三十五話

 ピピッと服の中で音が鳴る。重い瞼を何とか開きながら手を突っ込んで体温計を取り出し、空に翳す。……ダメだ、ぼやけていてよく見えない。
 気怠い体を何とか動かして布団の中から這い出してカーテンを少し開け、眩しさに目を細めながらももう一度体温計を確認すれば、三と九と五が並んでいた。平熱にちょうどプラス三度か。
 数字を見ているだけで頭がクラクラしてきたのでカバーにしまった体温計を適当に床に放り投げ、また布団の中に戻る。たったこれだけでくしゃみが出た。寒い。鼻水を啜りながら、ぽつりと呟く。

「熱出た……」

 もちろん誰の声も返ってくるはずはなく、ゴホゴホと私が咳き込む声だけが続く。……なんか寂しいな。一人暮らしってこんなものか。

 布団の中から手だけを出して枕の横に置いていた携帯を引っ掴んで時間を確認する。朝の八時。幸いにも今日は木曜日で、大学の授業は入っていない。遊佐さんも二限しかなかったはずだし、お昼過ぎぐらいに電話をしてなんか適当に買い出しを頼もう。こんな時、同郷の遊佐さんしか頼れる人がいない。遊佐さんが風邪引いた時は私が看病するから許して……。

 ずびずひ鼻を啜りながら携帯を布団の外、枕の傍に置いた手を引っ込めて、両手足を丸めて縮こまる。お昼までは二度寝しよう。


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 金色が眩しい。陽の光を反射して、向こう側が透けそうなぐらいにきらきら光っている。目を焼かれてしまいそうなほどに眩い、わずかにオレンジ色を帯びた光。それが朝焼けなのかを夕焼けなのか、それとももっと大切な光だったのかをぼんやりと考えて、──そして。

 自分の咳の音で目が覚めた。ゲホゲホゴホゴホ言いながら咳き込み、その合間に「暑い」とぼやきながら全身を覆い隠す布団を蹴り飛ばす。なんでこんな寝方してるんだ、私は。

 急に動いたせいでズキズキ痛む頭を抑えて呻き、狭いベッドの上で盛大に寝返りを打つ。頭を抑えていない方の手で携帯を探したが、寝ながら余程暴れたのかベッドの上にはなかった。そのままベッドから半身を乗り出して、床を見下ろす。……あった。
 熱とは恐ろしいもので、たったこれだけの動作で息が切れ、体の熱が引いていってなんだか寒さを感じた。携帯と一緒に拾い上げた布団にもう一度くるまりながら、時刻を確認する。十三時半。よく覚えてないけど、朝もこんなことした気がした。


 しばらく携帯の画面を見つめていると、ぼんやりと靄がかかった頭にぴこん! とビックリマークが浮かんだ。そうだ。遊佐さんになんか買ってきてもらおうと思って、授業が終わるまで待ってたんだ。

 いつもよりもかなりゆっくりノロノロと携帯を操作して、メール画面を開く。えーっと、熱が出て……電話の方が早いな、これ。
 カコカコとボタンを押して着信履歴を開き、上の方にある遊佐さんの番号を選ぶ。コール音を聞きながら目を閉じた。携帯の画面を少しの間見つめていただけなのに目も頭も痛い。熱、辛い。

 待つこと数秒か数十秒か数分か、目を閉じてうつらうつらとしている間に電話は繋がった。「もしもし」と声を上げる。自分で思っているよりも弱りきった声が出た。

「遊佐さん? あのさ、私、熱出ちゃって……お金渡すからご飯とか買ってきて欲しくて……」
「……ユササンじゃなくて青宗だけど」
「ええ……?」

 遊佐さんに電話したのになぜ青宗が……? 困惑しながらも耳から離した携帯の画面を見れば、本当に青宗に繋がっているようだった。熱で判断力が落ちている状態で、横着して着信履歴から遊佐さんを探すからこうなる。
 驚いて身動ぎした拍子に喉が変な感じになってしまい、また咳が出た。携帯を伏せてしばらく咳き込んでいたのだが、落ち着いてきたので携帯を耳に当て直す。切るにしても一言ぐらい謝ってからでなければいけないだろう。親しき仲にも礼儀あり。

