十七話
日付も変わりかけの真夜中に帰宅して、いつかの日みたいにわかささんに世話を焼かれて、気付いたら寝落ちして。昨晩は多分、そんな感じだった。文字通り寝落ちしたようで、最後の方のことはあまり覚えていない。
お酒と涙と残りの上手く言葉にできない諸々のせいで──というよりかは、おかげで、よく寝れた。カーテンの隙間から差し込む朝日を避けるように寝返りを打とうとし、上手く打てなくて重たい瞼を開く。そうしたらすぐ近くにわかささんの寝顔があって、しばらくそれを眺めているうちに自然と意識は覚醒した。寝顔も綺麗でちょっとムカつくな。
今日も今日とてベッドに侵入して私を抱え込むようにして寝ているわかささんに若干思うことはあるもののそれはまあいいかと軽く流して、少しの肌寒さから逃れるように毛布の中でより密着する。覚えていないだけで私が引き込んだ可能性もなくはないし、言ってしまえばいつものことだ。
こんな感じで私たちの距離は、いつからかはよく覚えていないけど、いつの間にか物理的にグッと縮まってしまっていた。これが、これまで沢山の女の人を落としてきたモテ男のやり方。東京はやっぱり怖い。
昨日はきっと私よりも遅く寝たのであろうわかささんは、私が目を覚ましてその寝顔をしばらく見つめていても起きそうにもなかった。枕の横に投げ出してあった携帯を手に取って時間を確認する。十時半。……土曜日だし、別にいいや。
わかささんの腕の中で頭を動かしたり体を動かしたりして自分にとって過ごしやすい体勢を探りながら、ぱかりと携帯を開く。そのままアドレス帳を選択してすぐに、昨日の夜に新しく追加された「乾 青宗」の三文字を見つけた。名前まで可愛い。
青宗は最初、アドレス交換をすごく渋った。なら電話番号だけでも教えてと言っても結構嫌そうな顔で押し黙るだけ。あまりにも露骨な拒絶にショックを受ける私を見かねたわかささんが「教えてやれば」と言ってくれて、ようやく携帯を取り出してくれたのだった。
連絡はしてくるな、しても無視すると言われたが、別に無視されたところでさして傷付かないので定期的にメールは送ろうと思う。それにあの子はもうすぐ誕生日だったはず。「一緒にご飯いこう、なんでも奢る」と言った時は満更でもなさそうな顔をしていたから、誕生日にかこつけて沢山食べさせよう。
あの子、昔からいっぱい食べてたよな。大きくなった今はもっと沢山食べるんだろうな。結構お金かかりそう。両親からの仕送りを使うようなことじゃないし、あの子に沢山奢るためにもそろそろバイト始めなきゃ。
少し前にわかささんたちの職場の近くの学習塾がバイトの募集をしていたから、まずはあそこに応募する。落ちたらその時はその時で、また別のところに応募しよう。
青宗に昨晩醜態をお見せしたお詫びと「食べたいものがあったらなんでも言ってね」みたいな言葉を並べたメールを打ち込んでいたら、上の方から唸り声が聞こえてきた。ちらりと携帯の画面から目を逸らして前を見ると、わかささんがぎゅっと眉間に皺を寄せて何度か瞬きをしている。いつものように「おはよう」と挨拶をしたが、「うん……」みたいな言葉が返ってくるだけだった。わかささんは朝が弱いので、家に泊まると毎朝こうだ。
毛布の中で擦り寄って足を絡め、つむじに頬を寄せてきたわかささんをそのままにして青宗に送るメールを確認する。誤字なし、脱字なし、難しい言葉なし。久々に会った幼馴染みとして適切な距離感だろう。送信。
「さむ」
「もうすぐ十一月だからね。そろそろ冬用の布団買うから、それまではこの毛布で我慢してください」
「……今日買いに行こうぜ」
「別にいいけど、今日買っても配送お願いしたら今日明日には来ないでしょ」
「車出す」
「わかささん車持ってるの?」
「オレのっつーか、ジムの? ダチの弟妹連れてどっか行くのに便利だからって何年か前にベンケイと買ったんだよ」
ジムの近くの駐車場借りてる、と続けたわかささんは、私の手から携帯を引き抜くと枕の横に置いた。そのままぎゅっと抱き締めてきたので、されるがままになりながら「ふーん」と呟く。さすが社会人。車もバイクも持ってるんだ。私なんて自転車もないのに。
実家にはあるけど必要ないと思って置いてきた自転車のことを思い出していると、私で暖を取りながらわかささんは「他に欲しいもんある?」と聞いてきた。あるかな。生活に必要なものは大体揃ってて困ってないしなあ。
「あ、ジャム。なくなりそうだから欲しい。スーパー行こ」
「そういうんじゃなくて、服とか靴とかアクセサリーとか。なんかねえの?」
「特には……?」
そういうのはまあ、バイト始めてからでいいかな。どこか不服そうに「なんかあんだろ」と言うわかささんに「ないと思うけど」と返しながら、もう既に私の意識はジャムに逸れつつある。いちごもブルーベリーもマーマレードも美味しかった。次はピーナッツバターを買いたい。
ジャムが豊富に揃っているスーパーが近所にある時点で、このアパートに引っ越してきた意味はあったと言える。駅までも近いし、駅前も利便性がいいし、このアパートを選んだ時の私の審美眼は決して間違っていなかった。落ちてる酔っ払いを拾って家に居着かせることで地域の治安の向上も成し遂げたし。
その酔っ払いはというと、私の答えの何が不服だったのかむくれている。こういう変な表情も元の顔が良いと可愛く見えるんだから得だ。今までこの人を拾ってきた女の人も、こういう所にギャップを感じて好きになってしまったんだろう。なんか悔しいな。
そんなことを考えながらわかささんの顔を見つつその腕の中でじっとしていると、メールの受信音がした。青宗かも。わっと嬉しくなって携帯に手を伸ばそうとしたものの、わかささんの腕に阻まれて動けない。いじめかな?
