二十九話
……朝か。ソファーに接した壁の向こうで、隣の部屋の人がドタバタと慌ただしく動いている音で目が覚めた。若干痛む背中と腰を庇いながら、貸してもらったブランケットの中で軽く伸びをする。
熱を出したわかささんの看病を頼まれて家を訪ねて、ひとまず昨夜はお泊まりさせてもらうことになった。わかささんは「ベッド使っていい」とか「一緒に寝よ」だとか言ってきたけど、風邪を引いて熱を出している好きな人と同じベッドで寝ることは色々と憚られ、ソファーを借りた。ベッドと比べれば手足を伸ばせないぐらいには狭いけど、これで十分。
ゆっくり起き上がってソファーに腰掛け、もう一度伸びをしながらベッドの方を見る。わかささんはこちらに顔を向けてすやすやと寝ていた。そっと近付いてベッドのそばにしゃがみこみ、その額に触れてみる。……昨日よりも熱いかな。多分熱が上がってる。
昨日は結局「あれやって」「これやって」の連続で全く解放してもらえなくて、体温計を家に取りに行くこともドラッグストアに買いに行くことも出来なかった。だから正確にどれぐらい熱があるのかが分からなかったけれど、これは確実に三十八度以上はあるだろう。私の中では三十八度はデッドラインなので、そこを超えたら病院に行ってもらわなくてはいけない。
一応昼も夜も軽くご飯は食べさせて薬も飲ませたけど、やっぱり自宅療養にも限界はある。起きたら熱を測って、それ次第では病院に連れていこう。
そうと決まれば起きる前にわかささんが起きる前にさっさと体温計を確保しに行かなくては。しばらくその寝顔を見つめてから立ち上がり、昨日の夜課題をやるために借りた机の上に置きっぱなしにしていたペンを使って、書き損じのルーズリーフに「買い物行ってきます」とだけ書き置きを残した。起きるとは思えないけど、念の為。
ハンガーを借りて適当にかけていたコートを羽織って財布と携帯だけ持つ。軽く買い物してくるだけだし、寝起きそのままでも仕方ないだろう。この時間ならみんな忙しくしていて、誰も私のことなんて見ていないはず。
なるべく音を立てないように部屋を出て、コートのポケットに入れっぱなしにしていた鍵で扉を締める。……よし、行くか。
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遊佐さんに今日も休むとメールを送っていれば、わかささんが派手に寝返りを打って掛け布団を床に蹴っ飛ばした。生きているのか心配になるぐらい微動だにせずに熟睡していたわかささんの急な動きにかなりびっくりしたが、慌ててソファーから立ち上がってベッドまで向かった。熱があるんだから、暖かくしておくべきだ。
寝苦しかったからそんなことをしたのか、わかささんはベットの上で小さく体を丸めて再び熟睡しているようだった。持ち上げた掛け布団を掛け直してあげてから、その額に触れる。やっぱりまだ熱い。でも起こしてまで熱を測るのはどうなんだろうか。
持ったままだった携帯で時刻を確認する。十一時を少しすぎたぐらい。私が起きてから既に五時間は経っていて、課題、二度寝、読書とやれそうなことはほとんどやってしまっていた。わかささんはその間一度も起きていない。……そろそろ起こしてもいいんじゃないか?
