三十六話
誰かに何かを言われた気がして、ふと目が覚めた。中途半端に覚醒した頭でぼんやりと天井を見上げ、チラチラと視線だけを部屋中に向けて誰が何を言ったのかを探る。誰もいなかった。……夢か。
カーテンを貫通して窓から差し込む太陽の光が眩しい。再び頭と首だけ動かして壁に掛かった時計を見上げ、時間を確認した。午前十時。まだギリギリ朝である。
二度寝と洒落込んでも良かったが、変な風に目が覚めてしまって眠れない。何度か寝返りを打ちながら咳をしていると、階段を上るような音がして、それならしばらくして静かにドアが開いた。咳をしたまま、ベッドの上から一歩も動かずに視線だけは動かしてそちらを見れば、遊佐さんがそっとドアの隙間から顔を覗かせて「あれ」と声を上げたところだった。
「今日は起きてる」
「さっき起きた……おはよ」
「おはよう。おばさんに伝えてくるね。朝ごはんどうする?」
「ジャム……」
「と、パンね。ちょっと待ってて」
僅かな扉の隙間から部屋に入り、サッと脱いだコートを手際良くハンガーに掛けた遊佐さんは、ひらりと手を振ってまた部屋から出ていった。一応ここは私の部屋かつ私の実家なのだが、まるで自分の部屋のような手際の良さと迷いのなさ。遊佐さんもこの数日ですっかり慣れたものである。
私が山田に連れられて実家に帰ってきたのが四日前、二十日の夜。遊佐さんが東京からこっちに帰ってきたのはその一日半後の二十二日の朝。二日前だ。
私の分のレポートも提出してくれたらしい遊佐さんは、「どうせ暇だし出席数も足りてるから」と言って早めの冬休みをとることにしたらしい。帰省してきた一昨日から我が家に入り浸っては課題をやったり本を読んだり犬の散歩に行ってくれたりして、気付けばすっかり家に馴染んでいる。
私は今日までずっと熱が下がらずに寝込んでいるから相手は出来ず、家に来たとしても暇なのではないかとは思うが、それでもいいらしい。まあ遊佐さんのおかげで寂しい思いはしていないので特に言いたいことはない。山田はアレでアイツの実家の花屋を継いでいて日中は決して暇ではないし、両親も普通に仕事がある。遊佐さんがいなかったら一人で寝込み続けて心細くて泣いていたかも。
そんなことを考えながら、意味もなくただただ天井を見上げ続ける。上京してから四ヶ月ぶりの天井は帰省当初は違和感が強かったものの、この四日弱ですっかり見慣れたものに戻った。懐かしい実家と自分の部屋。ここでは熱があることもあって食事も洗濯も身の回りのことは全部面倒を見てもらえるので正直楽だ。もちろん東京での生活も楽しかったけどね。
つい数日前だというのに不思議とすごく昔のことのように思える一人暮らし生活に思いを馳せていれば、また扉が開いて遊佐さんが顔を覗かせた。その手にトーストの乗った皿とジャムの瓶が握られているのを見て、重い体を起こす。若干遅い朝食タイムである。
ベットサイドにそれらを置いた遊佐さんはもう一度部屋を出ていき、程なくして中身の入ったマグカップを二つ持って帰ってきた。そのまま一つをベッドサイドに、もうひとつをローテーブルに置いて、遊佐さんはラグの上に座り込む。私もベッドの上で起き上がりながら「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
「どういたしまして」
「本当に遊佐さんにはいつもお世話になっており……」
「ええ……なんの敬語なの、それ」
「感謝の敬語」
「意味分かんない。また熱上がってきたの? 馬鹿なこと言ってないで早く食べなよ」
馬鹿だって。遊佐さん、どんどん私への対応が雑になっていっている。
でも遊佐さんにお世話になっているのは本当のことだ。レポートを代わりに出してくれたし、家の前でうろちょろしていたらしい青宗を拾ってジュースを飲ませてくれたらしいし、大家さんに事の次第も説明して合鍵を借りて、更には山田に連絡をつけてくれた。ここ数日で特にお世話になりっぱなしで頭が上がらない。
言われるがままにトーストに手を伸ばし、ジャムを塗りたくる。そんな私を見ながら遊佐さんはマグカップに口をつけ、昨日来た時に置いていった文庫本を手に取った。そのまま静かに読書モードに入った遊佐さんの横顔を眺めながらトーストを食べ進める。焼いてあるパン、美味しい。でも東京で食べてたジャムの方が美味しかったかも。
