三十七話
目尻から伝い落ちていく涙が冷たくて目が覚めた。いつの間にか夜になっていたようで、部屋は暗い。
夢現のまま何度か瞬きをする度に涙はこぼれ落ちていき、その冷たさが次第に意識をはっきりとさせていく。だけどその分どうしようもない辛さと悲しさもはっきりと形を持って、目を覚まして三十秒も経つ頃には私はベッドの上に座り込んで顔を覆って泣いていた。
夢を見た。赤音の夢。そう、夢だ。あれは夢。だって赤音は死んでしまった。私はもう二度と赤音に会えない。それが世界の理というやつだった。
思い出せば思い出そうとするほど、夢は朧気になっていく。何を話したのか、何を見たのか、何をしたのか。その全部が全部、起きてからのたった数分ですっかり形を失ってしまった。
だというのに、赤音の手のひらの温かさも、眩い金色の髪が靡くその様も、私を見つめる視線の柔らかさだって私は何一つ忘れてなんていなかった。赤音が私を呼ぶ声が今だって聞こえてくるようでさえあった、手を伸ばせばまた、赤音に触れられるような気がした。
だけどやっぱりあれは夢で、私はこの先永遠に赤音に触れられはしないのだろう。顔から離した手が掴むのはシーツばかりで、聞こえてくるのだって私の情けない泣き声だけ。もうどこにも赤音はいないのだ。
どうせなら、と思った。どうせならもっと苦しかった時に赤音の夢を見たかった。もっと辛くて辛くて堪らなかった時に赤音に会いたかった。この部屋で一人で赤音を思い続けたあの日々に赤音に縋りたかった。
どうして今だったんだろう。熱を出していたから心配してくれた? それとも風邪が治らないから見に来てくれたの? だったら私、ずっとこのままでもいい。ずっとずっとこのままで、またこの部屋に、一人でも。
そこまで考えて、泣きながら少しだけ笑った。多分それはもう無理だろうと思ったからだ。遊佐さんが放っておいてくれないだろう。山田だって理由を付けてここに来るはず。私はもうこの部屋で一人になんてなれない。
それに、この部屋を出なければいけない理由がある。この部屋を出たいと思ってしまう理由がもう私にはあるのだ。この部屋を出て、会いに行きたい人がいる。
赤音はもしかしたらそれが分かっていたのかもしれない。だからこのタイミングで会いに来てくれたのかも。なら私はきっと赤音に「もう大丈夫」と言ってあげなければいけないはずだ。もう大丈夫だよ、死のうなんて思ったりしないよって。
赤音がいない日々は辛い。私だけが制服を脱ぎ捨てた。私だけが大学生になった。私だけが今も生きている。私だけがきっと明日のその先も生きていくんだろう。
だけどきっともう大丈夫。赤音が待っていてくれるなら、私は赤音を喪ってからのこの先を生きていける。いつかまた赤音に出会えるのなら、それまでの百年も二百年も耐えられる。
いつのまにかベッドに伏せていた頭を上げ、窓の方を見た。帰り際に遊佐さんがカーテンを閉めて行ってくれたのか、窓の外の景色は見えない。だけど隙間から僅かに射し込む金色の月明かりは失われたりしていなかった。
その金色の眩しさに目を細めつつ鼻を啜り、未だに絶え間なくこぼれ落ちる涙を拭う。私が一人で泣いているのを知ったら、きっとわかささんは「オレを呼べって」と顔を顰めるんだろうなと思った。だけどそれでもいいとも思う。それでもいいから、今はただ声を聞きたかった。話を聞いて欲しかった。私にだって「会いたい」と言わせて欲しかった。
カーテンの僅かな隙間から射し込む月明かりだけを頼りにベッドの上を這って移動し、ベッドサイドに手を伸ばす。確か寝る前にここに携帯を置いたはず。……あれ? ない。
そのまま目を凝らしてベッドサイドを漁り、なにかの弾みで落としたのかと床まで覗き込んだがどこにも携帯はない。どこに行ったんだろう。まさか寝ぼけて捨てた?
