二十六話
いつもの駅前、いつもの場所。今日はせんじゅちゃんたちと一緒にご飯を食べに行くことになっている日だ。
約束の時間よりも結構早く待ち合わせ場所に着いたので手持ち無沙汰に携帯を見ていると、何メートルか向こうから「あーっ!」と聞き馴染みのある声が聞こえてきた。携帯から顔を上げた次の瞬間には腰にドンと何かがぶつかる。うわっ。
「また外で待ってる!」
「ごめんごめん。せんじゅちゃん、今日も服それだけ? 寒くない?」
私の腰に腕を回してギュッと抱きつきながら、ムッと口を寄せて不服そうな顔をしているせんじゅちゃんの頭を撫でる。せんじゅちゃんはまだ不服そうな顔をしているが、僅かに表情をやわらげた。
もう十一月も半ば。結構寒くなってきているのに、この子は今日もトレーナー一枚しか着ていない。いくら暑くても薄手のパーカーぐらい羽織ってもいいんじゃないのかなという心配六割、外で待っていたことを咎められるのを避けるための言い訳四割。結構強引に話題を逸らしたのだが、せんじゅちゃんはにっこり笑って「寒くない!」と言ってくれた。ならいいかあ。
「おい千壽! 服着ろ!」
「もう着てるもん!」
良くなかった。
遅れて駆けてきたベンケイさんが、その手に持った小さなパーカーを高く掲げる。「着ろ」のポーズだ。
そんなベンケイさんを避けるようにして私の背中側に回り、また腰に抱き着いて顔を埋めてきたせんじゅちゃんを首だけ振り返って見下ろしながら「風邪引くよ」と声を掛ける。
「ジブン強いから平気。風邪にも勝つ」
「風邪も強敵だよ。ベンケイさんも負けちゃうかも」
「この何年か風邪引いてねえな……」
つまり負けない、とばかりにベンケイさんは大きく頷いた。そこはさあ……。
ため息を着きたくなりながらも、せんじゅちゃんの頭を撫でながら言葉を探す。
本人は大丈夫だと言っているけど、こんな薄着でいたら本当に風邪を引いてしまう。青宗も「オレは平気だ」と言って薄着で駆け回っては風邪を引いていた。そんな青宗を見ていたからなのか、私の中では子どもって風邪を引きやすいイメージがある。
薄着で出歩いて風邪を引くのは自業自得なのかもしれないが、この子はまだ小学六年生。つまり子ども。体調を管理してあげるのもまた、大人の責務というやつでは。
「ベンケイさんは勝つかもしれないけど、私は風邪に負けちゃうだろうな。わかささんだって負けるかも」
「えー」
「あとで本人に聞いてみな。多分負けるよ。あの人酒ばっか飲んでるし、真冬でもその辺で寝てそうだし」
私がそう言うと、ベンケイさんは難しい顔をするばかりで何も言わなかった。当たりらしい。この辺りは冬でも結構暖かいのかもしれないけど、そんなことしてたらそのうち死んじゃうんじゃないの? 心配になる。
また別の心配事が増えて頭を抱えたくなっていたのだが、せんじゅちゃんは「ワカも負けるんだ……」と言いながら私の腰に抱き着いたまま、ベンケイさんの方に手を伸ばした。上着を着る気になってくれたらしい。身近な強い人が負ける、と聞かされたことで風邪への恐怖心が増したみたいだ。
わかささんの場合は風邪に負けるというより、もっと最悪な凍死の方……と頭を悩ませる私を他所に、手早く上着を羽織ってまた私に抱き着いたせんじゅちゃんが「そういえばワカは?」と言った。そう、あの人全然来ないよね。
軽く辺りを見渡したが、それらしき姿はない。もしかしてまだジムの方にいるのかな。でもジムの鍵の管理は主にベンケイさんがしてるって聞いてたけど。
私がそんな風に考えていると、ベンケイさんがこちらをチラッと見ながら「あー……」と唸った。私は軽く首を傾げて見つめ返す。
「何かありました?」
「いや……さっきそこで二人組の女に声掛けられてな。時間掛かりそうだから置いてきたんだ」
「逆ナンじゃん!」
大丈夫? と私を見上げてきたせんじゅちゃんに「何が?」と聞き返す。あの人が逆ナンされたところで、私は全く問題ない。ちょっと嫉妬したり、ちょっと心が痛くなったりするだけ。それにはもう慣れたというか、最近ではそういう感情や痛みを上手に受け入れられるようになってきた。
