九話

 色々と思い出してしまって何十分か泣き続けた私を何も言わずに抱き締めていたわかささんは、私がようやく泣き止んだ頃に「とにかく今日はちゃんと飯食って風呂入ってさっさと寝ろ」と言って私に焼き鳥を食べさせ、その間に風呂を溜め、私が入浴している間にスーパーに行ってアイスを買うついでに保冷剤を貰ってきた。その保冷剤で目を冷やしながらアイスを食べている間に髪を乾かされ、「もう寝ろ」とベッドに押し込まれて気付けば寝てしまっていた。
 朝になったらなったでいつもよりもかなり早い時間にわかささんに「今日から大学だろ」と起こされて、正直この時点で私はかなり驚いていたし、なんならビビっていた。これは本当にわかささんか……? と何度も疑い、そうしてなんだか申し訳なくもなった。見苦しいところを見せてしまった……。
 一晩経つと冷静になることは人生で色々あるが、昨日の大泣きはその中でも上位にランクインする。出来ることなら「忘れてください」と懇願したいぐらいだった。

 申し訳なさと気まずさと理由の分からない謎の照れで思考がぐちゃぐちゃになってしまった私は、「ダチ作りは最初が肝心だからな、気ィ抜くなよ」というわかささんの言葉に真面目な顔で「百人友達作ってきます!」とガッツポーズで答えて家を出た。そして大学に着いて指定された講堂に入り、端の方の席に座ったあたりで「百人は無理じゃない……?」と冷静になったのであった。

 私はもちろん、わかささんも少し動揺していたのだと思う。自分で言うことじゃないけど私はあんな風に取り乱して泣きそうには見えないタイプの人間だ。なんなら私自身が自分が泣いたことに驚愕したぐらい。
 そんな私があんなふうに大泣きして、きっとわかささんは動揺するのと同じだけ焦ったんじゃないだろうか。泣きそうに見えない人が泣くとほんの少し焦る。私にもそういう経験はある。

 上京初日にゴミ捨て場で拾ってあげてからというものの何度も家に泊めてあげてきた恩で昨日の失態は帳消しにして欲しい。いや、帳消しにして。
 今更ながらに恥ずかしくなってきて顔から火が出そうだ。手で顔の周りを仰いで誤魔化しながら、周囲をこっそり見渡す。今日は後期の初日だからオリエンテーションだけだと聞いていたが、だからこそなのか近くの席の女の子たちは「この後スイパラ行こー!」と明るくおしゃべりしていた。スイパラ、ね。田舎にはなかったやつ。

 私も一緒にそういうところに行けるぐらい仲のいい友人を作れたら……と俯いて意気込んでいると、ふと後ろの方から視線を感じた。軽く振り向いてみたが後ろにいる何人かの男の子たちとは目が合わない。
 勘違いかな? 視線を前に戻す。そうしたらまたすぐに視線を感じた。次は横の方からも。チラッと視線を向けてもやはり目は合わない。

 ……あのー、これなんか、あの……。

 服にタグがついてるとかかも……と現実逃避をしながら首の後ろと背中のあたりに触れてみたが、何かがついている感触はなかった。そうしている間にも四方から視線を感じたが、今度はその視線の方向を目で追う気にはなれずに顔を下げる。嫌な予感がする……。


 頭の中で巡るのは高校時代の記憶だった。一年生の時は自分で言うことじゃないけど品行方正を体現したような生徒だったと思う。でも二年生に進級する直前に色々あって、そこからは髪を金髪に染めたり、学校で一番の不良とつるんだり、飲酒したり喫煙したり。逆立ちしたって褒められないようなことばかりをしていた。
 東京に進学すると決めた時、「高校の頃のやらかしを無かったことに出来れば」と思わなかったと言えば嘘になる。他にもっと大きな理由があったが、大学から心機一転、変わろうとも思っていた。
 でも無理かも……。一度思いっきり泣いたことで涙腺が馬鹿になってしまったのか、正直もう泣きそうだった。私は分かるぞ。こういう視線は大抵悪い意味のこもった視線だ。高校時代もクラスメイトによくこういう目で見られていたんだからな。

 なるべく気配を殺せるように静かに呼吸だけをしていたのだが、視線は散るどころか集まるばかりだった。脳内のわかささんに泣きつく。友達百人作れそうにもないです。
 私なんかが友達百人なんて目指したのがダメだったんだ……と脳内のわかささんに泣きつき続けていれば、一つ前の席の椅子を誰かが引く音がした。既に友達作りを諦め始めていた私は顔を上げることもなく下を向いていたのだが、一つ前の席には誰も座らない。なに? 私のそばには座りたくないってこと?