行儀が悪いとは思いつつもトーストを持っていない方の手で携帯を手繰り寄せ、いくつか届いていたメールを確認していく。狭い町なので私が帰ってきたことも熱を出していることもすっかり伝わっているらしく、ヤンチャしていた頃の後輩たちから心配のメールが何通か来ていた。あとはバイト先の先輩から年明けの業務に関する事務連絡と、青宗からの「生きてるか?」という簡潔な一文だけ。返事をするのは先輩と青宗だけでいいや。
未だに微熱が続いているため手先も覚束ず、時間をかけてゆっくり返事を入力していく。青宗への返事はある程度適当でもなんとかなるけど、先輩に関しては失礼がないようにしなくてはいけないから結構気を使う。
なんとか入力を終えて送信し、今度は青宗への返事を考える。実はこれと同じ文面がこの三日間、なんなら実家に帰ってきた何時間か後にも届いており、青宗がアレで心配性なことを私は初めて知った。
というかそう何度連絡をされても、生きていなければ返事なんて出来ないし、生き死にに関わるような病気にかかったわけじゃない。ただの風邪だ。
少し悩んでから、「生きてるよ」と昨日と同じ文面を返すことにした。頭が働いていなくて他に送ることが思いつかなかったのだ。
先輩に返すよりも随分と文面が簡潔なので入力も楽だった。送信ボタンを押してまたトーストを齧る。実家に帰ってきてから気付いたが、焼いた食パンは焼いていない食パンより美味。……トースター買いたいな。バイト代もそんなに使ってなくて少しは貯まってるし、自分へのクリスマスプレゼントってことで買っちゃおうかな。
そんなことを考えながら携帯を閉じて数秒、突然携帯が震えてメールの受信音が鳴った。思わず「うわっ」と声を上げてトーストを取り落としそうになった私に遊佐さんは顔を上げ、「どうしたの」と聞いてきた。何とか落とさずに済んだトーストをベッドサイドの皿の上に戻しながら「いや、急にメールが来て」と言い訳のように呟く。
「青宗かな……でも青宗は返事なんて、あっ、うわっ、ああっ」
「なに?」
「わかささんが『昼には東京着く』って……」
しかも、「早く会いたい」とも書かれている。
掲げた携帯を遊佐さんの方に向ければ、本を閉じてこちらを見た遊佐さんはローテーブルに頬杖を着いて「早く返事してあげなよ」と言った。私はそんな遊佐さんに何も返さずに、ベッドサイドに置いていた体温計を手に取る。
「せめて三十六度台まで下がっていてくれれば帰れる……」
「出た、無駄な足掻き」
「無駄って言わないで!」
「平熱に下がるまでは東京には行かせないよ」
フッと笑った遊佐さんがマグカップを持ち上げながらそう言う。酷い。さながら悪役のセリフだ。
じとりと遊佐さんを睨みつつもタイミング良く音を鳴らした体温計を確認すれば、三十七度台のど真ん中の数字が表示されていた。思わず呻く。なんて微妙な……。
何度だったかは報告していないが、遊佐さんは私の反応だけでなんとなく察したらしく、もう一度笑ってから「残念だったね」と言った。
「諦めて今日も寝ててください」
「そんなあ」
「その人に風邪移したいわけじゃないんでしょ?」
「遊佐さんが青宗みたいなこと言う……」
「一般論だよ」
そう言われると何も言い返せない。遊佐さんから目を逸らし、携帯の画面を見下ろした。この「会いたい」はきっとわかささんの本音なんだろう。会いたいって思ってくれてたんだ。それは嬉しい。凄く嬉しいし、私も早く会いたいと思う。思うんだけど、会いに行けそうにもない。
どうにかこうにか見逃してくれないかなとちらりと遊佐さんを見てみたが、「ダメだからね」と言われるだけだった。はい。そうですよね……。
遊佐さんは私を見逃してくれないだろうし、私だって体調が悪い状態で東京に戻ってわかささんに迷惑をかけたくはない。つまり、結論は「会えない」と返信する。それしかないのである。
ああ、今日着ようと思っていたおろしたてのワンピース……特に意味は無いと分かりつつ新調した下着……私に会いたいと思ってくれていたわかささん……一週間会えていないのに、下手したらここから年明けまで会えないんだ……。
半泣きになりながら「今日は会えないです」と文字を打ち込み、そのまま送信ボタンを押した。半ばヤケになって携帯をベッドサイドに投げ置いて、一口分だけ残っていた食パンを口に詰め込む。