ベンケイさんが最初に口ごもったのもそういう理由かな。別に私はわかささんの彼女じゃないので気にしないでください。
「あの人、二人でどこか出掛けててもよく女の人に声掛けられるんだよ。だからもう気にならないかな」
嘘。結構気になるし、たまに傷付く。
私がちょっと離れただけで声を掛けられたり連絡先を聞かれたりしてるのを見ると「この人やっぱりモテるんだなあ」といつも思うし、「わかささんにとっての私ってなんなんだろう」とついつい考えてしまう。有象無象の一人じゃなければいいなとも思う。
モテる人は信用しにくい。これまで私が男性関係でなにか具体的なトラブルがあったとかではないけど、ついつい「でもこの人、私以外の女の人にもこういうこと言うしするんだろうな」と思ってしまうため。
特に好きな人が相手なら余計に信用出来なくなる。信用して「この人私のこと好きなんじゃないの?」と思う度に、裏切られたあとが怖くなる。これは多分、私に恋愛経験がないからだろう。下手したらわかささんが初恋の人なまであるからね。
額を押さえて「アイツ……」とボヤいていたベンケイさんは、私が考え事をしながらもせんじゅちゃんの「そういう時は『パパ!』って呼びながら走ってくといいよ」というアドバイスに「パパかあ」と曖昧に返している間にも、何かの意志を固めたらしい。私の方を見ると「迷惑かけて悪ィな」と謝ってきた。慌てて「全然」と返す。
「ほんと、全然平気です。それでもわかささんのそばにいたくて一緒にいるんだし、もう納得してるっていうか、諦めてるっていうか」
「それは良くねえだろ。……一回オレの方からワカに言っとくか?」
「いい! それはいい! そこまでしなくていい!」
それでわかささんが「じゃあ他の女のとこ行くワ」とか言い出したら困る!
私がそう叫べば、ベンケイさんは「コイツ……」とばかりに呆れた顔で私を見た。せんじゅちゃんも「ワカそんなこと言うかな?」と首を傾げている。叫んだことで荒ぶる呼吸を整えながらも、私は「分からないの」と続けた。
「私、これまで恋って言えるような経験をしてないから……私がもっと経験積んでくればわかささんに釣り合うんですかね? 私も結構声掛けられたりするし、一回ぐらいついていってみるべき……?」
「それは絶対やめとけ」
「危ないと思う」
「そっか……」
二人揃って否定されちゃった。
呆れた顔のままため息をつくベンケイさんと、真面目な顔で心配してくれるせんじゅちゃんから目を逸らして下を向く。そうなると、結局「私が諦める」もしくは「それでもいいと吹っ切れる」しかなくなる。そして今の私にはそのどちらも難しい。
どうすればいいんだろうか。私なんかよりもずっと経験豊富そうに見えるベンケイさんにアドバイスをもらおうと顔を上げると、少し遠くの方で女性二人と並んで何かを話しながら歩いているわかささんの姿が見えた。
私がじっとそちらを見つめていると、せんじゅちゃんもその三人に気付いたのか「あっ」と声を上げて気遣わしげにこちらを見上げててきた。「大丈夫か?」と聞かれて言葉なく頷く。小学生に気を遣われて情けないが、実はあんまり大丈夫じゃない。胸がズキズキ痛む。
本当、彼女でもないのに馬鹿みたいだ。
露骨に面倒そうに手を振って女性二人を追い返そうとしているわかささんと、それでも食い下がる女性二人。そこまでしてお近付きになりたくなる気持ちは正直分かる。私だって彼女たちの立場ならそうするかもしれない。
そうしなくていいのは、わかささんが家のゴミ捨て場に落ちていたのをたまたま私が拾ったから。それ以外で、あの人たちと私になんの違いもない。
「おい、大丈夫か?」
「『パパー』って言ってくる?」
「……情けないんですけど、今すごく帰りたいかも……」
「よし、千壽行ってこい」
「パパーッ!」
