三十八話

 「じゃあ」と言いながらドアを開けた瞬間に吹き荒れる風が顔面に直撃した。思わず目を瞑る。しばらくしてから目を開けドアを閉め、仕切り直すように咳払いをしながら振り向くと、玄関に立っていた遊佐さんが「前髪ヤバいよ」と冷静に教えてくれた。慌てて前髪に触ったが、残念。せっかく整えたのに風に全部持っていかれているようだった。
 手近な場所に鏡がないので今がどんな状態か正確には分からないが、もう一度洗面所に行きたいような状態であることは確かだ。手ぐしでなんとなく整えただけでは万全の状態には戻せそうにない。

 前髪と格闘しながら恐る恐る遊佐さんを見上げたのだが「時間大丈夫なの?」と言われるだけで、遊佐さんは退いてくれそうにもなかった。洗面所への道は封鎖されています……。

 これはもう諦めるしかないやつなのかもしれない。そう思って肩を落とした私を哀れに思ったのか、ふっと笑った遊佐さんが手を伸ばしてサッと前髪を分けてくれた。さすが遊佐さん。なんだかんだで私を見捨てない。

「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「遊佐さんには本当にいつもお世話になっており……」
「出た、感謝の敬語。そういうのいいから、ほら、さっさと行く」

 とん、と肩を押されてしまえば「はい」と言うしかなかった。遊佐さんはこうしてどんどん私への対応が雑になっていくが、最終的にはどうなっちゃうんだろうか。怖いけど気になる。


 行きは持っていなかったトートバッグは、母によってあれもこれもと荷物が詰め込まれてすっかり重くなっている。帰ってくる時に適当に突っ掛けてきたサンダルも、さすがにそれで帰るわけにもいかずにトートバッグにしまったため余計に嵩張った。こんなことなら普通に靴で来ればよかったと思ったぐらいだ。

 今日も仕事がある両親に代わってこうして見送りに来てくれた遊佐さんはこの数日で随分うちの両親に気に入られたらしく、今日は母の作り置きしたカレーうどんをお昼に食べるんだとか。だから家の外ではなく中から私を見送ってくれている。なんか変な感じだ。


 遊佐さんに促されるままに再びドアを開け、今度は前髪がぐちゃぐちゃにならないように最初から外に背中を向けておく。そうしてドアを半分ほど開けた段階で、意を決して「本当に一緒に帰らないの?」と遊佐さんに聞いてみた。昨日の夜、お昼には東京に到着できるように家を出ると決めた時点で聞こうと思っていたんだけど、勇気が出なかったのだ。
 遊佐さんは私が結構勇気を振り絞っていることを分かっているのかいないのか、いつも通りの顔で「年明けまでは帰らないよ」と言った。そっか、本当に帰らないんだ……。

「一緒に帰りたかった……」
「そう言われても、お年玉回収するまでは帰らないって決めたから」

 欲しいスプリングコートあるんだよねとあっけらかんと言った遊佐さんは、そのまま「年明けには会えるよ」と続けた。名残惜しさとここ数日ほとんどずっと一緒に過ごしていた遊佐さんと離れることへの寂しさを感じながら頷く。今も完全にラフな格好だし、帰る気なんてそもそもなかったんだろう。悲しいけど仕方ない。お年玉は大きい。
 見るからに落ち込む私を見て何を思ったのか、遊佐さんはまた笑って「どうせ東京着いたら例の人とずっと一緒なんでしょ?」と言った。例の人とは、言うまでもなくわかささんのことである。私はそっと首を傾げる。

「どうかな。今日帰るって言ってないし、あの人も実家帰ったりするんじゃない?」
「え、今日帰るって言ってないの?」
「うん。言ってない」
「へえ……言ってなかったの……」
「それがどうかした?」
「ん? ああいや、別に、なんでも。ほら、あの馬鹿もそろそろ来たんじゃない? アイツ仕事抜けてきてんだから早く行ってあげなよ」
「はーい」

 遊佐さんの歯切れの悪さが若干気になったものの、そこまで気にすることでもないかと結論付けて外に出ると「じゃあまた向こうで」と手を振った。遊佐さんも先程までの微妙な表情を引っ込めて、薄らと笑って「うん」と言いながら手を振ってくれた。
 そのまま手を振り続け、ドアが自然に閉まってから踵を返して歩き出した。そうして家の敷地を出て左右を確認し、少し先に目当ての車を発見。さっと駆け寄って車内を覗き込むと、やっぱり運転席には今日も今日とてピンクのエプロンを着た山田がいた。目が合うなり「自分で開けろ」とばかりに顎で扉を指し示されたので大人しく助手席の扉を開けて乗り込む。

「遅かったな」
「遊佐さんと話してた。待った?」
「まあ十分ぐらいは」
「あー、今のはダメな回答。そこは『待ってない』って言うべきところ」
「うっせ。ほらシートベルト締めろ。出すぞー」
「うい」