「おい、聞いてるか? ……駄目だココ、咳も止まった。多分死んだ」
「いや、生きてます」
「ココ、生きてた」
「うん、生きてる。ごめん青宗、友達と間違えた」
「別にいい。あ? ……熱あるなら病院行けだって」
「平気。寝て治す」
「寝て治すって。……風邪を甘く見るなって言ってる」
「でもめんどいし動けない。無理」
「めんどい、動けない、無理だって。……なあ、電話かわるから直接話せよ」

 どうやら青宗はハジメくんと一緒にいるらしく、ハジメくんは電話越しに私を心配してくれているらしい。しかし電話をかわって直接私と話す気もないようで、しばらくの間「かわるから」と言い続けていた青宗は心底面倒そうに舌打ちをした。あらら。

 咳払いというよりかは普通の咳をしながら、青宗の名前を呼ぶ。どうせ長電話をするわけでもないのだ。かわってもらう必要は無い。

「かわんなくていいよ。友達にかけ直すから、もう切るし」
「ン。……ココが病院行った方がいいっつってるし、ダチに電話したら行けよ」
「うん、気が向いたら行く」
「おい」
「分かった分かった。じゃあね。ハジメくんにもよろしく」

 まだ何か小言を言われそうな雰囲気を感じ取ったので強引に電話を切り、くしゃみをする。なんか熱上がってきた感じがする。……電話結構疲れたし、メールでいいかな。

 布団の中でぎゅっと縮こまりながら、妙にぼやけた視界でぽちぽちボタンを打っていく。これもこれですごく疲れるけど、会話をする気力もないのが現状だ。
 風邪を引いたこと、適当にご飯を買ってきて欲しいことを記して、誤字も確認せずに送信ボタンを押した。普段の十倍はメール作成に時間がかかってしまって、無駄に疲れた。携帯を閉じてまた適当に放っておく。音はしなかったから床には落ちていないはずだ。

 よし、遊佐さんが来てくれるまで寝よう。いくら熱が出ているからってインターホンが鳴ればきっと起きれるだろうし、万が一起きれなくても遊佐さんが大家さんに声を掛けて合鍵を借りて入ってきてくれるはず。
 布団にくるまって目をつむれば、すぐに眠気がやってきた。


 +


 聞き慣れた声に「起きろ」と呼び掛けられながら肩を揺さぶられ、枕から頭が落ちた衝撃で目が覚めた。なに……? 重たい瞼をなんとか上げて、何度も瞬きをしながら声の方向を見上げる。

「おー、起きたか。迎え来たけど」
「……じごくのおむかえ……?」
「はは、起きてねーな。起きろ寝坊助。実家帰んぞー」
「だれ……」
「ん? オレだよ、オレ」
「オレオレ詐欺……」
「ちげーよ、詐欺じゃねーから。山田だよ」
「知ってるよ……」
「だろうな」

 ただ目を覚ましたら人相の悪い大男がこちらを覗き込んできたから驚いただけだ。

 肩を支えられて起こされながらゲホゲホと咳をすると、慣れた仕草で背を撫でられた。高校の頃のことを思い出す。手持ち花火振り回して遊んでたら二人揃って足を滑らせて池に落ちて、コイツはピンピンしてたのに私だけ風邪を引いたんだっけ。アレはムカついたなあ。


 当時のことを思い出したら回らない頭でもなんだかまたムカついてきたので、わざとらしく咳を吹き掛けてやる。しかし、頭を叩かれて「やめろ」の一言で終わった。病人に対してなんて酷い言い方。