「ごちそうさま……寝る……寝て熱下げる……」
「はい。おやすみ」
「おやすみ……」
体を横たえて布団にくるまれば、すぐに眠気がやってきた。自分の体のことだけど、やっぱりまだ本調子じゃないんだなあ。
布団の温さに意識が沈み掛けているのを自覚しながら、ふと思いついたことがあって「あのさあ」とぼんやり声を上げた。
「私、寝ながら変なこととか言ってない?」
「……言ってないよ。気になるの?」
「うん。なんか、熱出てからずっと変な夢見てる気がして……金色の……」
「……きっとそれは変な夢じゃないから大丈夫。ほら、寝ちゃいなよ。寝て熱下げるんでしょ?」
ローテーブルに本を置いて静かに立ち上がった遊佐さんは、ベッドの近くまで歩いてくるとしゃがみこんで真っ直ぐ私を見つめてきた。伸ばされた手のひらが、布団の外に出ていた私の手を握る。冷えた指先が熱で火照った体にはちょうど良くて、私はそれからすぐに寝てしまった。
+
どこか懐かしい風の匂い。遠くの方から聞こえてくる葉っぱの揺れる音。風の音を目で追うように横に向けていた視線を木目のテーブルとその上に乗った苺のパフェへと移し、名前を呼ばれて今度は顔を上げた。向かいの席では、笑顔の赤音が艶々の苺を乗せたパフェスプーンをこちらに向けて差し出している。食べろってこと?
一度名前を呼んだっきり何も言わずにニコニコするだけの赤音と差し出され続ける苺とを何度か見比べてから、大人しく口を開いた。多分食べろってことなんだろう。
そうしたら結構勢い良くパフェスプーンが突っ込まれて、思わず噎せそうになった。こういうところが雑なのは変わらないらしい。背中を丸めて噎せる私を、赤音は驚いたような声で呼んでいる。
姿勢を元に戻しながら顔も上げ、赤音を見つめる。目が合ったその途端に私はまだ食べている途中だって言うのに早速「美味しい?」と聞いてくるものだから、そのせっかちさに少し笑いながら頷く。こういうところも変わっていない。
私の答えに満足したのか、ひとつ頷いて「甘いもの、好きになってくれて嬉しい」と目尻を下げて赤音が笑うのを、私も笑顔で見つめ返した。胸の奥底がじんわりと温まっていく。心のどこかの欠けていた部分がゆっくりゆっくりと埋められていくような感覚。見つめ合って笑い合っただけだというのに。
そういえば私は赤音の笑顔が好きだったんだっけ。ずっとずっと変わらずに、離れて暮らすようになってからもその笑顔が大好きで大切なままだった。昔のようにカーテンを開ければ目と目が合って、窓を開けて朝一番の挨拶を毎朝お互いにするような距離感ではいられなくなっても、私はいつだって赤音の笑顔を思って生きていた。今だってそうだ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと強い風が吹いた。咄嗟に長く伸びた髪を押さえようとして、手が空を切る。あれ、と思ってから、「そういえば切ったんだっけ」と思い出した。ついこの前、ばっさり切ったんだった。
でもどうして切ったんだっけ。そう思った瞬間にまた突風が吹き、赤音は「わっ」と声を上げて髪を押さえた。押さえきれずこぼれ落ちた柔らかい金色の髪が、曖昧な残り風が吹く度にはらはらと揺れる。空の青と草木の緑、そして赤音の眩い金色の髪が混ざり合うと、それだけでまるで夢物語のように景色は綺麗に見えた。
先程まで何を考えていたかなんて一瞬でどうでも良くなって、赤音をじっと見つめ続ける。柔らかい髪。細い手指。チークを塗ってもいないのに赤く色付いた頬。優しい眼差し。その全てが少しだって変わってはいないのだろう。赤音は、高校の制服を着たままだ。
ほんの少しを惜しくも思いながら赤音から目を離し、自らを見下ろす。最近買ったお気に入りのワンピース。買うだけ買って着る機会を逃し続けていたけど、今度のクリスマスに着ようと思っていた一着。結局また着る機会を逃してしまったことに今更思い至った。
あの人は女の人を褒めることに慣れているから、私が何を着たって「似合う、可愛い」だなんて言うけど、それでも嬉しかった。誰にだって言うのだろうなと内心では思っていても、たしかに嬉しかったのだ。だからこのワンピースだって、クリスマスに着て、あの人に褒めてもらって……あの人?
