十六話
青宗の知り合い、それもヤバめの人が私を引き止めるように言った感じの雰囲気がある。いざとなったら青宗は庇ってくれるだろうか。……無理かな。六年ぶりだし。
久々にお酒を飲んだことでやっぱり僅かにネジが緩んでいるらしく、私はちょっと泣きそうだった。どうしてこんなことに。
そんな私を見て、何を勘違いしているのかペットボトルを目に押し付けてきた青宗に「誰と電話してたの」と聞いてみる。かなりの力で押し付けられているから、いくら柔らかい素材のペットボトルでもわりと痛い。
「チームのセンパイで、昔から良くしてもらってた人」
「怖い人……?」
「こ……まあ喧嘩強いけど、でも理由もなく女殴るような人じゃねえ」
「理由があったら殴るんだ……」
「……心当たりないんだろ?」
「ないけどさあ」
思わず鼻を鳴らすと、より強くペットボトルが顔に押し当てられた。これで涙が止まると思っているのかもしれない。目元を冷やしてたんだよってちゃんと教えてあげなきゃ。
それは私の役目だと思いつつ「ねえ青宗」と声を上げたちょうどその時、誰かが走ってくる足音がした。「あ」と呟いた青宗が勢いよく立ち上がって公園の入口の方を向く。私も、ようやく離れたペットボトルのおかげでひんやりと冷えた目元に触れながら、ちらりとそちらを見た。知らない人だといいな、と思った。
そう思ったのに、そこにいた人に、私も「あ」とこぼして思わずベンチから立ち上がってしまった。
走って公園に入ってきたその人は、慌てた様子で公園を見渡して、立ち尽くす私たちを見つけるとようやく肩から力を抜いた。それから息を整えつつこちらに歩いてきて、私の名前を呼ぶ。
まんまるの月の光が降り注いで、その金髪は余計に白っぽく見えた。キラキラしていて眩しい。月よりもずっとずっと眩しくて、目が痛い。
間抜け面でそちらを見ている私を気にもせずに、青宗はなんだか嬉しそうに「ワカクン」とその人を呼んだ。センパイってこの人なの。青宗と知り合いだったの。そんなことを思っても言葉にはならない。
というかもう、何も言えない。何か言おうとしたら泣いてしまう気がした。それはもう予感じゃなくて確信だった。
歩いてきたその人は、私たちの前に辿り着くとまず最初に青宗に「ありがとな」と言った。青宗は「全然」と返してから、「知り合いだったんだ」と私とその人の両方を見ようとする。そうして、それはこっちのセリフだよと言いたいけど言えない私を見た時に、ぎょっと目を見開いた。
次の瞬間、勢い良く目元に伸びてきたペットボトルをなんとか受け取った。もういい、いいから。これにそういう意味はないから。
受け取ったペットボトルを両手で握る。そうしていないと本当に泣きそうだった。なにかをしていないと、声を上げて泣いてしまう。
そんな私に、目の前に立つ人は小さくため息をついて、もう一度私の名前を呼ぶ。青宗は慌てたように私たちを見比べている。そうしていると年相応に見えて、やっぱり可愛かった。現実逃避だ。
「駅で、あー……ユサさん? に会って、お前が特服のガキとどっか行ったっつーから、結構焦った」
お前危なっかしいし。そう続けて言って、額に滲んだ汗を手の甲で拭いながらその人は笑う。その笑顔が、じんわりとぼやけてよく見えなくなっていく。
「メールもあれっきりだし、電話も繋がんねーし……なんかあったのかと思ったんだけど、怪我はないみたいで良かったワ」
金色が眩しい。
何も言わない私に変わって、青宗が小さく「してない」と言った。うん、してない。私も小さく頷く。
そんな私たちを見てその人はちょっと微妙な顔をしたように見えたが、生憎私は既に泣きかけで視界がぼやぼやなのでよく分からなかった。分からなくて、良かったかも。分かったら本当に泣いてしまっていた気がする。
私がそんなことを考えているとは知らないその人は、手で自分を仰ぎながら、「これからはああいうメールはなしだからな」と変に真面目な声で言った。胸の辺りがきゅっと痛む。こぼれそうな涙を堪えるために唇を噛んで、眩しい金色から目を逸らすように下を向いた。
やっぱり迷惑だったか。なんであんなメール送っちゃったんだろう。何を勘違いしてたんだろう。私たちはそんなのじゃないって分かってたはずなのに。
ふと伸びてきた手が頬に触れる。いつもよりも熱い手のひらに触れられると、もっと胸が痛かった。かさついた指先が目尻を擽る。泣けとばかりの仕草に対抗するようにぎゅっと唇を噛む。鉄臭い血の味。
地面を見下ろしたまま、泣くな泣くなと自分に繰り返す。絶対泣くな。この人の前ではもう二度と、いいや、誰の前だったってもう泣くな。
