十九話

「おはよー」
「あ、おはよう……」

 うーん、ダメそう。

 週明け、月曜、朝。大学にて。目を合わせずにぎこちなく挨拶を返してお友達の方へと小走りで駆け寄っていった同級生を目で追ってから、適当な席に座る。これは例の話が広まってしまっているやつだな。

 先日の飲み会の後、どうやらチャラチャラ三人衆は私に関して囁かれていたというでたらめな噂の訂正はしてくれたらしい。その結果、私が山で死のうとした話が出回ってるっぽい。まあ仕方ないか。
 先に回っていた噂はどうにも嘘っぽいというか完全に嘘だったので、そちらの噂がなくなったならそれでいい。今回の話に関しては半年ほど前の私がそういう選択をしたのは紛れもない事実なので、わざわざなんやかんやと説明する必要もないだろう。死のうとしたが失敗して生き残ってしまい、今も生きている。うん。事実です。


 ぐるりと教室を見渡せば何人かの知り合いが目に付いたが、そのうちの誰とも不自然に目が合わなかった。小さくため息をついてから机の木目を見下ろす。ドン引きされてるのを空気だけで感じる。そりゃ引くよな。あれは立派な自殺未遂だった。今の私がまともに見えることもあって、余計に衝撃的なのだろう。金髪のまま上京して大学に通っていれば、変なギャップを感じさせず、こんなことにはならなかったかもしれない。


 あーあ。わかささんにもこのことを言わなければならない日が来るのだろうか。そうしたらあの人にどんな反応をされてしまうのかと思うと少し怖い。同級生に何を思われても何とも思わないのに、我ながら現金だ。

 この世に知らなくていいことと知ろうとしなくていいことがあるように、知っていいことと知っていて欲しいことも存在している。私にとってあの冬の日のことは今の所そのどれにも分類されていない。しかし今後のことは分からない。しかも好きな人相手ともなれば、余計に分からなくなる。知って欲しくなる日が来る可能性だってあるだろう、と他人事のように思うからだ。


 ぼんやりとあの頃のことを思い出す。赤音の死を私が知ったのは、赤音の葬式の終わった日より何日も後のことだった。定期的にやり取りしていた手紙とメールが何も返ってこなくなって、電話も繋がらず、とうとう両親に聞いたら言いにくそうに「赤音ちゃんは火事で亡くなったの」と言われたのだ。
 とっくに焼けて更地になった赤音の家へと何も知らずに送っていた手紙は、一応ご両親と青宗の仮住まいへと転送されていたそうだが、返事が来ることはなかった。当たり前だ。返事をくれるはずだった人はもうどこにもいなかった。

 赤音の死を受け止められずに部屋に引きこもった。朝も昼も夜もなく起きれるだけ起きて、気絶するように眠り、両親に「少しでもいいから何か食べて」と言われて差し出されるものを食べ、その間もずっと赤音のことを思っていた。

 そうして数日が過ぎたある日。寝不足で正常に働かない頭でそれでも赤音を思っていた私は、ふと窓から差し込む眩い朝日を見て、何もかもがどうでも良くなってしまった。オレンジ色を帯びた陽光が部屋いっぱいに降り注ぐのを見ているうちに、赤音の死をどうしようもなく理解した。あの瞬間、私の心は凍り付いてしまったのだ。


 それからの二年は自分を大切にせずに生きた。自分を傷付けられる方ばかりを選ぼうとして、そうして選んだ人が山田だった。だけど山田は思っていたより良い奴で、山田や山田の友人たちと一緒にいる時間は楽しかった。楽しいと思えば思うほど、赤音に二度と会えないことが苦しくて辛かった。