体調が悪い時、熱がある時は寝て治すのが私のやり方なので、わかささんもそうだとついつい思い込んで寝かせすぎてしまったかもしれない。一度起こして熱を測って、三十八度を超えるようなら病院に行かせ、超えないようならご飯を食べさせてもう一度寝かせる。うん、そうしよう。
そうと決めたら、と携帯を後ろ手にソファーに放り投げ、空いた方の手でわかささんの肩を揺すった。もう片方の手は額に当てたまま、冷たいのがお気に召したのか擦り寄ってくるわかささんの好きにさせておく。
「わかささん、起きて。もうお昼」
「……」
「病院行かなきゃいけないかもだから、熱測ろう」
「……んー」
「はい、おはよ」
しつこく声を掛け続けたことが意味を成し、薄らと目を開けてこちらを見上げたわかささんは、寝起きであることも相まってとろんとした瞳をしていた。眠気と熱でだいぶ本調子ではなさそうだ。
机の上に置いておいた体温計の電源を入れてから、元々ゆるゆるの襟ぐりから服の中に手を無理矢理突っ込んで脇の下に挟み込む。看病っていうのは強引さも付き物。
そうされている間にも、起きるつもりはあるのかぱちくり瞬きをして「今何時?」と聞いてきたわかささんに「十一時ちょっと過ぎ」と答えながら額に当てていた手を首に移す。やっぱり熱い。病院に行くことになりそうだ。午前中の診察に間に合うかな。
まだ眠いとかなんとか言っているわかささんに相槌を打っていれば、体温計がピピッと音を立てた。服から体温計を引き抜く。
「三十八度ちょうど。よし、病院行こう」
「寝てりゃ治るからいい」
「治ってないから言ってるの。駅の方に病院あったよね。歩ける? タクシー呼ぼっか」
体温計をかざしながらそうまくしたてれば、やはり本調子ではないらしく嫌そうな顔をしながらも「歩ける」と言ってわかささんは起き上がった。しかし目眩がしたのか上半身がふらついたため、慌てて抱きとめる。さっきまで寝ていたのに急に動くからだ。危ない。
私の肩に腕を回し、ぐったりとした体を預けてくるわかささんの吐息が首にあたる。いつもよりもずっとあついそれに心配とドキドキを同時に感じつつ、その背中をゆっくり撫でた。こんなにくっついたら私にも風邪が移りそうだが、それに関しては看病をしてあげると決めた時点で覚悟を決めているので別にいい。
吐息と同じぐらい熱い背中を撫で摩ってあげていると、わかささんは「なあ」と口を開いた。
「昨日の夜、誰かと電話してた?」
「夜?」
「オレが寝てから、なんか声聞こえた気がする」
「ああ、してたしてた。美容院とネイルサロンに予約のキャンセルの電話したの」
「……そっち行かねーの」
「行かないよ」
もうキャンセルしたんだってば。
髪を切るのもネイルも、いつでも出来ることだ。だけど今この瞬間に熱を出しているわかささんのそばにいてあげられることは、今しか出来ない。だったらこっちを優先するに決まってる。
それにわざわざこのタイミングでオシャレをしようと思ったのだって、わかささんの誕生日だからだし。そのわかささんが熱を出して寝込んでいるのに私だけオシャレして浮かれていてもあんまり意味がない。
しかし、私はそう思っているので特に後悔も何もしていないのだが、どうやらわかささんはそうではないらしい。私が元々決まっていた予定をキャンセルしたことになにか思うところがあるらしく、私の肩に埋めていた顔を上げてじとりとこちらを見つめてきた。不満気だなあ。
「そんな顔しないの」
「……」
「言いたいことあるなら声に出す」
「……彼氏出来てねーよな?」
「出来てないよ……?」
突然何を言い出すのか……と困惑していれば、わかささんはちょっとほっとしたような顔をしてからまた肩に顔を埋めてきた。そのままぐりぐりと首筋に頭を押し当ててくる。そうされるとシャンプーの匂いと汗の匂いが混ざりあったわかささんの匂いがぐっと強くなる。またドキドキした。
されるがままの私をいいことに堂々と膝に乗り上げてきたわかささんは、何が嬉しいのか喉を鳴らして笑った。こうしていると犬とか猫みたいだな、この人。実家で飼っている犬のことを何となく思い出す。
「急にどうしたの」
「最近どんどん可愛くなってっから、不安になっただけ」
「かわっ……」
「女が変わるのは恋した時だろ」
「……一応言っておくけど、美容院もネイルも、明日がわかささんの誕生日だから予約してたんだからね」
照れを誤魔化すようにして咳払いをしながらそう言えば、わかささんはご機嫌そうに「ふーん」と呟いて、私の肩に回していた腕をぎゅっと首に絡めてきた。触れ合っていることで伝わってくるその鼓動は心做しか早いようにも思うが、それはきっと熱のせい。そう思い込むことにして、私もそっとその背に腕を回す。
不良は距離感が近い生き物で、更にはわかささんは女慣れしてる。これまでの女性遍歴もきっと、私の想像を軽々超えてくるようなものなはず。私への些細な言動も、こういう触れ合いも、きっと他の女の人へだってしているものだ。
……だけど、これで期待をするなっていうのはさすがに無理があるだろう。
脳内で「告白しろ」と発破をかけてくる知り合い複数名を無視しながら、進みすぎそうになる思考を必死で押し留める。この人は病人、この人は病人、この人は病人……。
余談だが、午前の診察には当たり前に間に合わなかった。