三十話
人の家はなんとなく居心地が悪いというか、落ち着かない。必要以上になにかに触れるのも躊躇われるし、動き回るのもまたいけないことのような気がしてくる。
それを思うと、私の家でまるで家主のようにくつろげるわかささんはすごいと思う。真の家主である私がいない間に上がり込んでいることもままあるのだ。更には部屋の一角に買い込んできた酒を置くスペースも作られている。
この前色々あって家に遊佐さんを招いた時、「うわ……」って言われたんだよね。曰く、「露骨すぎる」とのこと。無駄に照れ臭くてその時は何も聞き返さなかったけれど、私自身も心のどこかでは自覚している。この何ヶ月かでわかささんのものが増えすぎた。
そんな風に人の家で家主のように振る舞うことのできるわかささんとは違い、私はこれで控えめなので、わかささんの家に滞在して二日目の今日も若干の居心地の悪さのようなものを感じていた。この部屋が女の人をたくさん連れ込んでいそうな部屋だというのも影響していると思われる。こう、昨晩わかささんが「もう何ヶ月も他の女は連れ込んでない」と言ってくれたけれど、どうしても他の女の人の影を感じてしまうっていうか……。
背中のムズムズする居心地の悪さを感じながらも、さっき本屋で買ってきた文庫本を読んで時間を潰す。わかささんが病院で診察を受けている間に、食材の買い出しついでに買ってきたものだ。この前の週末にお隣さんに借りて本を読んだら、「読書っていいな」と思って自分の中でプチブームが来ている。
小っ恥ずかしいので細かい説明は省略するが、結局わかささんを午前中のうちに病院に行かせることは出来なかった。そのため簡単なお昼ご飯を食べさせてから病院に行かせたのだが、熱が出て甘えたにも頑固にも拍車が掛かっているらしいわかささんは「歩ける」だの「一人で行ける」だの言い出し、大の大人に付き添うのも……と思った私も「じゃあ終わったら連絡してね」と送り出した。その間に買い物をしていたのだ。
わかささんの部屋は、女の人を連れ込んでいそうな奇妙な空気はあるのに生活感がない。週の大半を家に来て過ごしていることを加味しても、不安になってくるぐらいだ。冷蔵庫の中に入ってた調味料の賞味期限見て欲しかった。ほとんど半年から一年前にはとっくに期限切れになってたからね。
男の人の一人暮らしとはいえ、軽い自炊ぐらい出来る環境は整っていた方がいいはずだ。私がこの何ヶ月かの一人暮らしで「これは結構使えるな」と思ったものだけでも買ってきておいた。病院から帰ってきたわかささんは「いらなくね?」と言っていたけど、それならそれで私が使うからいい。というか多分、私が使うことになる。わかささんは自炊なんてしない人だ。
病院から帰ってきて、貰った薬を飲んでさっさと寝てしまったわかささんの方を見る。何回か起きてきて水を飲みはしたものの、かれこれ四時間ほどはベッドの上で布団にくるまって寝ている。しかし今回の眠りはあまり良いものになっていないらしく、さっきから魘されていた。
六割は読み終わった本に栞を挟み、ぱたりと閉じる。そのまま机の上に置いていた水を飲んでから、ソファーから立ち上がった。もう何分か魘され続けているし、ちょっと早いけど夕飯を食べさせても構わないような時間になってはいるし、起こしちゃおう。
長時間同じような体勢で座り続けていたせいで凝った肩と背中を解しながらベッドのそばまで歩み寄り、この二日で何度もしたようにしゃがみこむ。肩に手をかけて「わかささん」と何度か名前を呼べば、わかささんは煩わしそうに寝返りを打ち、ウンウン唸りながら「真ちゃん」と誰かを呼んだ。思わず手を止める。
『真ちゃん』には聞き覚えがある。上京初日、家のゴミ捨て場に落ちていた葬式帰りのわかささんが、少し泣きながら何度も名前を呼んでいた人だ。
最初、彼女にフラれてヤケ酒をしてこの人はこんなところに落ちているんだと思い込んだ私がそんなことを言った時に、わかささんは「ダチ」だと言っていた。大事なダチ。置いていかれてしまった。確か、そんなことを。
肩に触れていた手をそっと離し、キリキリ痛む胸の前で握り込む。わかささんにとって触れてはいけない、触れてほしくないところに不用意に触れてしまったような、そんな感覚。まだ血の滲む柔らかく新しい傷を無遠慮に抉ってしまったみたいな、そんな。
誰にだって傷はある。誰かと生きていて幸せを感じる瞬間にだって、その傷は消えないまま残り続けているのだ。それは決して、私もわかささんも変わらないこと。
