて、ただの職員として扱って。お願い」
「……分かりました」
「うん、ありがとう」

 潔くんが物分りがいい子で助かった。これで弱みを握ったとばかりに脅されたりしたら記憶が飛ぶまで叩かなきゃいけなくなるところだった。せっかくこんな良い子と知り合えたのに強制記憶消去パンチで縁が切れるのはあまりにも悲しい。

 私の言った「スキャンダラスな過去」にも思い当たることがあったらしく、潔くんは神妙な顔で「絶対誰にも言いません!」と元気に宣言してくれる。うん、そうだね。一度聞いたら当分忘れられないぐらいはスキャンダラスだもんね。当事者である養父のファンなら覚えているに決まってる。

 口封じの必要がなくなったことに安堵した私が肩から力を抜いて水を飲んでいる間に最後の一個のおにぎりに手を付け始めた潔くんは、これまた元気に「あ、そうだ」と何かを思いついている。食事のリクエストかなと視線だけで話を促した。

「名前で呼ぶのも避けた方がいいですよね。なんて呼べばいいですか?」
「え? ……あ、なるほど。確かにどの名前で呼んでも分かる人は私だって分かっちゃうね」

 まさかの偽名。顔が売れていなくても名前は売れているので確かに必要な処置かもしれないけど、でも偽名……偽名かあ。

 世の中のどれぐらいの人が偽名を使ったことがあるのかは分からないが、そんな急に言われて簡単に思いつかないことだけは確かだ。コップの中程まで減った水を揺らしながら、良い感じの苗字を思い浮かべていく。知り合いの苗字は絶対アウト。カイザーとかネスとか露骨すぎるし、冴くんに苗字を借りたとしてもすぐバレる。というか、この監獄に収監される程度にサッカーに関わっている人ならそれらの苗字から本人を連想しないはずがない。
 なら全く関係ないところから引っ張ってくるしかないのか。でも全く関係ないところってたとえば? この数年間日本人の苗字なんてほとんど耳にして来なかったこともあってか、全く持って思い浮かばない。

 なんかあるかなあ。身近なものからヒントを得ようかとスマホやタブレットに視線を落とす。なんか苗字になりそうな……あ。

「思い付いた。高野豆腐の高野から、タカノ。これにしよう。……ちょっと何その顔」
「いや別に……」
「言いたいことあるならはっきり言え! 言っとくけど高野豆腐の卵とじを見てたのは潔くんだからね! 潔くんがタカノの名付け親みたいなものなんだからね⁉︎」

 潔くんは良い子だけど全部顔に出すぎ。そんなはっきり「なんだその選び方」って顔されたら私だって流石に傷付きます。潔くんの夕食だけ伊勢海老丸ごと出そうかな。

ふたつおりのひとひら