 シートベルトを締めるのと同時に車はゆっくりと進み出した。この顔と図体で安全運転だから脳がバグると言われる山田の運転だ。行きはほとんど寝ていて満喫出来なかったから、帰りは十分楽しませていただこう。と言っても駅までの数分だけど。

 遊佐さんが言った通り、わざわざ仕事を抜けて車を回してくれた山田だが、流石に「東京まで送ってもらいます」というわけにもいかない。そもそも駅まではそこまで距離もないしいざとなったらバスを使うから送ってもらわなくてもという話だが、「いや、なんでもいいから乗ってけ」と言って聞かないので甘えることにした。山田も遊佐さんも変なところで頑固なんだよね。幼馴染みだからそういうところが似てるのかな。


 静かに快適に進む車内は暖かく、ちょうどひとつめの信号に差し掛かったあたりで思わずふわりと欠伸が出た。山田が横目でこちらを見たのを感じたものの、運転させておいて欠伸をするという行為に若干の申し訳なさがあったので何も言わないでおく。もし何か言いたいことがあるんだとしたら勝手に声を掛けてくるだろう。

「熱はもう完全に下がったのか」
「うん、まあ。まだちょっと鼻水と咳は出るけど、許容範囲内だと思う」

 これなら治りかけの風邪の範囲内だ。マスクをしたりして人に移さず、そしてなるべく家から出ずに早く良くなるように努めようと思う。特に年明けまで引きずるわけにはいかない。せんじゅちゃんと初詣に行こうと約束したんだ。

 そう言えばあの子にお年玉渡すためのポチ袋用意してないな。東京着いたら適当な雑貨屋に寄ろうかな。
 そんなことを考えている間に、信号が青に変わって車はゆっくり動き出した。車窓からの景色をぼんやりと眺める。空き家やシャッターの閉まった店、東京にはないような大きさのコンビニなど、田舎特有のものしかない道が続く。その景色に懐かしさを感じるぐらいにはあの六年間で私もこの街に馴染んでいたらしい。

「あ」
「どうした?」
「今なんか可愛い犬が散歩してた」
「……」
「犬苦手なんだっけ?」
「奴らはオレを見下している」
「は? 何言ってんの」
「マジだからな。遊佐ンちの犬なんてよ、オレのケツ噛んできやがって……」
「仲間だと思われてるんじゃない?」
「オレが⁉︎」
「アンタが」

 っていうか、アンタ以外に誰がいるんだっていう話だろう。ケツを噛まれたとか噛まれてないとかは知らない。興味がないです。

 景色と一緒に遠ざかっていた可愛い小型犬に思いを馳せつつ、背もたれに背中を預けて前を見る。駅はもうすぐだ。膝に乗せたトートバッグを抱き締めた。そろそろ言うかな。
 高校の頃からそうだが、山田はいつも人の中心にいるようなやつだけど、二人きりの時は今みたいに案外静かだったりする。話を切り出すのは決して難しいことじゃない。
 次の角を曲がったら言おう。そう思ってなるべく小さく息を吸って吐いてと繰り返していると、突如山田が「あのさ」と呟いた。喋った! 肩が跳ねそうになったものの、普段通りを装って「なに?」と聞き返す。

「なんかあったらすぐ帰ってこいよ」
「なんかって?」
「浮気されたりとか」
「はあ⁉︎」

 想像していなかった言葉にそちらを向いて思わず叫べば、山田は真っ直ぐ前を向いたまま「うるせ」と静かに言った。私はそんな山田を他所にかなり動揺しながら、胸に手を当てて「浮気……?」と繰り返す。どうしてそんな話になったんだ。

「急に何? どうしたの? 浮気された?」
「されてねーよ。いや、あのさ、青宗にそれっぽいこと聞いたんだよ」
「あ、あー……わかささんが女の人と歩いてたってやつ……?」
「それ。で、お前が泣いてたって」
「ココくん本当に全部青宗に話してるな……あのですね、それ、勘違いだったみたいだからあんまり気にしてないです」
「髪切ったのに?」
「これはただのイメチェン」
「ほーん」

 信じてない声だ。

 そんな話をしている間に車は駅に到着し、駅前の駐車場で静かに停車した。しかし山田は話を続けるつもりらしく、そのまま「オレはさあ」言葉を続ける。私もシートベルトを外しつつ、トートバッグをまた抱き締めてその話を聞いてあげることにした。ここまで送ってもらった恩も、東京まで迎えに来てもらった恩もある。それに他にも色々。