小さく呻きながら俯く私を他所に、せんじゅちゃんは勢い良く駆けていった。確かにあんなに元気だと効くだろう。あの二人髪のふわふわ具合とか顔立ちとか微妙に似てるし、「子持ちかよ」って思うかも。
女性二人の反応が気になるものの、顔を上げられそうにもなかった。遠慮がちに背を撫でてくれるベンケイさんに甘えて、鼻を啜る。泣きそう。
「……そういう気持ちはもっとワカに伝えた方がいい」
「……どうでもいい女に『他の女の人に優しくしないで』って言われて、ベンケイさんなら迷惑に思いませんか。私なら思うんですけど」
なんだこの女って思うし、ウザって思うし、もうこの女はいいやって思う。そう思われるのは嫌だ。特別になれなくてもいいからそばにいたい。そばにいられなくなるぐらいなら、特別になんてなれなくてもいい。
「……ワカにとってお前は」
「こっちこっち! まずはごめんねだからな!」
「分かった分かった。ごめ……は? なに、泣いてんの? おいベンケイ、お前なに泣かせてんだよ」
ベンケイさんがなにか言おうとしていたのに、元気なせんじゅちゃんとせんじゅちゃんに引っ張られたわかささんがやってきたせいで、なんと言おうとしていたのか分からなくなってしまった。
わかささんに詰め寄られたベンケイさんが「お前はタイミングが悪すぎる」と怒っているのを聞きながら顔を上げる。するとすぐにせんじゅちゃんが抱き着いてきて、「遅くなってごめん!」と謝ってくれた。せんじゅちゃんは全然悪くない。私が勝手に泣きそうになってるだけだ。
まだ涙は出てないので意味はないが、なんとなく目尻を拭いながらせんじゅちゃんの頭を撫でていると、突如こちらを向いたわかささんによって両方の手首をガッと握られた。なに? 困惑しながらもわかささんを見る。
「なんで泣いてんだよ。オレが来るまでに何かあったか?」
「まだ泣いてないよ」
「まだっつーことはこれから泣くんだろ」
「こんな人前で泣いたりしないです」
せんじゅちゃんも見てるんだよ。
私のそんな言葉にムッと眉を寄せたわかささんは、ようやく手首を離してくれたかと思うと間髪入れずに背中に腕を回して抱き締めてきた。私たちの間に挟まれる形になったせんじゅちゃんが「せまい!」と声を上げるのを聞きながら、私は大人しく抱き締められたまま思わず笑ってしまう。
「大体さ、わかささんが『なるべくわかりやすい所にいろ』って言ったんだでしょ。私はちゃんと分かりやすいところにいたのに、わかささんが全然来なかったんだよ」
「悪かった」
「ほんと。誠意を示してね。私、今日はデザートいっぱい食べちゃうから」
「任せとけ。なんでも食わしてやるよ」
「やった。せんじゅちゃん、何食べたい? わかささんがなんでも食べさせてくれるって」
「ピザ!」
「よし、じゃあ今日はピザで」
ピザといえばイタリアン。イタリアンでデザートっていうと何があるかな。
そんなことを言えば、わかささんは「結局千壽に決めさせんのかよ」と笑って私を離した。私も微笑み返しながらそっと一歩退く。
ああ、ドキドキした。いつもの事とはいえ、こうして抱き締められたり触れられたりする度に、まるで自分のものじゃなくなったかのように心臓が早鐘を打つ。離れた今も心臓が暴れていることは触れ合っているせんじゅちゃんにはバレているだろう。もう一度頭を撫でて「内緒ね」と表情だけで頼めば、ふふんと鼻を鳴らしたせんじゅちゃんは頷いてくれた。可愛いし優しい。
ちらりと顔を上げて、わかささんと何かを話しているベンケイさんの方を見る。すぐに目が合って呆れたような顔をされた。なんかごめんなさい。でも今の私にはこれが限界です。
だけど、私はこれぐらいでいいのかも。特別になれなくたって、彼女になれなくたって、この人は私が泣きそうになっただけで抱き締めてくれるみたいだから。
せんじゅちゃんが思い出したように「ワカも風邪に勝てる?」と聞き、それに「負けるわけねえだろ」と笑って返すわかささんの横顔を眺めながら、湧き出るばかりの欲望には蓋をした。