「メール来た」
「来てたな」
「……携帯見たい」
「ダメ」
「ダメじゃないよ」
駄々っ子か。
こんなことしなそうな人なのに、普通にしちゃうんだから困るよ。他の女の人にもこういうことしてきたんだろうな。本当に困る。
もう一度「ダメ」と言ったわかささんにきゅんと疼いた胸を無視して、手を伸ばして脇を軽く小突く。離せ離せ。他の女の人と同じ扱いするな。
「青宗だったら困る」
「なんで青宗だと困んだよ。後でいいじゃん」
「とにかくすぐ返事しないとダメなの。一回返事遅れてそのまま二度と連絡来なかったら、わかささん責任取れるの? 取れないよね?」
「あー分かった分かった。見てやるから」
「見てとは頼んでない!」
さっきよりも力強く脇腹を突いたが、わかささんにはどこ吹く風だった。暴れる私を足を使って抑え込みながら、携帯を手に取って操作している。私の携帯!
「焼肉だってよ。何の話してんだこれ。好物?」
「違う、何食べたいのって聞いたの。っていうかやっぱり青宗からなんじゃん。毎週食べに行こうねって返信するから返して」
「……はい、送った」
「なにを⁉︎」
「オレが奢るって送った」
「私が! 奢るの!」
グッと手を伸ばしてわかささんから携帯を奪い返す。そのまま画面を見ると、確かに「オレが奢る ワカ」と青宗に送ってあった。やめろやめろ。分かりやすく自分の名前書くな。
慌てて「私が奢るからね」と返信をし直して、青宗からなんてメールが送られてきていたのかを確認する。……本当に「やきにく」だけだ。しかもひらがな。ああ懐かしい。私が青宗たちのお隣さんだった頃、青宗はまだ七歳だった。小学校では「青」しか漢字を習っていないのに無理して「乾」を「犬い」って書いたりして……。
懐かしさとあの頃の青宗の可愛さに万感の思いでため息をつく。あの頃の青宗にも、今の青宗にも、どちらにもどちらの良さと可愛さがある。焼肉沢山食べさせてあげたい。
わかささんに対して感じるのとはまた別の胸の疼きに悶えていたら、手の中からまた携帯を奪われて、抱き締められた。そのせいで更に胸が疼く。ドキドキしすぎておかしくなりそう。
動揺を悟られないように冷静ぶってわかささんの肩に頭を寄せながら、「青宗とどういう仲ですか?」と聞いた。青宗はお世話になってる先輩だって言ってた。
「前にダチとチーム作ったって話はしたろ?」
「うん、聞いた」
「そのチームの八代目と九代目の副総長が青宗」
「なるほど」
やっぱりそういう繋がりか。青宗の着てた特攻服の背中にはなんて描かれてたっけ。……ダメだ、昨日は冷静じゃなかったから全然覚えてない。青宗にばっかり夢中になって、服までは気にしてなかった。
私が微妙に理解出来ていないことを分かっているだろうに、わかささんは説明しようとはしなかった。私に「お前は青宗の姉貴のダチなんだっけ」と聞いてくる。「そうだよ」と答えてから、ちょっと迷った。わかささんはどこまで知っているんだろう。
知らないなら言わなくてもいいことだと思う。知っていたとしても、無理に言うことじゃない。
背中に回った腕の力がちょっとだけ強くなって、前に引き寄せられる。体と体がもっとくっついてほんの少し息がしずらくなった。……ドキドキするからやめてほしい。
「なあ」
「うん」
「今日から酒禁止」
「……うん?」
何を言われるのか、と少し身構えた体から力を抜く。思っていたのとは違う方向の話だった。酒禁止。なんで?