頑なに顔を上げず俯き続ける私に何を思ったのか、顔を覗き込まれた。途端に距離が近くなって、ぼやけた視界でもなんとなくその表情が分かってしまう。何その顔。
「今度からは『迎えに来て』だけでいいよ」
……何その顔。
「お前がそう言ってくれたらどこにだって迎えに行ってやるから、次はもう『やっぱりいい』は言うな」
ああもう、なんでそんな優しい顔をするかな。
ペットボトルを片手に握りかえ、空いた方の手を伸ばしてその服の裾を掴む。前にもこうしたことがある。こうしてこの人の服を掴んで、私は泣いた。
裾を掴んで軽く引いた次の瞬間には私を抱き締めてきた腕と体は、怖いほどに熱かった。汗の匂いとシャンプーの匂いと柔軟剤の匂いが混ざっている。お酒の匂いはしない。飲んでから家に行くって言ったくせに。「酔ったから」って理由をつけてくれなきゃ、私、もう。
「どこにいたって探しに行くし次はもっと早く見つけるけど、なるべく分かりやすいとこにいろよ」
耳元で聞こえる掠れた声。とうとう我慢できずに溢れた涙が服を濡らすのも構わずに、私を抱き締める腕の力が強くなる。
痛いぐらいのその力に隠れるようにして、服の裾を掴んでいた手をその人の背中に回した。同じだけの力で抱き締め返すことは出来ずに、そっと背中に触れる。溶けそうなぐらいに熱い。生きてる。私もこの人も、生きている。また涙が出てきた。
「いっつもオレのいないとこでばっかり泣くから、抱き締めんの遅れる」
拗ねたような声で呟いたその人に、私は泣きながらも思わず笑ってしまった。遅れるって、そんな。私を抱き締める人なんてあなたしかいないんだから、遅れるも何もないよ。
伸びた毛先が頬と首にあたってくすぐったい。眩しくて綺麗な金髪は、見た目に違わず柔らかくていい匂いがする。安心できる匂いだった。あの街にも、あの山にも、どこにもなかったものだった。
ねえ。ねえ、見てる? 青宗のそばにいる今なら、もしかしたら、そばにいてくれてる?
あのね、話したいことが沢山あるの。謝りたいことも、沢山。「なんであんなことしたの」って怒って欲しい。私がごめんねって言ったら、「ばか」って言って。私が泣いたら、抱き締めて。それで「大好き」って言ってよ。
ねえ、赤音。あなたはあの街のどこにもいなかった。あの山にだってもちろんいなかった。当たり前に、この公園にも、東京にも、この世のどこにももういない。私はそれが辛い。今もずっとそれがすごく辛くて、たまに全部投げ出したくなる。あなたに会いたくてたまらなくなる。
私はクズだ。あなたを理由にした。あなたを理由にして、逃げようとした。あなたとの思い出を私自身が汚してしまった。ごめんね、赤音。本当にごめん。
だけど、そんな私を抱き締めてくれる人に出会ってしまった。どこにいたって探し出してくれるんだって。次はもっと早く見つけてくれるんだって。こんな私を。こんな最低なクズを。あなたを理由にして死のうとして、あなたを理由にして生きてきた、私なんかを。
どうしよう。どうすればいいかな。
ねえ赤音、私、この人かもって思ってしまったの。あの日死ねなかった理由をずっと考えてきた。今日まで生きている理由を知りたかった。あなたの代わりに私が死ねなかった理由が欲しかった。
でも、こうして抱き締められてると、そうだといいと思いたくなってしまうのよ。
赤音は私の生きる意味だった。私の全てだった。今だってずっとそう。いつになったって赤音は私の理由の全て。ずっとずっと愛してる。
だけど、あそこで死ねなかったのが、みっともなく生き残ってしまったのが、今日までずっと惨めったらしく生き続けているのが。あの日あの場所で、この人に出会うためだったなら。今こうしてこの人に抱き締めてもらうためだったなら。そうだったなら、私は。
どうしようもなく、この人と生きていきたい。この人のそばにいたい。
「わかささん」
涙混じりの声。これでいいかな。こんなのでいいかな。誰に尋ねたって誰も答えをくれない。そりゃそうだ。だって結局は全部、私の人生なんだもの。
答えはなかったけど、わかささんの腕の力は強くなったから聞こえてはいたらしい。痛いなあ。この人、見た目は美人さんなのに、すごい力が強い。さすが不良。
「青宗が見てるから、離して欲しいかも」
「……見てない」
見てたやつでしょう、それ。
ちょっと気まずげに呟いた青宗がおかしくて思わず笑えば、わかささんもちょっと喉を鳴らして笑った。それが面白くて、可愛くて、私はまだまだ泣きながらまた笑う。そっと背中に回した指先の力を強めた。
あーあ。多分じゃなくて、きっとでもなくて、恐らくも違くて。私はもう、わかささんのことが好きだ。