十二話
教室に入って一番近くにあった机に投げるようにトートバッグを置いて、ふらふらと椅子に座る。そのままがくりと頭を垂れた。めちゃくちゃ眠い……。
昨日、というか今日はもう本当に大変だった。わかささんに連れて行ってもらったお店のパスタは美味しかったし、綺麗で良い店で文句の付けようがなかった。なかったんだけど、なんだかわかささんの機嫌がすごく良くて、水を飲むような勢いでワインを飲んでいって……。お店を出てすぐに「やっぱビール飲みてえ」と言い出してコンビニに入っていったあたりから、なんかもう、私は「大丈夫?」と聞くよりも「もう好きにして」って感じになってしまった。
今振り返るとそれがダメだったんだ。好きに飲ませた結果、わかささんは公園のベンチで爆睡し始めた。
叩き起こして家に連れ帰るのにかなり時間が掛かった。家に着いた時にはもうとっくに日付は変わっていたし、自分よりも体格のいい男の人をほとんどおぶるようにして歩いたせいで疲れきってしまった私は化粧だけ落として寝落ちした。で、起きたら昼。慌てて風呂に入って身支度をして家を出てきた。
十数時間ほど前の苦行を思い出してため息を着く。本ッ当に疲れた。
わかささんにはもう絶対に外でお酒は飲ませない。あんなに飲んだらそりゃ人の家のゴミ捨て場で潰れもするよ。私の家で飲む時はセーブしてくれているんだと分かったのは良かったとして、あの飲み方はダメだ。体に悪いなんてレベルじゃない。
気を抜けば閉じてしまいそうな目元に手を当てて、こめかみをぐりぐりと押す。一度寝たら爆睡してしまう嫌な自信がある。電車でもなんとか耐えたんだからここでも耐えなきゃ。
寝ちゃダメ、と自分に念じながら数分間眠気と格闘していると、突然一席挟んで隣の椅子が引かれた。他にも空いてる席はあるはずなのにどうしてここに座るのか、もしやチャラチャラ三人衆か? と思いながら顔を上げて横を向く。遊佐さんがちょっと気まずそうに笑っていた。
「なんだ遊佐さんか……」
「そうだけど、誰だと思ったの」
「あの変な人たち。……あ、遊佐さんのお友達なんだよね。変な人たちとか言ってごめん」
「別にいいよ。私もそこまで仲良くないし」
そういって笑った遊佐さんは、鞄から取り出したノートと筆記用具を机の上に置いた。そのままノートをペラペラ捲って文字の列を目で追っている。
じっとその横顔を見つめていると、僅かに視線をあげてこちらを見た遊佐さんが眉を下げて笑った。私があの街で暮らした六年間でよく見た笑顔だ。
「吉野さんも『大学生にもなって予習なんて変』って思ってる?」
「いや、遊佐さんは変わんないなって思ってただけ。予習って変じゃなくていいことじゃない?」
ふわりと欠伸混じりにそう言えば、遊佐さんは「高校の頃と同じこと言ってる」とまた笑って、机に肘をついて手の上に顎を乗せると真っ直ぐに私の方を見てきた。私もとうとう天辺に近付いてきた眠気のせいでしきりに瞬きを繰り返しながら、遊佐さんを見つめ返す。
ヤバい、本当に寝そう。ちょっともう無理かも。今ならいつも五秒のところを三秒で寝れる自信がある。
頭をがくがく揺らしている私を見ながら「眠そう」と言って笑った遊佐さんは、続けて「ねえ」と言った。
「昨日、男の人と公園にいたよね。『早く帰ろう』って言ってるとこ見ちゃった」
「ああ、うん、わかささんね……」
「わかささんって言うんだ、あの人。一緒に帰ったみたいだけど、同棲してるの?」
「同棲? してない、あの人が週に何回か泊まってくだけ……」
「へえ……あの人年上?」
「ん……」
「……寝てていいよ。講義終わったら起こしてあげる」
「んー……」
