三十九話

 いるはずのない人がいることに驚いてどうしてなんでと質問が止まらない私を「落ち着け」の一言で諌めたわかささんは、何も言わずにさっさと帰っていった山田の運転する車を指差してこう言った。

「誠意見せろって言われたから来た」

 対する私はこう。

「はあ……?」

 どういう意味か分からない、という素直な疑問に溢れた発言である。わかささんはそんな私に何を言うまでもなく私の手からトートバッグを奪い取り、空いた手を握ると「めちゃくちゃ電車少なくね?」と笑ってのんびり駅舎に入っていった。私も大人しく手を引かれるままに歩きながら、「もう少し下ると一時間に二本ぐらいしか来なくなるよ」と教えてあげた。

「マジで?」
「マジで」
「オレには無理だわ」
「私も五分に一本は電車が来る東京に慣れちゃったから時刻表見て『うわー』って思った」
「だよな。オレもビビった」

 へらっと笑ってそう言ったわかささんは、券売機の向かいに並ぶベンチに私を座らせ、切符を買いに行った。その背中を目で追っていると、話しているうちに有耶無耶になりかけた思考が元に引き戻される。誠意を見せるってなんだ。
 もしかして、山田が青宗から聞いたっていう、あの話だろうか。でもあれは浮気とかじゃなくて、多分ただ知り合いの女の人と歩いてただけなんだろうし。青宗にはその辺もちゃんと説明して欲しかった。私なんて青宗に聞かされたせいで「この人私のこと好きなんだよな」って意識してしまっているというのに。

 ぼんやりとわかささんを見つめ続けていると、視線に気付いたのかちらりとこちらを振り向いたわかささんが目が合うなり柔らかく笑った。こっちまで笑顔になるような素敵な微笑みだ。この人、私のこと好きなんだよなあ。
 そう思うと思わずニヤけてしまいそうになったが、ごほんと咳払いをして邪念を追い払う。いけない。変な女だと思われる。これ以上はマイナス評価にしかならないだろう。

 私がそうやって百面相をしている間に、わかささんは切符を買い終えたらしい。隣に座ってまた手を取られ、一枚を握り込まされる。そんなさり気ない触れ合いも、まだベンチ自体に余裕はあるのに肩と肩が触れ合いそうな距離感に座られたのも、こうして会うのが一週間以上ぶりだからかドキドキしてしまった。
 そんな私に気付いているのかいないのか、わかささんは覗き込むようにして私を見つめた後に、そっと首筋に手を伸ばしてきたかと思うと毛先に触れた。そのまま手櫛で何度も髪を梳かれ、なんとなくくすぐったくなってくる。

「ねえ、それくすぐったい」
「……」
「無視?」
「……短いのも似合ってる、可愛い」
「……ありがと」

 突然の褒め言葉に面食らいつつ、今度はニヤける頬を誤魔化せずにそのままお礼を言う。それこそ山田にも遊佐さんにも褒めては貰ったが、やっぱり好きな人からの褒め言葉となると違うな。現金でごめんなさい。でも他の誰に褒められるよりも嬉しく感じてしまうのだ。

 ニヤニヤ笑う私を他所に、わかささんは真剣な顔のまましばらくの間私の髪を梳き続け、しばらくしてから唐突に肩に額を寄せてきた。今日は甘えたモードなのか? 背中に回された腕に答えるように私も抱き締め返したが何の言葉も返ってこなかった。本当に甘えたモードなのかも。


 少しの間そうして抱き締め合っていたのだが、ふと視線を感じて軽く首だけで振り返ると、柱の影からこちらを覗いているチビがいた。うわっと声が出る。あの子あれだ。山田の舎弟の弟。最後に会った何ヶ月か前よりもかなりでかくなっているが、私が何度か勉強を教えてあげていたチビたちのうちの一人。
 あの子に見られると、あの子から舎弟、舎弟から山田、果てには無関係の人々へと噂が広まりかねない。それは少し困る。典型的な狭い田舎町だから、何かあると何でもかんでも噂として広まってしまうのだ。

 若干焦りながらわかささんの背中を叩く。しかし相変わらずなんの反応も返ってこなかったため、諦めてチビの方を口止めすることにした。わかささんの背に触れていない方の手で「しーっ」と口元に人差し指を立てる。チビはまじまじと私を見つめた後にひとつ頷き、パッと身を翻して駆けていった。黙らせ作戦成功か……?