「あと一年は禁酒。成人したらオレと飲も」
「別にいいけど……でも昨日は久々に飲んだから変になっちゃっただけだよ。次はもう失敗しないと思う」
「いいから禁止。どうしてもってんなら家でだけ、あとオレがいる時だけな」
「変な縛りだなあ」
まあ本当に別にいいんだけどさ。そこまで飲みたいわけじゃないし、高校生の頃と違ってもう飲む理由なんてないし。
わかささんの腕の中でもぞもぞ動いて頭の位置を調整し、ちょっと上にある顔を見上げる。なんだか真面目な顔をしている。これは本気の酒禁止令っぽいぞ。
昨晩の失態は酒禁止令を出されてしまうほどのものだったらしい。友達でもない人に変な話聞かせて今後の大学生活の雲行きをちょっと怪しくし、仲良くしてくれている同級生に迷惑をかけ、何年かぶりに再会した幼馴染みに泣き縋った。更にわかささんには「迎えに来て」とかいうメールを送って、「やっぱりいい」とかいうメールも送って、結局迎えに来させた挙句にまた抱き着いて泣いちゃった。
こうしてやらかしを列挙していくと、これは確かに飲まない方がいいかも。酒禁止令に従おう。
「しばらくお酒飲みません」
「約束な」
「うん、約束。私が二十歳になったら一緒にお酒飲もうね。これも約束」
「ん、約束。……そういえば誕生日いつ?」
「五月五日。こどもの日だよ、覚えやすいでしょ。わかささんのお誕生日は?」
「十一月」
「……の、何日?」
「二十八」
「わりとすぐじゃん……! 何か欲しいものある?」
「……逆に何ならくれんの?」
「……ケーキ?」
めんどくさくて最近はさっぱりだけど、それなりのものを手作りできる。
でもわかささんって甘いもの好きじゃないしなあ。他になにかあるかな。わかささんが喜びそうな……。
「オレは別にキスとかでも」
「あ、お酒。実家からちょっと出たところに温泉あって、そこの辺りの地酒が美味しいの。あれ取り寄せる」
いつも安い発泡酒や缶ビールばっかり飲んでいた私たちにとって、あの地酒はたまのご馳走のようなものだった。美味しいから気に入ってもらえると思う。
わかささんの言葉を聞かないふりで無視して、べらべら話し続ける。キ……なに? 私は何も聞いてない。キスとかそんな、本当に何も聞いてないから。
他の女の人たちと同じ扱いになってたまるものか。キスしたら多分、その枠に入っちゃうでしょ。それは嫌。ちょっとは特別でいたい。
何か言いたげなわかささんを無視して地酒の良さを語り続けていると、突然インターホンがなった。ぴたりと口を閉ざして、わかささんの胸を押す。誰か来た。出なくては。
謎に抵抗して抱き締める腕の力を強めるわかささんの胸をもっと押して、「誰か来てるんだけど」と抗議する。早く離してよ。
「なんか頼んでんの?」
「なんにも頼んでない」
「じゃあ居留守でいいだろ」
「でも大家さんかお隣さんかも」
「なら余計出なくてよくね? オレこの前睨まれたし」
「わかささん、この辺りだとゴミ捨て場で寝てるヤバい酔っ払いってことで有名だから……」
しかも私のその場しのぎの「友達」発言のせいで余計に警戒されている。上京したての女子大生をだまくらかして家に上がり込んでいる不届き者だと思われているのだ。半分正解である。
そのまましばらくベッドの上で揉み合っていると、もう一度インターホンが鳴らされた。わかささんはスンと押し黙ってドアの方を見ている。本気で居留守を使う気だ。コイツ。
二回もインターホンを押したってことは、きっと何か用事があるはず。わかささんの肩に手を置く。いざとなったら突き飛ばす。
私がそう決意した次の瞬間、ドアの向こうから鼻をすする音と、情けない鼻声で「姉ちゃあん」とぼやく声が聞こえた。反射でわかささんを突き飛ばしてベッドから飛び降り、ドアに駆け寄る。背後から壁になにかぶつかる音と「いっ」と呻く声が聞こえたがひとまず無視した。ごめん、わかささん。
ドアスコープを確認することもなく鍵を開け、ゴミ捨て用のサンダルを突っかけて慌ててドアを開く。そうしたらやはりと言うべきかなんというべきか、頬に大きなガーゼを貼った従弟が大きな瞳を涙で滲ませながら突っ立っていた。半袖短パンで。
私を「姉ちゃん」と呼ぶのはこの世に従弟ただ一人なのだ。
「ちょっ……な、なんで……?」