 高三の卒業間近に、「これに出席したら卒業させてやるから」と言われて一日だけきちんと朝から学校に行ったことがあった。滅多に登校しない私と山田の席は教室後方に固められていて、久々の学校もひとりじゃなければ気が楽だったことを覚えている。
 その頃は本当に卒業間近だったから、少しの授業とホームルームだけで帰宅出来る予定だった。でもそのホームルームで担任が「進学するにしても就職するにしても、そこをゴールにしちゃダメだ。これからもまだまだお前たちの人生は続いていくんだ」みたいなことを言って、そしてその言葉を聞いた私は色んなことが分からなくなってしまった。
 大学に行くのを決めたのは、赤音ならそうしただろうなと思ったから。大学を選ぶ時にこだわったのは、赤音の希望したであろう道に進みやすいかどうか。赤音のいない世界でそれまで生きていたのだって、「赤音ならきっと」と考えたからだった。

 私の世界の大半は良い意味でも悪い意味でも赤音で構成されていた。赤音を失ったことで余計に、私の世界で赤音の占める比重は大きく重くなった。
 赤音を理由に生きた二年間。赤音を理由にして責任を押し付けた二年間。赤音のためと理由をつけて逃げていた二年間。これからも私はそうやって生きていくのだと思ったら、もう全部終わりにしたくてたまらなくなった。だから、せめて確実に死ねるようにとお酒を沢山飲んで近所の山に登って。

 あの時の私は愚かな判断で、間違った選択だった。赤音を理由に生きることから逃げるために赤音を理由に死ぬなんて、決して許されることじゃない。きっと赤音も怒っているはずだ。

 ……こういう考え方をやめなきゃいけないんだよね。赤音が、赤音も、赤音は。そうやって赤音を理由にして、事ある毎に求めるのが何よりダメなんだ。自分にとって都合のいいことは自分の意思で決めて、都合の悪いことは赤音を理由にする。それじゃあいつまで経っても赤音に顔向けができない。


 言ったそばからまたしても赤音を理由にした自分に呆れながら、トートバッグから教科書とペンケースを取り出した。その弾みにトートバッグにつけた犬のマスコットが揺れる。この前青宗に「変な犬の人形」と言われたのと同じマスコットだ。電話の流れから推理するに、恐らくわかささんにもそう言われていたと思われる。
 こんなに可愛いのに、なんであんな酷いこと言うのかな。マスコットを掴んでぎゅっとその頬を揉む。手のひらにすっぽり収まるぐらいの大きさのマスコットは中に綿が入っているので柔らかい。そしてしょぼくれた顔が可愛い。犬種がパグかプードルかチワワか分からないような姿形をしているのもまた可愛い。
 暇潰しに入ったゲームセンターで出会って一目惚れしたこのマスコットは、なんとワンプレイで私のところに来てくれた。犬だけに。

 わかささんにも青宗にも不評だけど、私はこういう自分の好きな物を好きだと言って大事にして生きていける人間になりたいのだ。何が大切だと思う気持ちも、誰かを好きだと思う気持ちも、もういない人に会いたくなって悲しくて辛くなる気持ちも、その全部を大事にしていきたい。赤音が大好きだと言ってくれた私を私自身が大事にできないのはきっと悲しいことだから。

 山で死のうとしたあの日から数日経って病院で目が覚めた時、両親は泣いていた。学校での私の様子を不審に思って家に来て、部屋にいない私を町中を駆け回って探し、山中で意識を失っていたところを見つけてくれた山田も泣いていた。

 私は私を大事に思ってくれる人を大事にできない。ようやくその事に気付いたのがその時で、私はそれが辛かった。辛かったから、色々なものを全部捨てるつもりで東京に出てきた。


 そのはずだったのに、上京初日に酔っ払いを拾ってしまって、結局なにも捨てられないままここまで来ている。それどころか私はあの日拾った酔っ払いを好きになってしまった。捨てるなんてもう出来そうにもない。わかささんの特別になりたいと思ってしまった。