涙腺が壊れてしまったのか未だに涙は止まらないが、携帯をなくす方が困る。よろけながらも立ち上がってベッドの下も覗こうと床に座った時、扉の向こうで誰かが階段を上る足音がした。両親も遊佐さんももっと静かに歩く。こんなにドスドス乱暴に歩くのはアイツぐらい。
床に座ったままじっと扉を見つめていると、予想通り足音は私の部屋の前で止まり、特に躊躇うこともなくドアが開かれた。ピンク色のエプロンを着たスキンヘッドの厳つい大男が逆光を背負って現れる。私はちょうどドアの延長線上の床に座っていたので大男としばし見つめ合い、数秒後に「ぎゃあ」と悲鳴が上がった。もちろん私の悲鳴ではない。
「おまっ、おっ、お前っ、なんっ」
「山田うるさい……頭に響く……」
「えっ、ごめん……じゃなくて、お前なにやってんの⁉︎ 寝とけよ馬鹿! っつーかなんで泣いてんの!」
「携帯なくなっちゃったから」
「だから泣いてんの⁉︎ オレが持ってンだわ! 泣くな泣くな!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら足早に部屋に入ってきた山田はガッと私の脇の下に手を差し込んで持ち上げ、投げるようにしてベッドに乗せてきた。そのまま肩を掴んで寝かせられ、布団を被せられる。なんだコイツ。
私が若干混乱している間にも、部屋の電気をつけた山田は『花屋 やまだ』と書かれたエプロンのポケットから私の携帯を取り出して投げてきた。人を病人扱いしておきながら携帯は投げるんだ。手を伸ばして受け取った携帯を開きながら、体を起こしつつそんなことを考える。……なんかすごい数の着信とメールが来てるな。
「電話もメールもうるせえっつって遊佐がキレたから勝手に電話出たんだけど、携帯取り来た時に起こしたか?」
「ううん。夢見て、それで……それで私……」
鼻の奥がツンとしてじんわりと視界が歪み、吐き出した息は震えた。思わず俯いて目元を手で覆えば、山田がぎょっとしたように「おい」と声を上げる。
「ごめん……」
「いや、謝れっつってんじゃねえから。っつーか、何……オレもさ、分かるよ。調子崩すと二度と会えねーやつの夢見たりするよな」
「うん」
「オレも兄貴と親父の夢見たりするし、懐かしくて泣きたくなったりもする。でもお前、若狭くんと約束したんだろ? 惚れた男との約束、守ってやれよ」
「……うん」
「あー、泣くなって! 分かった分かった、電話しろ! 今ここで若狭くんに電話して、それで泣け! さっき『吉野は寝てます』っつっちゃったけどまあいいだろ!」
「勝手に電話出んな馬鹿……」
「仕ッ方ねえだろ、遊佐マジギレだったんだから!」
お前が寝てる間ずっと電話掛かってきてたっつってたからな、と騒ぎながら、山田は私の頭を撫でて部屋を出ていった。部屋を出た後も「おばさんオレ腹減ったかも!」と母に食事を強請っている声が聞こえて少し笑える。最後まで騒々しいやつだ。
じんわりと滲んだままの視界で見下ろした携帯は、山田の言葉通りに何件何十件と着信履歴にわかささんの名前が残っていた。それにもちょっと笑ってから、同じように何十通も届いているメールも開く。最初の方は「なんで? なんかあった?」みたいな比較的理性的な私への質問のメールが多かったのに、正午を過ぎたあたりから「今どこ」みたいな短文ばかりになっている。一番最後に届いたメールは約三十分前で、メッセージは「電話出て」と一言だけ。これを送って山田が電話に出た時、わかささんは一体どう思ったんだろうか。
想像して思わず笑ってしまったのと一緒にぽろりと涙がこぼれ落ちた。そのままボロボロ涙がこぼれ落ちて、喉の奥からは笑い声とも泣き声とも取れない変な音が出る。着信履歴を開いてわかささんに電話を掛け携帯を耳に当てているその時も涙は止まりそうになかった。
何コールか間を置いて、電話は繋がった。「なんだよ」と不機嫌そうな声が耳に響く。これ多分、山田だと思ってるんだろうな。アイツは一体何を言ったんだろうか。気になるけど、口を開いたら声を上げて泣いてしまいそうで何も言えなかった。
そのまましばらく黙っていたのだが、逆にその黙りがダメだったらしい。わかささんは「なんか言えって。なんもないなら切るからな」と言った後に、少しの間を置いて私の名前を呼んだ。バレちゃった。
「寝てるって聞いたけど、どうした? なんかあった?」
本当に山田はどんな伝え方をしたのか、わかささんの声はいつにも増して優しい。さっきまでは明らかに不機嫌そうだったのに、相手が私だと分かった途端にこれ。