「姉ちゃんいた」
「そりゃ居るよ。ここ私の家だし。え、叔母さんと叔父さんは? 一人なの?」
「喧嘩して、家出した」
「ねえもうほんと……」
額を抑え、深くため息をつく。この子は本当にもう、どうしてこうなのか。私が上京して二ヶ月経つか経たないかの短い期間でぐんぐん背は伸びて成長しているのに、精神だけがずっと子供。これであと何ヶ月か後には中学生になるなんて信じられない。
ため息をついた私を見て、不安そうな顔で瞳を潤ませる従弟の頭の上に手を置く。もうほとんど背丈も一緒で、目線だってそう変わらない。なのに、本当に。
「叔母さんに家出するって言ったの? ……その顔、言ってないんだ。分かった。じゃあ私が連絡するから……」
「え、連絡すんの……?」
「するよ、当たり前でしょ。ここは一人暮らし用の部屋なの。泊めてあげられないから、帰りなさい」
酔っ払いが今も中にいるけど。
もちろん、まだ小学六年生の従弟にそんなことは言えるはずもない。その酔っ払い相手に恋をして、これまでの交際相手に嫉妬している様なんて絶対に見せられない。
真面目なお姉さんぶった表情を取り繕って、それとなく玄関から出てドアを閉めた。部屋の中には誰もいません。
「あの靴誰の?」
「私の」
「姉ちゃんの靴よりデカかった」
「私のです」
「もしかして彼氏?」
「違う、私の靴」
「彼氏と住んでんの? どんな人? 大学生? 伯父さんと伯母さんにもう紹介した?」
「よし分かった、姉ちゃんがお昼奢ってあげる。ファミレス行こうファミレス」
目敏いなこのガキ……。
目敏くはあるが馬鹿でもあるため、ファミレスの一言で「ステーキ食う!」と意識が逸れた従弟に少し安堵しつつ、「財布と携帯取ってくるからここで待ってて」と言って部屋に入る。ベッドの位置的にその上に座っていたわかささんと部屋に入ってすぐに目が合うことになり、面白そうにニヤニヤ笑っているのがよく見えた。この人も本当に……。
床に落ちていたトートバッグから財布を取りだしつつ、ため息をついて「従弟」と言えば、「ふーん」と返ってきた。
「従弟は泊めてやんねーのにオレのことは泊めるんだ」
「……じゃあ聞くけど、今更『泊まんないで、帰って』って言って帰ります?」
「帰んねえ」
「でしょ。それにあの子とわかささんは色々違うし」
「ふーん」
ご機嫌そうな声と表情に変な気持ちになる。ベッドから携帯を拾い上げてスウェットのポケットに突っ込みながら、「なんかムカつくなあ」と思った。私以外にもわかささんを家に泊めてあげたい女の人はたくさんいる。わかささんは選び放題だ。私にとってはわかささんだけなのに。
そんなことを思ったら、ちょっとイタズラしたくなった。ベッドに膝をついて乗り上げ、スウェットから出した手をニヤニヤしているわかささんの右肩に置く。そしてグッと顔を近付ければ、ほんの少しだけ私がわかささんを見下ろす形になった。
たったこれだけで私はまたドキドキしている。だけどわかささんは平然と私を見上げ、何も言わない。これが経験の差。私だけが意識して、私だけがドキドキしてる。……本当にムカつく。
衝動のままに、更に顔を近付けてわかささんの鼻の頭にキスをした。そのあとは肩を押すようにしてすぐに離れる。やっちゃった。
誤魔化すように「叔母さんが迎えに来たらすぐ帰ってきます。布団買いに行くんですよね?」と聞いたが、わかささんはぼけっとした顔で私を見上げるばかりだった。
少しその頬が赤くなっているように見えて、私の顔まで熱くなってくる。わかささんは肌が白いから、こういう時に損だなと現実逃避をした。
しばらくの間、私たちは赤い顔で見つめあった。だけどまたインターホンが鳴らされて、それを皮切りに私が先に動き出す。「帰ってきたら買い物行こうね」と一応念押しすれば、わかささんはまだ赤い顔で「うん」と言った。
なに、なんなの。なんで照れるの。どう考えたって、男の人にあんなことするの初めてだった私の方が照れ臭いのに!
「姉ちゃん顔赤くね?」
「赤くない」
「あ、チュー? 彼氏とチューした? ヒュー!」
「か、彼氏じゃないし!」
「彼氏じゃないのにチュしたんだ! 大学生やべー!」
「ちょっと! 声でかい! 怒るよ!」
「オレも彼女欲しい!」
「小学生にはまだ早い!」