 青宗だってそうだ。会わなければ会わないまま、捨てるも拾うも何もなく生きられた。だけど再会してしまったから、そんな生き方はもう選べない。あの子は赤音の大事な弟で、それを抜きにしたって私にとっても弟のような子。赤音が生きていたならしてあげたであろうことは全てしてあげたい。私自身があの子にしてあげたいと思うことも沢山ある。
 そのひとつめが焼肉だ。しかも私の奢りで焼肉。すごく姉っぽいだろう。姉っぽいってなんなのかよく分からないけど、多分焼肉を奢るのはすごく姉っぽい。

 だからわかささんに奢られては困るのだ。結局私が青宗の分を奢ってわかささんが私の分を奢ることになったけど、それもどうなんだという話。どうにもわかささんをチームの先輩として尊敬しているらしい青宗は、わかささんが焼肉の席に同席したらそちらに夢中になってしまうのでは? という問題も深刻だ。

 マスコットを握ったままそんなことを考えていれば、突然隣の椅子が勢いよく引かれ荒々しく誰かが腰かけた。何、誰。一瞬で意識がこちら側に引き戻される。飛び上がるようにして隣を見たが、知らないショートカットのお姉さんがいるだけだ。私をじっと見つめる赤いメッシュの入った黒髪につり目がちな瞳が綺麗なお姉さんには見覚えがない。事実百パーセントの変な噂が流れた結果、変な人に目を付けられてしまったんだろうか。
 マスコットをぎゅっと握り潰して視線に耐える私に、お姉さんは眉を下げて笑う。……あ。その笑顔には見覚えがあった。よく見ると顔のパーツなんかもちゃんと覚えてる。

「ゆ、遊佐さん……?」
「うん。おはよう、吉野さん」
「おはよ……あのね、先週のことなんだけど……色々と迷惑かけてごめんね」
「別に気にしないでいいよ。こっちこそアイツらに付き合わせて嫌な思いさせちゃってごめんね」
「いやいや、全然、ほんと全然大丈夫だから」

 やっぱり遊佐さんだった。

 突然のイメチェンに驚きつつも、見た目が変わっても遊佐さんは遊佐さんなので話はテンポよく進む。「ちゃんと帰れたみたいで良かった」と微笑まれたので、「それも本当にありがとう」とその場で頭を下げた。遊佐さんがわかささんに偶然会って話をしてくれたおかげで、わかささんはあんなにも早く私を見つけてくれた。

 メッシュの入った黒髪を揺らして、あの街にいた頃と同じ顔で笑う遊佐さん。なんか変な感じ。
 私がそう思っていることを知ってか知らずか、遊佐さんは自分もバッグから教科書を取り出しながら「私ね」と話し出した。

「あの街が大っ嫌いだったの。狭くて古臭くて馬鹿しかいない。あの街で暮らしてる全員のことが嫌いだった」
「うん」
「吉野さんが引っ越してきた時、『東京にはこんな子がいるんだ』って思って憧れた。東京に行けば私もこの子みたいになれるかもって思ってた。だけど吉野さん、山田とつるみだしてから典型的なあの街の馬鹿と同レベルになっちゃったでしょ」
「う、うん」

 すごい喋るし、すごい勢いで貶してくるな。

「吉野さんも分かってると思うけど、私、高校の頃は吉野さんのことあんまり好きじゃなかった。憧れてた子が馬鹿のレベルまで落ちちゃって嫌になったの」
「そっか」
「でも大学で再会して、『吉野さんも普通の女の子なんだなあ』ってようやく気付けた。甘いものが好きで、結構大袈裟で、嫌いな人が話してる時は堂々と携帯いじって話無視して、わりと面食い」
「そ、そうかなー?」
「そうだよ。でもね、それに気付いたら馬鹿らしくなってきちゃった。どれだけ吉野さんになりたくたって、私は私なの。だから髪も切ったし、染めたし、メイクも結構変えた。あとアイツらの連絡先も全部消したし、これから会っても無視することにした」
「遊佐さんがそれでいいなら……」

 なんか変な風に吹っ切れちゃってない? いや本当に遊佐さんがそれでいいならいいんだけどね?