薄れゆく意識の中、遊佐さんが「吉野さんはやっぱりああいう感じの派手めな男が好きなんだ」と呟くのが聞こえた気がするが、三秒どころか二秒で寝落ちしたのでよく分からなかった。
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九十分間まるまる爆睡したおかげで、起きたらもうすっかり元気だった。ノートを見せてくれるという遊佐さんにお礼にご飯を奢ることになり、今は駅に向かって歩いている。寝る前にちょっと話してた時に「昨日私がわかささんと公園にいるのを見た」と言っていたけど、なんと最寄り駅が一緒らしい。お恥ずかしいところをお見せしてしまった。
お昼とも夜とも言えない時間帯のご飯になってしまうが、お昼はお互い食べていなかったので「まあいいかな」ということになった。美味しい蕎麦屋があるんだって。私は洋食も好きだけど和食も好きだ。既に蕎麦の気分。
大学の話とか中高の頃の話とかをしながら、混み合っている道を歩く。高校二年生からはグレてまともに学校に行っていなかった私だが、それまでは品行方正な学生としてそれなりの評価はされていたし、なんなら中学時代は生徒会長をやっていたのだ。高校時代も一年生の頃は生徒会に入っていたし、そもそも田舎だったので「君の友達は私の友達」みたいな感じで、共通の話題はいくつでもあった。
駅に着いて電車に乗ってからも、まるですごく仲のいい友人同士だったかのように色んな話をする。その中であのチャラチャラ三人衆とは入学式で会って顔見知りになったのだと教えてくれた。あの三人の話をする時は露骨に面倒そうにしていたから、多分結構無理してつるんでいるだと思う。大学生って大変だ。
電車で三十分の道は、誰かと話をしていればすぐに過ぎた。最寄り駅に降り立って遊佐さんの案内で駅を出る。いつも使っているのとは逆の出口から出た方が近いらしい。
「丼物も美味しいんだけどやっぱり最初は蕎麦の方がいい」と熱弁する遊佐さんに相槌を打ったのと同時に、スカートのポケットに入れていた携帯が震えた。少しして着信音も鳴る。こんな時間に誰だ。携帯を取り出して着信相手を確認する。今牛若狭。
「あー……ごめん遊佐さん、ちょっと電話出ていい?」
「全然大丈夫だよ」
「ありがと……もしもし、わかささん? どうしたの?」
お礼を言ってから応答し、携帯の向こう側に呼びかける。私が家を出た時はまだまだ爆睡していたからそのまま置いてきたけど、まさか今の今まで寝ていたとか? それか今日も気付いたらベッドに侵入されててちょっと邪魔だったから軽く蹴ったのを怒ってるんだろうか。ベッドから落とさなかったことだけ感謝して欲しいんだけど。
私が呼びかけてすぐに名前を呼び返してきたわかささんは、「なあ鍵知らね?」と言ってきた。鍵とは。
「合鍵ならいつもと同じとこに入れてるはずだけど」
「いや、それはちゃんとあんだよ。オレの家の鍵。あとバイクのキーも見つかんないんだけど、どこにあんのか知らね?」
「えー、家の鍵なくしたの⁉︎ 服のポケットとかは? それかコンビニとか公園とかで落としてきたとか」
「ポケットも探したけどなかった。やっぱ落としたか……?」
「……あ、待って。ある。ごめん私持ってる。昨日財布と一緒に預かってそのままだ」
ふとその時のことを思い出してトートバッグを覗き込めば、やっばりわかささんの家の鍵とバイクのキー、そして財布がそのまま入っていた。