 無駄に頑丈な山田にこの程度で風邪を移せるとも思っていないが、軽く窘められると余計にムカつくものだ。苛立ちをぶつけるようにドンとその肩を叩きながら、汗でべったりと額に張り付いた前髪を頭を振って払う。その途端に頭の奥がじんじん痛んで思わず唸り声が出た。

「おーおー、熱あんだから暴れんな」
「うっさ。っていうかなんでいんの」
「遊佐と青宗から連絡来たから迎えに来てやったの」
「ああ、遊佐さん……ん? 青宗?」
「そ。おい青宗、コイツ起きたから水持ってきてやってー」

 遊佐さんは山田のことが嫌いなのに、わざわざ連絡してくれたなんて。無理をさせてしまったな。今度お詫びしよう。

 山田の言う通り連絡はしてくれたようだが、しかしどうやら山田に会う気はなかったらしく、見渡す限りでは遊佐さんは家にはいなかった。その代わり……いや、別に代わりでも何でもなく、昨日も会った男の子が何故かいる。何故?

 山田に言われた通りにコップに水道水を汲んでグッと差し出してきた青宗は、今日は特攻服ではなく私服だった。ドが着くほどに明るい蛍光ピンクのトレーナーが目に眩しい。比較的落ち着いた色味の家具の多いこの部屋では青宗の服装は微妙に浮いている。

 事態についていけていないが、それでも渡されたコップを受け取って水を飲む。……冷た。そんな私をじっと見つめていた青宗は、数秒経ってから何も言わずに床に座り込み、ちゃぶ台の上に乗っていたクッキーの袋を開けて食べ始めた。いやそれ私がハジメくんに貰ったやつ。しかも袋のゴミの数からして結構食べてるな。

「……美味しい?」
「ン。美味い」
「そっか……」

 ならいっか。
 普段ならもう少し小言でも言ったかもしれないけど、今は熱で頭が回っていなくて何も言葉が出てこない。美味しいならそれでいいや。お腹いっぱいになるまで食べてください。

 いつの間にか熱を測られていたらしく、ピピピッと音がして「出せ」とばかりに手を差し出された。素直に服の中から体温計を取り出し、山田に渡す。

「えー、三十九度。たけーな。お前平熱いくつだっけ?」
「三十六度五分ぐらい?」
「完ッ全に風邪だな。よし、帰んぞー。大体実家にあんだろうからなんも持って帰んなくていいよな? あ、遊佐に連絡もらった時点でおばさんにも説明してっから心配すんなよ」

 コイツよく喋るな……。聞いてもいないことを説明してくる山田を無視し、真顔でクッキーを貪っている青宗をじっと見つめる。食べてばっかりで喉が乾かないのかと一瞬心配になったが、私が何週間か前に買った缶ジュースを勝手に飲んでいるようだった。買ったはいいけど飲むタイミングを逃していたものだったので別にいいけど、勝手に冷蔵庫を開けるのはダメなのでは?
 注意しようと思ったが、また咳が出てきて辛くてそんな気力もなくなってしまった。初対面の相手の家で勝手に冷蔵庫を開けたりしなければいいだろう。甘えられているのだと解釈しておく。

 背中を丸めてゲホゲホ咳をする私の背をさすってくれていた山田に「遊佐さんは?」と息も絶え絶えに聞くと、「帰った」と簡潔に返ってきた。それは見れば分かる。

「さっきまではいたぜ。オレより先に青宗が来てたから、なあ?」
「ウン。ユササン、レポート持って帰った」
「ああ……提出明日か……」

 それは遊佐さんに更に迷惑をかけてしまった。「これも貰った」と缶ジュースを持ち上げて冷蔵庫の方を顎で示した青宗を見るに、青宗の面倒まで見てくれていたらしい。本当にすみません。今度ご飯奢ります。