「お前がずっと一人でいようとすんなら、責任取ってそばにいてやろうと思ってたんだよ」
「うん……?」

 首を傾げる私を、山田はちらりと横目で見つめた。それから顔を背けて窓の外を見る。

「危ねーこともダメなことも色々教えちまったから、その責任取ってやるつもりだったの」
「頼んでないけど……」
「そ、頼まれてねーけどな。でもよ、お前、東京で良い人に会ったろ? で、毎日楽しいんだろ。昨日まで寝込んでたくせに東京帰りたがるぐらいだもんな」
「まあ楽しいけど……」
「お前が若狭くんと出会ってさー、オレ、心底安心したわけ。『吉野はもう大丈夫だな』って思えたんだよ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。でも今回『大丈夫じゃないんじゃね?』って思っちまったわけ。だってお前泣いたんだろ。そんなざっくり髪まで切っちまって……正直『オレ間違えたか?』って思ったわ」

 思っていなかった方向に話が進むものだから、思わずぽかんとしてしまった。友達を大事にする人だとは思っていたけど、こんな風に考えてくれていたんだ。なんというか意外だ。

 まるで台本を読んでいるかのようにすらすらと喋る山田は依然として顔を背けているから、その表情はこちらからは見えない。だけどなんとなく想像はできた。別に笑うべき瞬間ではないのに、なんだか笑えてくる。
 私の笑い声が気に触ったのか、ようやくこちらを見た山田はしかめっ面だった。アホ面。

「何笑ってんだよ」
「ごめんごめん。いや、私のこと大好きじゃんって思って……」
「はあ? 何言ってんだお前、大好きに決まってんだろ。お前はな、オレの大事なダチなの。オレはダチのこと大好きなの」
「うん、知ってる」

 一緒にいた二年半でそれはよく分かったよ。山田はいつだって私のことを大事にしてくれたから。

 いつの間にか浮かせていた背中を背もたれに預け、今度は声を上げて笑う。笑いすぎて浮かんできた涙を拭いながら、「あのさあ」と今度は私が声を上げた。山田はじっとりとした視線を私に向けたまま「なんだよ」と言う。

「間違えてないよ」
「は?」
「山田は何にも間違えてなんてない。逆に色々間違えた私のこと助けてくれたじゃん。今だから言うけどさ、わりと感謝してるの」
「……」
「赤音が死んじゃって、自分のことどうでも良くなって傷付きたくて山田たちに近付いた私のこと、山田はずっと大事にしてくれたでしょ。色々教えてくれたし、色んなところ連れてってくれたし、何よりそばにいてくれた。あれね、嬉しかったよ」

 私はなんにも出来なかったけど、山田はそうしてずっと私を支えてくれた。朝焼けの美しさを教えてくれたのも、花の名前を教えてくれたのも、不良って別に嫌な奴らばかりじゃないんだって教えてくれたのも、全部山田だった。
 山田がそうして私のために色んなことをしてくれたから、今私は、誰かのために何かをしてあげたいと思えるような人になれた。全部山田のおかげだ。

 笑う私を他所に、今度は山田がぽかんと口も目も見開いている。その顔を見てまた笑いながら、私は繰り返した。

「山田はなんにも間違えてなんてない。私はきっともう大丈夫。それはわかささんだけじゃなくて山田のおかげでもあるし、遊佐さんのおかげでもある。あの時ずっとそばにいてくれてありがとう」

 あの冬の寒い日の朝、私のことを見つけてくれてありがとう。あの時山田が私を見つけてくれたから、今こうして私はここで生きている。それを山田のおかげと言わなくてなんと言えばいいのか。

 山田はしばらくアホ面のまま固まって、やがて眉を下げて笑った。

「やっぱりさっきの訂正するわ。なんもなくても帰ってこい」
「そりゃ、一応ここ私の地元みたいなものですからね。まあそれなりに、気軽に帰ってくるよ。その時は構ってよね」
「おー、任せとけ。あとさ、その髪、似合ってるよ」
「えー、ありがと」

 なんてことはないとばかりにいつものように笑ってそう言った山田に私も笑い返して、ドアを開けて外に出ながら手を上げる。そろそろ良い時間だろう。遅くても二十分に一本ぐらいは電車があるので、この時間ならあと少し待てば電車が来るはず。

 山田もそれは分かっているのか特に引き止められることもなく、お互い手を振りあってドアを閉めた。トートバッグを肩にかけながら一歩踏み出す──そのタイミングで、車窓が内側からコンと叩かれた。なにか忘れ物でもしたのかと慌てて振り返る。そんな私を見てニヤニヤ笑う山田は、駅舎の方に向かって指を指していた。はあ?
 一体何なのかと顔を顰めながらも視線をそちらに向ける。そうして、次の瞬間には私は「えっ⁉︎」と叫んでいた。

「なんっ、えっ、なっ……は⁉︎」
「来ちゃった」
「いや、えっ⁉︎ 来ちゃったって……」

 ──視線の先、駅舎の壁に寄りかかっていたわかささんは、私と目が合うなり軽く手を上げて笑った。

ふたつおりのひとひら