 机に肘をついて顎を乗せた遊佐さんは、カラッと笑うと「吉野さんのおかげだよ」と言った。私はその笑顔を見つめたまま「私のおかげ」と復唱する。そんなことを言ってもらえるほどのことを、私は人にできていない。

「吉野さんは色んなことに向き合おうとしてるの見て、私もそういう風に生きていきたいなって思ったんだよ」
「わ、たしは……向き合えてはいない、と思う」
「何言ってんの。ちゃんと向き合ってるよ。今もほら、こうやって見つめあって喋ってんでしょ」
「そういう話?」
「あはは、今のは冗談。冗談だけど、そういう話でもある。吉野さんが仲良くしてるあのヤンキーっぽい人だってさ、吉野さんがあの人のこと大事にしてるから、あの人だって吉野さんのこと大事に思うんだよ。それであんな風に必死になって吉野さんのこと探してたんでしょ? きっとそれが向き合うってことだと思う」
「ひ、必死になって探してくれてたんだ」

 確かに汗の匂いしてた。あれってそういうことか。そっか、わかささん、遊佐さんから見て必死に見えるほど真剣に私のこと探してくれてたんだ。
 あの時のことを思い出してなんとなく熱くなってきた頬を押さえてデレデレしていると、遊佐さんが「やっぱり好きなんだ?」とニヤニヤしながら聞いてきた。小さく頷く。やっぱり好きみたい。

「遊佐さんから見ても、私、あの人のこと好きそうに見えてた?」
「見えてた。なんか話してても会っても嬉しそうだったし。っていうか、そもそも吉野さんはああいう系の人が好きなんだと思ってたよ」
「ああいう系?」
「山田とか」
「アイツはない」
「ないんだ」
「マジでない。アイツは何、友達?」
「私に聞かないでよ」

 もう一度「ないんだ」と言った遊佐さんに「絶対ない」と断言したりして盛り上がっていると、ギャーギャーと騒がしい三人組の男が教室に入ってきた。チャラチャラ三人衆である。
 彼らが入室するなり私とチャラ男のうちの一人の目が合ってしまいチャラチャラ三人衆は顔を寄せ合ってわざとらしくコソコソと話しながらこちらを見てきた。私はなるべく自然な感じでそちらから目を逸らしたがどうにも不自然に見えたらしく、遊佐さんが軽く振り返ってそちらを見る。それから「ああ」と呟いた。

「なんか用?」
「えっ」
「あっ」
「いや別に」
「じゃあ見てくんなよ」

 心底ウザそうに吐き捨てた遊佐さんに教室がシンと静まり返る。私も「この人意外と口悪いな」と思った。

 チャラチャラ三人衆は遊佐さんがそんなことを言うなんて思っていなかったのか唖然としているし、教室内にいる人たちも「何今の……」と動揺しているようだった。そんなことは気にしない遊佐さんだけが私に向き直って「今日五限までビッシリだよね」と確認してきた。

「うん、そうだけど」
「私もそんな感じだから終わったらゲーセン行こ。吉野さんのカバンについてるへちゃむくれ、私も欲しい」
「へ、へちゃむくれ⁉︎」
「ブス犬だけど、愛嬌感じる顔しててトータルで見れば可愛い犬じゃん」
「ぶ、ブス犬⁉︎」

 わかささんと青宗だってそんなストレートに貶しては来なかったぞ。お気に入りのマスコットをボロクソに言われて呆然とする私に、遊佐さんは眉を下げて笑った。

「友達とお揃いとかやってみたかったんだよね」
「へちゃむくれのブス犬だけどね……」
「味があっていいんじゃない?」

 味があるって褒め言葉か?

ふたつおりのひとひら