低く落ち着いた声がもう一度私の名前を呼ぶ。どうしてだかその声と赤音の声とが重なったように聞こえて、また涙が出た。ずっと黙りを続けるわけにもいかないと開いた口から泣き声が漏れた。あっと思っても今更遅い。出たものは引っ込められないので、もう仕方ないと鼻をグズグズ言わせながらわかささんの名前を呼んだ。
「あの、ごめんなさい。今日せっかく早く帰ってきてもらったのに、会えなかった」
「ンなこと気にすんな。オレのことはいいから、泣くほどキツいなら寝とけよ」
「そこまでキツくないよ。もう平熱ぐらいまで下がったはず。ただ……夢を見て、それで泣いちゃっただけ」
「夢?」
「赤音の夢」
言葉にしたらもうダメで、またひっきりなしにボロボロと涙が溢れてくる。いくら拭っても止まりそうにもないし、また悲しみが胸を満たしていく。赤音を喪ったあの日、赤音の形に穴が空いたまま凍り付いた心がいやでも溶かされていく痛み。喜ばしいことなはずなのにどうしようもないぐらいに辛かった。「きっともう大丈夫」と言うことは出来ても、この悲しみがすぐになくなるわけがないのだ。
わかささんは押し黙ったまま何も言わない。言葉を探すような沈黙の中、私の啜り泣く声だけが響いている。
こんな話、しなければ良かったのかもしれないと思った。いつかは話さなければとも、いつかは話を聞いて欲しいとも思っていた。赤音との記憶は痛みを伴っても決して忌むべき傷なんかじゃない。話してはならないことでもない。だけど大切にしすぎて、誰かに話すのには勇気がいる。それは赤音との思い出に縋って生きてきた私にとっては尚更なことだった。
山田は「自分も夢を見ることがある」と言った。きっと誰だってそうなんだろう。二度と会えない大切な人との夢を見て、悲しくなったり泣きたくなったり辛くなったりする。本当に涙が出てきたりもする。
わかささんだってそうだった。この前熱を出した時、わかささんももう会えない誰かの名前を呼んでいた。夢を見たと言っていた。
どうしてそういう時しか会いに来てくれないんだろう。どうしてもっと辛い時には顔を見せてくれないんだろう。ただ一言名前を呼ぶことだってしてくれない。だから自分でどうにかするしかない。これからも私は、自分でこの悲しみと向き合っていくしかなくなる。
その時に出来ればわかささんにそばにいて欲しい。私が泣きたくなる時、そばにいて。それで本当に私が泣いてしまったなら、あの日みたいに抱き締めて。絶対に見つけると何度だって約束して欲しい。どこにいたって見つけるとそう言って欲しい。その言葉があるだけで、隣にいてくれるだけで、私はきっと大丈夫になれる。
「わかささん」
「……ウン」
「会いたい」
嗚咽しながらそう言えば、わかささんは少しの沈黙の後に「オレも」と呟いた。そう言ってくれるだろうと思っていたから、依然として泣きながらも思わず笑ってしまう。ああ、この人、本当に私のことが好きなんだ。こんな面倒なこと言う女のこと、本当に好きになっちゃったんだ。
馬鹿な人だ。綺麗な女の人も可愛い女の人も年上も年下もよりどりみどりだろうに、中でもとびっきり面倒な私を選ぶなんて本当に馬鹿。ただゴミ捨て場に落ちていたのを拾っただけなのに。そんなことしてくれる女の人はこれまでにも沢山いたはずだ。だけど私が良いんだって。
どうしようもない馬鹿だよね。私がわかささんの立場なら、絶対に私みたいな女を選んだりはしない。もっと素敵な誰かを選ぶ。
だけど、でも、きっと私もどうしようもない馬鹿なんだろう。ゴミ捨て場に落ちていた酔っ払いを拾って家にあげて、合鍵まで渡して、気付けばこんなにも好きになってしまった。言い訳のしようもないぐらいに、自分の傷をさらけ出してしまえるほどに愛してしまっている。
ここまで来たら責任を取ってもらわなきゃ困るぐらいだ。あの日、私一人で終わるはずだったあの部屋に、この心に、勝手に入ってきたのはわかささんなんだから。
鼻を啜りながらふざけて「ほんとに?」と聞き返せば、わかささんは「ほんとに。今すぐ会いたいし、またオレのいないところで泣いてるどっかの誰かさんを抱き締めてやりたい」と嘘のない声音で答えてくれた。
私はその瞬間に「きっともう大丈夫だ」と思った。悲しみがなくならなくても、痛みが消えなくても、心が凍り付いたままでも。それでも私はきっと大丈夫になれる。いつかあなたに会えるまでの百年二百年、あなたが私を待ってくれるのと同じだけ、あなたを待っていられるだろう。