 どんどんネガティブになっていく私に、頭上からぽつりと「吉野さん?」と声が掛かった。吉野さん……あ、私か。自分の苗字が呼ばれたことに数拍遅れて気付いて慌てて顔を上げると、化粧の濃い金髪の女の子が私を見下ろして困った顔をしていた。……誰だ?
 私のことを知っているということは多分知り合いではあるのだと思う。何か言わなくては、とは思ったのだが、なんとも失礼なことに誰だか思い出せなくてなんにも言葉が出てこなかった。
 口を開いたり閉じたりしている私に何を思ったのか、金髪の女の子は「ああ」と声を漏らして、眉を下げて笑った。

「中高一緒だった遊佐だよ」
「ゆさ……あ、山田の幼馴染みの」
「うーん、まあそんな感じ」

 眉を下げて笑ったまま、遊佐さんは僅かに首を傾げる。その姿に中学と高校の頃、苗字の五十音順に並べられた出席番号順で整列させられる度に山田と私の間で困った顔をしてちょっと首を傾げていた黒髪お下げの女の子の顔がぼんやり頭に浮かんだ。そうだ、あの子の苗字、遊佐だった。

 中途半端に引いていた椅子を最後まで引いて座った遊佐さんが、半身で振り返って「まだ山田と仲良いの?」と聞いてきたので「まあ」と答える。山田は昨日の同窓会のお知らせを私に寄越してきた中高の同級生の男。上京直前に選別だと言って朝顔の種をもらったし、その時山田は男泣きに泣いていた。朝顔の種は実家の庭に巻いてきたけど、仲が良いと言っていい関係だと思う。

 私の返事に「私はもう全然連絡とってないなあ」と呟いた遊佐さんを少しだけ意外に思う。私と話を続けるつもりがありそうだ。中学の頃はまだしも、高校二年生以降は全然話していなかったのに。


 山田は実家のある地区で一番のワルな男で、遊佐さんはそんな山田の保育園時代からの幼馴染みだった。

 あの地区は本当に田舎で保育園も小学校も中学校も高校もそれぞれひとつずつしかなくて、更に一学年に稀に二クラスあるぐらいだったから、自ずと地区内で暮らす子供たちはみんな知り合いになる。特に私たちの学年は一クラスしかなかったから、みんながみんなお互いのことをそれなりに知っていた。
 中学入学と同時に東京からあの地区に引っ越した私も、すぐに彼らの中に馴染んだ。あそこは外のものには排他的だが一度内に入ったものにはとても親切な、言ってしまえば典型的な田舎である。家を建ててしまえば自然と受け入れられた。

 でもあの頃から山田と遊佐さんはそんなに仲が良くなくて、それは周知の事実だった。田舎では情報が回るのが早い。子供同士の不仲もすぐに噂になって街中を駆け巡る。

 私たちは中高の六年間ずっと同じクラスでずっと出席番号順が三連続だったが、高校二年生になるまでは知り合い以上友達未満という関係だった。高校二年生になってから私がグレて山田と親しくなり、遊佐さんとは反対に距離が開いた。遊佐さんは多分、私たちのような人間が嫌いだったのだと思う。


 でも、そうか。遊佐さんもこの大学に進学していたのか。

 あの頃の私は人にあまり興味がなくて、クラスの誰とも距離を置いていた。例外はそれこそ山田ぐらいだ。
 だから遊佐さんがこの大学に進学していたことなんて今の今まで知らなかった。胸の内に知り合いがいることへの安堵と恐怖が綯い交ぜになって浮かぶ。あの頃の私を知っている人がここにもいるんだと思うと、背中と肩が重くなるような気がした。
 私がどんな顔をしていたのかは分からないが、私を見て一瞬目を見開いた遊佐さんはぎゅっと眉を寄せて笑って口を引く。それは悲しみと喜びがごちゃごちゃになった笑顔に見えた。