 今日は体調が悪すぎて無理かもしれないけど、明日以降熱が下がったら遊佐さんにもまたお礼の連絡をしなくては。

 ベッドの上に座り込んだまま、ずびっと鼻を啜ると、山田によってパーカーを羽織らされた。そのままベッドの上に適当に放り投げていた携帯も握らされる。

「携帯と保険証と財布だけありゃなんとかなるよな。他なんか持って帰りてえモンある?」
「ない……あ、待って。ダメ。帰れない」
「なんでだよ。お前一人じゃ病院も行かないだろ? 病院面倒だから行かねえってぐずってたって青宗から聞いたぞ」
「ぐずってない。……クリスマス、一緒にいようってわかささんと約束したの。だから帰れない」

 あの綺麗なお姉さんと一緒に歩いているところを見てモヤモヤしてしまったけど、昨日青宗から思わず事実を聞かされ、モヤモヤは払拭されたのだ。昨日までは「クリスマス、勝手に実家帰っちゃおうかな」とか心のどこかで思ってはいたけど、今は全然そんなつもりはない。一緒に過ごすと約束したんだから、一緒に過ごしたい。そう思っている。

 凶暴な顔に驚きの色を浮かべて瞬きをした山田は、ちらりと青宗の方を振り返って「どう思う?」と声を上げた。「どう思う?」じゃないよ。帰りたくないって言ってるでしょ。
 ムッと眉を寄せて「帰らないからね」と繰り返す私を他所に、青宗も青宗で馬鹿を見る目をこちらに向けながら「ワカクンに風邪移してーの?」と聞いてきた。

「そんなわけないでしょ」
「じゃあ帰ったら。で、治してこいよ。今ならまだ間に合うだろ」
「……そうする」

 あと四日もあるだろ、と言い放った青宗に、なんだか微妙な気持ちになりつつも頷く。青宗も大きく頷いて、「じゃあココにそう言っとく。ココのヤツ、結構心配してたから」と携帯を取り出した。そのままハジメくんにメールを打っているらしい青宗を見つめながら、ハジメくんにどんなお礼をするかをぼんやり考える。
 あの子が喜ぶもので、私があげられるもの。年頃の男の子へのお礼は色々と難しい。青宗はご飯を食べさせてあげれば喜ぶだろうけど、ハジメくんなどうかな。この前もすごい高そうなコートとか着てたし、拘りが強そうだ。……あれか? 実家に帰るついでに小学校の卒アルとか文集とか探して……いやでも、それは赤音の個人情報を切り売りすることになるからダメだ。
 となると、やっぱり無難に食べ物系か。デパ地下とかでお菓子を買って、それを青宗経由で渡してもらおう。最悪年明けになってしまうかもしれないが、まあそれは仕方ないということで。

 私たちの会話が落ち着き、私も帰省の意志を固めた。山田はにっこり笑って大きく頷いて「じゃあ行くか。青宗、お前家どこ? 送る」と立ち上がる。その動作の中で差し出された手を大人しく取って立ち上がり、「あ」と声を上げて思わず立ち止まった。

「念の為になんか、書いて置いとく。ペンと紙取って」
「ン」
「ありがと、青宗。えーっと、実家に、帰ります……っと」

 指先に力が入らなくて線がぐにゃぐにゃになってしまった。その上手の上に紙を置いて書いたから余計に読みにくい。でもまあ、完全に読めないわけじゃないからこれでいいかな。それに二十四日までに熱を治して帰ってくるつもりだし、わかささんに見られる前に処分すればいいだろう。

 青宗に頼んでペンと紙をまたちゃぶ台の上に置いてもらった。これでよし。律儀にその場で私を待ってくれていた山田の後をついて玄関に向かう。そのまま少し迷ってから、ゴミ捨て用のサンダルを突っ掛けた。更に私たちの後をついてきた青宗が「鍵は?」と靴箱の上を指差して言ってきたので、狭い玄関でごちゃごちゃになりながらも「持ってく」と答える。うちの鍵と、わかささんの家の合鍵。念の為どちらも持って帰るか。

ふたつおりのひとひら