二十八話
きっと出ないだろうなと思っていても、好きな人の家のインターホンを押す時は少し緊張した。しばらく待ってみてから鍵穴に鍵を差し込むのはもっと緊張して、指どころか手が軽く震えた。
わかささんの住むマンションと私の暮らすアパートとは、それなりに距離が近い。徒歩五分ほどで行き来できるし、最寄り駅も一緒だ。わかささんに言わせると「最寄りはふたつある」らしいのだが、どちらを使ってもそう距離は変わらないし、うちに近い方が飲み屋街があるからいいのだとか。
お互いの家がそんな距離感なので、鍵を受け取りに彼らの職場に顔を出したあとも一度家に帰る余裕があった。それでもまだ正午にもなっていない。朝イチでベンケイさんに電話があったという話だから、時間的にもそのあとはまた寝たのではと予想している。
簡単なお泊まりセットの入ったいつものトートバッグと、ついでに近くのドラッグストアで買ってきた軽いお見舞い品たちの入ったレジ袋をどちらも右手に持って、空いた方の手でドアノブを捻る。少し扉を開けた状態で「お邪魔します」と軽く声を掛けてみたが返事はなかったので、続けて小声でひとつお詫びしてから室内に入った。電気が落とされている上にカーテンも閉められていて暗い。やっぱり寝てるみたいだ。
一歩踏み込んだ時点で家とは違う匂いがすることに若干緊張しつつも、靴を脱いでなるべく静かに部屋に上がる。そのまま物珍しさに部屋中を軽く見渡してしまったのだが、一人暮らしの男の人の家に入るのは当たり前のことだが初めてで、なんというか言葉に迷った。観葉植物とか、間接照明とか……。
部屋の隅の方にあるベッドが丸く膨らんでいるのをじっくり見つめながら、言葉を探す。頭の中にぽんっと浮かんだデフォルメされた遊佐さんが「素直に言いなよ! 女連れ込んでそうって!」と頬を膨らませたが、頭を振ることで遊佐さんごと思考から追い出して考えるのをやめた。確かにちょっとそんなことも思ったけど、別に? わかささんが女の人を連れ込んでたところで、私には別になんにも関係なんてないし!
痛む胸を無視して、洗面所に入る。洗面台に置かれているメイク落としや女物のシュシュからも目を逸らした。……今更だけど不安になってきたな。実は彼女います、とかないよね?
手荒いとうがいをしてから部屋に戻って、少し悩んでからキッチンも確認した上で電気を付けた。シンクも濡れてないし、少なくとも今日は何も食べてないんじゃないだろうか。コンビニで買ったと思われるつまみのゴミとビールの空き缶しか置かれていなかった。体調が悪くても何か食べた方がいい。コートを脱いで荷物と一緒に床の隅に置いて髪を軽く結んだ。美容院、キャンセルの電話しなきゃ。
電気をつけたことで意識が覚醒したのか、布団の塊がもぞもぞ動いていつもの唸り声が聞こえてきた。勝手に冷蔵庫を開いて買ってきたものの中で冷やしておいた方が良さそうなものを入れながら、「起きました?」と声を掛ける。数秒置いてから掠れた声で名前を呼ばれたので「うん」と返事をして、冷蔵庫を閉める。この人はどうやって生きているのか不安になるぐらい何も入ってなかった。まあ週の大半は我が家に来てるからあんまり帰宅しないだけなのかもしれないけど。
これまた勝手にお借りしたコップに水を入れて飲みながらベッドの方に近付き、しゃがみこむ。ベッドからゆっくり顔の上半分だけを出して私を見つめるわかささんは、なるほど確かに気怠げで風邪を引いている人の顔をしていた。コップを持っていない方の手で触れてみた額も熱い。結構熱あるな。
「……夢?」
「夢じゃないよ」
「なんでいんの」
「ベンケイさんに鍵借りたの」
さっきまで外にいた私の手が冷えているからなのか、わかささんが擦り寄ってくる。好きにさせておきながら、軽く部屋を見渡して体温計を探した。ベッドサイドにも机の上にも置かれていない。まさか持ってないとかないよね?