「元気になったみたいでよかった。同じ大学だって聞いてたのに入学式も授業もいなくて、結構心配してたんだ」
「……そっ、か」
「あんまり無理しないでね。なんか分かんないこととかあったらなんでも聞いて。私に教えられることだったらなんでも教える」
「……うん。いっぱい教えて」
「任せて」

 柔らかく笑った遊佐さんは深く頷いてくれた。眩しい金髪が揺れる。それを見てふと夕焼けの中で輝く白っぽいキラキラの金髪を思い出した私は、「そう言えばなんで髪染めたのって聞いてないや」とちょっとズレたタイミングでわかささんのことを考えてみる。今度会えたら聞こうかな。
 ……今度。そう、今度。

 今もまだ心は痛いし、カチコチに凍ったままだし、今日の夕方も夕焼けを見れば悲しくなるのだと思う。だけど私の心にはもう一人分のスペースが空いてしまっている。昨日わかささんがドアを開けて部屋に入ってきた時に、それを強く強く認識してしまった。
 私の背に触れたあの人の手は熱かった。私はほんの少しだけその手を信じたくなった。今度とか、明日とか、不透明な言葉で約束をしてもいいのかもしれないと思ったのだ。

 次に会う時は連絡先を聞こう。苗字のことも。あと、名前をひらがなで書くのか漢字で書くのかも聞いてみたい。そんなふうに誰かのことを知りたいと思うのは久々のことだった。
 昨日のこともちゃんと謝りたい。お礼も言う。それから、それから。


 ぼんやりとそんなことを考えている私に怪訝な顔をした遊佐さんが「吉野さん?」と声を掛けてくるのと、講堂の入口から大きな声で「遊佐〜!」と聞こえたのはほとんど同時だった。私たちはそれぞれ肩をビクつかせて声の方を見る。遊佐さんと目が合わなかった私も、自然とその視線の方を追った。そしてチャラそうな茶髪の男三人と目が合う。う、うわあ。

 苦手なタイプだ。山田みたいな角刈りの「不良です」って見た目でも、ベンケイさんみたいに強そうな感じでも、わかささんみたいに綺麗なお兄さんって風でもない。なんかチャラくてみんな同じような髪型しててヘラヘラニヤニヤしてて……苦手なタイプだ。

 チャラチャラ三人衆のうちの一人と目が合い、変な風に笑い掛けられた。机の下でぎゅっと自分の手を握って唇を噛む。こういう人たちは実家の辺りにはいなかった。上京するまでの半年間に話してた異性はほとんど父と山田だけだし、この一ヶ月間も異性で顔を合わせていたのはほぼほぼわかささんだけだし、やっぱり私はこういう人たちには慣れていない。ちょっと怖いかも……。


 こちらに歩いてきて馴れ馴れしく遊佐さんの肩に腕を回したチャラ男その一が、私の顔を覗き込んできて笑いながら「こんにちは〜」と声を掛けてきた。「こんにちは……」と一言返してさっと目を逸らす。距離の詰め方が異常。
 さっき目が合ったチャラ男その二と変なロン毛のチャラ男その三が「見たことない子じゃね?」「カワイイ〜、遊佐の知り合い? オレらとも仲良くしてよ」と言ってくるのを「あはは」と乾いた笑いで躱す。なんかさっきから香水の匂いがですね、キツくてですね。

 遊佐さんは遊佐さんで見たことの無い笑顔を浮かべながら「高校の同級生の子。前期は休学してたの」と言っていた。チャラチャラ三人衆が「休学ゥ〜?」「遊佐の同級ってことは例の田舎出身ってことじゃん!」「田舎にもこんな清楚系いるんだ」と大声で騒ぎ出す。
 今すごく帰りたいかも! この人たちの空気についていけないかも!

 遊佐さんに視線だけで助けを求めれば、顔は笑顔のまま視線だけですごく申し訳なさそうにされてしまって、「遊佐さんもこの人たちの空気に無理についていってるんじゃないの……?」と嫌なことに気付いてしまった。

 ……東京怖ッ!

ふたつおりのひとひら