どうしてそれを忘れてしまっていたんだろう。私の傷はきっと残り続ける。私はきっと永遠に赤音を思い続けて生きていく。わかささんだって同じことなんじゃないのか。その人との思い出が、その人と過ごした他愛のない日々が、思い出として残っているのと同じだけ傷としても刻み込まれたままなんじゃないんだろうか。私がそうであるように。
私にとっての赤音のように、『真ちゃん』はわかささんにとって大事な人なはずだ。根拠はないけど、なんとなくそう思う。夢を見て泣く気持ちも、会いたいと思うその瞬間のことも、何気ない瞬間に思い出す柔らかい記憶の温かみも、その度に永遠の喪失を突き付けられて痛む凍り付いた心の冷たさも、私は全部分かっているから。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。胸の前で握り込んでいた手を開いて、顔を覆った。私が泣くべきことじゃないのに泣きそうだ。
なんとか涙を堪えようと鼻を啜りながら呼吸を整えていると、熱い手に勢いよく手首を掴まれて顔から手を引き剥がされた。涙で滲む視界に、半身をこちらに向けて寝たままぼんやりと私を見つめているわかささんが映る。
「また泣いてる」
呆れたような、心配しているような、熱っぽく掠れていても変わらないいつものわかささんの声。それを聞いてとうとう堪えられずに涙を落としてしまった私を見て小さく笑ったわかささんは、手首を引いて私を引き寄せるとそのまま抱き締めてきた。上半身だけベッドに乗り上げるような形になった私は、ぽろぽろ涙を流しながらも少しも迷うことなくわかささんを抱き締め返す。そうしなければ、と思った。
「なんか積極的じゃん」
「……」
「今度はなんで泣いてんの」
「わかささんが」
「オレ?」
「泣いてたから」
「……マジ?」
正確に言うなら、泣いてはいなかった。でも、泣いてはいなかったけど泣きたかったはずだ。出会ったあの日みたいに、本当は泣きたかったはず。
心の傷は目に見えない。どれだけ深い傷なのか、どれだけその傷が治ったのか、それは傷を抱える本人にですら分からないことだ。私もわかささんも、自分の抱える傷のことを何も知らない。推測することは出来ても所詮は推測だ。正しく理解することは出来ない。
だけどそれは、大切な人の心に出来た傷から目を逸らす理由にもならなければ、大切な人の傷を見逃す理由にもならない。
自分が泣いていたと言われて困惑していたわかささんは、しばらくしてから「夢見たからかな」と呟いた。
「久々に死んだダチの夢見たんだよ。オレなんか言ってた?」
「……名前呼んでたよ」
「あー、やっぱそうか」
懐かしむような声音だ。だけどやっぱりどこかに寂しさが滲む。
また泣けてきて鼻を啜れば、背中に回る腕の力強さが増した。負けじと私もわかささんを抱き締め返しながら、鼻声で名前を呼ぶ。
「わかささん、あのさ、泣いてもいいからね」
「……」
「わかささんがそうしてくれるみたいに、私、わかささんが泣きたい時はこうしてそばにいるから」
ただそばにいてくれるだけでずっとずっと心が安らぐのだと教えてくれたのはわかささんだ。あの日、誰のことも迎え入れず、踏み込ませずに終わるはずだったあの部屋と私の心に入ってきてくれたのも、そうして私を抱き締めてくれたのもわかささん。泣きたい時にそばにいてくれるのも、抱き締めてくれるのも、全部わかささんなのだ。
私はそんなわかささんに確かに救われた。まだ凍り付いたままの心をそれでもいいと言ってくれたから、こうして少しは前を向けるようになった。変わりたいと思えた。あなたが大切にしてくれた私を、私も大切にしたいと思えた。
少しの沈黙の後、わかささんは掠れた声で笑う。その声が今にも泣き出しそうなぐらいに優しかったから、私はやっぱりこの人のそばにいたいと思った。
「なあ」
「うん」
「今日も泊まる?」
「風邪治るまで泊まる。それに明日、誕生日でしょ。一緒にいさせてよ」
「……あのさ、風邪治ってからも一緒にいて。オレの誕生日が終わっても、風邪治っても、ずっとそばにいて欲しい」
「……いるよ」
ずっとそばにいるよ。わかささんが「もういい」って言うまで、ううん、「もういい」って言っても、多分ずっと。あなたの傷を癒すことも、その心の氷を溶かすことも出来なくても。それが出来るたった一人になれなくても、そばにいる。同じように「たった一人の人」を喪ってしまった私のそばにあなたがいてくれるように。
少しの間を置いてから「約束だからな」と言ったわかささんの声はそれまでと違った掠れ方をしていて、私は背中に回した腕の力を強めながら、もしかしたらこの人は泣いているのかもしれないと思った。