「わかささん、体温計どこ? 熱測ろう」
「どっかいった」
「ええ……いつ熱出たの? いや、体温計ないから分かんないのか」
昨日の夜とかなんとかごにょごにょ言っているわかささんの頭を撫でてから、コップの中身を飲み干して立ち上がる。先に体温計を調達した方がいい気がする。場合によっては病院に行かせるべきだろうし。
家まで五分。往復でも十分なので、体温計ぐらいならすぐに取りに行ける。もしくはドラッグストアに買いに行こう。
一度結んだ髪を解きながら踵を返そうとしたのだが、ぎゅっと服の裾を掴んで行動を阻まれた。布団の中から腕を伸ばして充血した瞳でぼんやりとこちらを見上げてくるわかささんを見下ろす。……元がいいことは大前提として、弱ってる顔も結構可愛いな。
「どうしたの?」
「……帰んの?」
「ううん、帰らない。熱下がるまでいるよ。でもちょっと体温計調達してくる」
「なくていいだろ」
「良くないでしょ」
熱が出て気持ちまで弱っているのか、わかささんは裾を掴んでいた手を腰に回して抱き着いてきた。引き寄せられて前のめりになり、ベッドに片手を着いてなんとか体を支える。甘えてる。可愛い。
他の女の人にもこれをやってきたのだろうなと思うとやはり多少辛くはなるが、目の前のわかささんが可愛くて胸がキュンと疼くことにも変わりはない。持ったままだった空のコップをベッドサイドに置いて、またその頭を撫でた。
「すぐ帰ってくるよ」
「やだ」
「やだじゃない」
「ずっと帰んないで」
「ずっとは無理かなあ……ねえわかささん、彼女いる?」
「は? ……欲しいけど」
「そういう『いる?』じゃなくて、今いるかいないかの話」
「いねえよ。なんで?」
彼女いないんだって。それに普段よりも舌っ足らずに喋る様子も可愛く見える。ちょっとニヤけながら「洗面所見ちゃった」と言えば、わかささんはハッと目を見開いて布団を跳ね除け、「今すぐ全部捨てる!」と叫んだ。
そのまま立ち上がってベッドから出ようとしたので、慌てて手を掴んで止める。思ったよりもわかささんの体に力が入っていなかったのでつい押し倒すような形になってしまったが、突然動き出す方が悪い。
わかささんは私の腕の中でしばらく抵抗していたが、熱が出ていて調子が出ないらしくすぐに大人しくなった。荒い呼吸を繰り返しながら恨みがましい視線を向けてくるわかささんを私もじとりと見つめ返す。
「急に動かないの。熱出てる自覚ある?」
「でも他の女の私物あんの嫌だろ」
「……捨てる必要ないのでは。まだ使えるんじゃないんですか?」
「あったらお前使う?」
「私は使わない」
「じゃあ捨てる」
「なにそれ……」
私の腕の中でもぞもぞ動いて、上目遣いで見上げてきたわかささんに思わず呆然としてしまう。何その言い方。私が嫌がるから、私が使わないから捨てる、みたいな言い方じゃないか。
何も言わない私に何を思ったのか、わかささんは甘えるように私の体に擦り寄り、そして「めんどくさくて捨ててなかっただけだから」と呟いた。
「お前と会ってからは誰のことも家に上げてねえし、洗面所に置いてあんのは何度か泊めてやったダチのやつで、彼女とかじゃない。アイツのことももう家に呼ぶ予定ねえからこの機会に捨てる」
「……お友達のなら捨てなくていいんじゃないの」
「いや、捨てる。オレだってお前が『ダチのだから』っつってオレ以外の男が持ち込んだもの家に置いてたら嫌だ」
好きな人を抱き締めている、という現状以外の理由で、心臓が早鐘を打つ。否定するのも馬鹿らしくなるぐらい、頭の中で「もしかして」の文字が踊っていた。期待が顔を覗かせる。
くっついているから私の心臓が忙しないことなんてとっくに分かっているだろうに、わかささんは何も言わない。ずるいと思った。核心に触れてきちんと言葉にしてくれたっていいのに。
「……ひとまず今日は泊まる、けど」
「ン」
「持ってきた服とか、置いてってもいいの」
「いいよ」
喉が痛いのか僅かに掠れた、それでも柔らかくて優しい声でそう言ったわかささんの顔は見れなかった。触れ合ったわかささんの肌も、私の頬もとんでもなく熱い。風邪、移ったかも。