そうだった、この人公園で寝る前に「持ってて」とか言って私のトートバッグにポケットの中に入ってたもの全部捩じ込んできたんだ。夜は私も疲れたからそのままにしちゃってて、今日家を出た時も急いでたからそのままで……。 慌ててもう一度謝れば、わかささんは「あるんなら別にいいや」とあっけらかんと言った。緩いなあ。しかも財布がないことに気付いていなかったっぽいし。そっちだって鍵と同じぐらい大事だろうに。
「今まだ大学?」
「ううん、今最寄り着いたとこ。今日仕事だったよね。そっちまで届けよっか」
「いや、オレも今から家出るからちょっとそっちで待ってて。そのままジム行くわ」
「分かった。東口の方いるね」
「おー」
それっきり通話の切れた携帯を耳から離し、ぱたりと閉じる。遊佐さんの方を振り返って「ごめん、もうちょっと時間かかる」と謝れば、「いいよ」と笑いながら遊佐さんも携帯を閉じた。
そばにあったベンチに二人で並んで腰かけてから、深く息を吐く。今度からは気をつけなきゃ。
私のため息をちょっと笑った遊佐さんが「昨日の人?」と聞いてきたので頷く。そう、昨日の酔っ払い。
「ちょっと話聞いちゃったんだけど、合鍵の場所も教えてるんだね。本当に付き合ってないの?」
「うん。付き合ってない」
「仲良さそうに見えたけどな」
「仲は……まあ悪くはないと思う。上京してからなんだかんだ言って毎週顔合わせてるし。遊佐さんこそ彼氏いないの?」
「私? 私はいないよ」
いるわけないよ、と言って笑った遊佐さんはスンと押し黙って遠くを見て、そうして「吉野さんはさ」と呟いた。私は隣に座る遊佐さんの横顔をじっと見つめてその言葉の続きを待つ。日に当たってじわっと額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
「昔から吉野さんは自由だよね」
「……そう?」
「そうだよ。やりたいことやって、行きたいとこ行って、生きたいように生きてる」
「……そうかなあ」
「だけどもっと……自分のこと、大事にしてもいいと思う」
ほんの少し迷うようにしてそう言った遊佐さんに「してるよ」と返そうかと思ってやめた。遊佐さんは今この東京でただ一人、あの頃の私を知っている。
私が何も言わないことで何を思ったのか、遊佐さんは慌てて「変なこと言ってごめん」と言ってきたが、軽く首を横に振って答える。別に変なことではない。遊佐さんには私がそう見えていたと言うだけの話。
「お前なんかが何知ってるんだ、って話だよね。でもさ、付き合ってもない男の人を家に連れて帰ったり、合鍵の場所まで教えちゃったり……吉野さん、高校の頃にほら、辛いことがあったでしょ。それからずっと自暴自棄になっちゃってるんじゃって思って……」
「……ありがとね、遊佐さん。でも多分大丈夫」
あの頃の私を知っている人からの言葉は心に刺さる。古傷が抉られて他よりも柔い肌からじんわり血が滲むみたいに、ぎゅっと痛くなる。
ぼんやりと前を向いて駅から出てくる人たちと入っていく人たちの流れを見ていると、その人混みの中の一人と目が合った。白っぽい金色の髪が陽の光を反射してキラキラ光っている。私と目が合うなり軽く手を挙げて笑ったその人に私も笑って、手を振って立ち上がった。小走りで駆け寄って、トートバッグの中に手を突っ込む。
「結構早かったね」
「走った」
「なにやってんの……昨日結構飲んだでしょ、二日酔い平気?」
「正直めちゃくちゃ頭痛い」
「馬鹿だなあ」
笑いながら財布と鍵を渡せば、わかささんはそれを受け取ってズボンのポケットに捩じ込んだ。それから私がさっきまで座っていたベンチの方を見て「ダチ?」と聞いてきた。うーん。
「多分?」
そう言いながら首を傾げると、わかささんは「なんだよそれ」とちょっと口角を上げて目を細めながら、私の頭を掻き回すようにして撫でた。
友達なのかなあ、私たち。