ふと思考が陰る。何か大事な人のことを忘れている、ような。
思わず顔を顰めてしまったのか、赤音が「どうしたの?」と聞いてきた。慌てて顔を上げ、首を横に振る。
「ううん、なんでもない」
「そう?」
「うん。せっかく赤音と一緒にいれるのに関係ない事考えてたら時間がもったいないから」
そうだよ。せっかく赤音といれるんだ。赤音以外の誰かのことを考える必要なんてない。赤音のことを誰より、何より思っていたい。
心做しか痛む胸を無視しながらそんなことを言えば、どうしてだか赤音はムッと頬を膨らませた。如何にも子どもらしい仕草だ。顔が可愛いから許される、ってやつ。逆に私は笑ってしまう。そのせいで「笑わないでよ」と怒られてしまった。
「あはは、ごめん。赤音が可愛いから、つい」
「もー……見た目は綺麗になったのに、中身は全然変わってないんだから」
「ん? そう? 私綺麗になった?」
「すっごく。そのワンピースも素敵。似合ってる」
「えへへ、ありがと」
「それなら好きな人もイチコロだろうなー? 告白しちゃえ!」
可愛らしい怒り顔を一転させてニヤリと笑った赤音はそう言い、私は「適当言わないでよ」と笑った。あの人は服のひとつやふたつで簡単に私を好きなってくれたりなんて……あれ、まただ。
あの人って、誰だろう。
思わず小首を傾げると、赤音はそんな私を見て今度はスッと目を細めて、これまでとは違う大人びた笑顔を浮かべた。思わずドキリとする。何か、そう、悪いことを言われるような、そんな嫌な予感。
正面から伸びてきた手が、テーブルの上に投げ出していた私の手を握る。柔らかくて暖かな手のひら。私の手を包み込むようにして触れられた両手が、手の甲を撫で、指先を絡め、体温を分け合うようにして固くきつく握られる。ありふれた触れ合いなのになぜだか鼻の奥がツンとして、私は涙を堪えるのに必死でその手を握り返すことが出来なかった。
握られた手のひらごと赤音は手を揺らす。生温く穏やかな風が吹いては草木を揺らす。私の髪は揺れずとも、赤音の髪は風に煽られてひらひらと空を舞う。
たまらなくなって赤音を呼んだのに、赤音は笑うばかりで何も言わなかった。その代わりとばかりに、絡めた指の力は強くなる。赤音はこんなに力が強かったのかと場違いなことを思いながら、私は、その力強さに別の誰かを重ねていた。寒がりのくせに薄着で出歩いて、まるでそれを言い訳にするかのようにして手を繋ぎたがって、二度と離すかとばかりに強く強く私の手を握る誰か。しなやかに見えても私より大きくてしっかりとして硬い男の人の手。あの手が背を撫でてくれれば、私の涙は止まるかもしれないと思った。
じんわりと視界が滲み、赤音の姿がぼやける。それでも片時たりとも赤音を見逃したくなくて何度も何度も瞬きをした。だけどその度に視界はどんどんぼやけていき、とうとう頬を滴がほろりと伝い落ちていく感触。一度涙が溢れてしまえば、もう止まりそうにもなかった。
「赤音」
「なあに」
優しい声。柔らかい声。私の名前を大切に大切に呼んでくれる、大好きな人の声。
そんなふうに私を呼んでくれる人が赤音以外にもいることを、私はもう、ちゃんと思い出していた。どうして忘れられていたのか不思議になるぐらいには鮮明に、あの人の手の温度ですら思い出してしまいそうなほど、私は全部を知っていた。
頭の奥で何かがチカチカ光っているような感覚に襲われる。えもいえぬその感覚に私が思わず指先に力を込めると、同じように柔らかな手のひらにも力が籠った。今までよりも更に強くぎゅっと指を絡ませて私の手を握り、目の前の女の子は笑う。私の大好きな親友は、記憶の中と寸分違わずに笑って私を呼ぶ。
「時間みたい」
「待って」
「ううん。もう起きなきゃ」
「いやだ……待ってよ赤音」
「ウン、待ってる。百年でも二百年でも、ずーっと待ってるヨ。またネ」
酷く簡潔で回りくどいさよならの言葉のあとに、赤音は私の手をもう一度だけ握り締め、そうして離した。それが夢の終わりの合図だった。