 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度はわかささんが小さな声で私を呼んで背中に回す腕に力を込めた。加減の出来ていないその力強さに思わず眉間に皺が寄るのを自覚しながら、私も名前を呼び返してその背を叩く。

「あの、ちょっと苦しいんだけど」
「……オレのこと嫌いになった?」
「え、なんで? なってないよ、どうしたの」
「青宗と山田から聞いた。オレが女と歩いてるとこ見て泣いてたし髪切ったって」
「あー、それね」

 そのことねと呟けば、勢いよく顔を上げたわかささんは鼻先がくっつくほどに顔を近付けてきた。思わず仰け反ったものの、元々抱き締め合っていたこともあってさして逃げられずに終わる。近い近い。
 ドキドキしている私を無視してわかささんはワッと喋り出す。

「旅行行った日だよな? あの日一緒に歩いてた女とはなんもない。ただの知り合い。嘘だったら酒辞めてもいい」
「いや、そこまでしなくてもいいよ。ちゃんと分かってるし、信じてるから。ね」
「なんならもう二度とお前以外の女と喋ったりしないし、携帯の連絡先も全部消す。だから嫌いになんないで」
「そこまでしなくていいってば。仕事もあるんだし、私以外の女の人と喋らないとか連絡先消すとか無理しないの。そんなことしなくたって嫌いになんてならないよ。ちゃんと好き。大好きだから、安心して」
「……本当に?」
「本当に。ほら、大好きのチューしたげるから」

 あまりにも必死に弁解してくるものだから可哀想になってきて、まじまじと私を見つめてくる目尻に思わずキスしてしまった。やっちゃったと一瞬冷静になったものの、そんな後悔に囚われる暇もなく、わかささんは「口にしろよ」と文句を言ってくる。なんて調子のいい人なんだろうか。さっきまでの殊勝さはどこにいったの。呆れた。

 まあ流石に「口にしろ」というのは冗談かなにかだったらしい。安心したのかなんなのか、わかささんは更に腕に力を込めて私を抱き締めながら、肩にぐりぐりと額を押し付けてきた。

「痛い痛い。っていうか、あのね、ここ駅。誰かに見られると困るんだけど」
「見せ付けてやればいいんだよ」
「誰に何を?」
「っつーか、こうしてないとお前どっか行くだろ。変な書き置き残して居なくなられてめちゃくちゃ心配したんだから、これぐらいさせろ」
「そんなこと言われましても……」
「とうとう愛想尽かされて出ていかれたのかと思ったワ」
「出ていくも何も、あそこ私の家だから。っていうか書き置きも見たの?」
「そのままお前ん家行ったからフツーに見た。今度からあの書き方やめろよ。マジで捨てられたんだと思ったからな」
「今更捨てないよ。一回拾ったものは最後まで面倒見る主義なの」
「最後までって、オレが死ぬまでずっと?」
「うん。あと百年か二百年かは一緒にいようね」
「何その数字」
「夢でねー、赤音と約束したの。百年でも二百年でも待っててくれるんだって。だからそれまでの時間はわかささんにあげるね」

 その分私もわかささんの時間を同じだけ貰うつもりだけど、それなら私からもあげないとダメだろうから、全部あげる。いらないと言われたって今更聞き入れることはできないから諦めて欲しい。あの日、あのゴミ捨て場に落ちていたのが運の尽き。私に拾われた時点でこうなることは確定していたということで。

 一晩経ったからか、それともわかささんがそばに居てくれるからか、随分明るく気楽にあの夢のことを思い出すことが出来た。涙はもう出てきそうにもない。赤音との約束の喜びの方が悲しみよりも今は勝っている。
 いつかの約束は私にとって希望だ。

 ふふと小さく声を上げて笑えば、肩から顔を上げたわかささんがまたまじまじと私を見つめ、ぽつりと呟いた。

「なんか今負けた気がする」
「誰に?」
「アカネちゃんに」
「えー、なにそれ。ふふ……わかささん、喧嘩も強いのに赤音に負けちゃったの? 赤音に? うふふ……」

 赤音に負けたって、可愛いことを言う人だな。言葉の選び方というか、嫉妬の仕方というか、その伝え方というか、とにかく可愛い。恋は盲目とはよく言ったものだ。成人済みのアル中一歩手前の男の人が可愛く見えてくるんだから、恋って不思議。

 笑いながらわかささんをぎゅっと抱き締めて、今度は私がその肩に額をくっつける。短くなった毛先がくすぐったかったのかわかささんは一瞬身動ぎしたが、特に何かを言われることも突き放されることもなかった。

「大丈夫だよ。好きな人と親友は違うの。わかささんだってそうでしょ?」
「まあ……」
「それにわかささんと赤音は、なんていうかこう、全然違うから。赤音はねえ、見た目は天使みたいに可愛いんだけど、結構色んなことが雑で、頑固で、寝起きが悪くて、思い切りがいい子なの」
「女版青宗?」
「全然ちがーう。赤音は喧嘩はしないし、私のこと馬鹿にしないし、もっと素直。でも青宗も赤音もすごく優しいから、そこは似てるのかな」
「……大事な親友なんだな」
「そう。大事な親友。ずっとずっと大好きな女の子。私ね、赤音のことを大好きだって思う気持ちを隠すのはもうやめることにした。あの夢が例えただの夢で私に都合がいいだけの幻でもいいんだ。だってきっと赤音なら『待つよ』って言ってくれるから」

 熱に浮かされた私が見たあの夢が、本当に幻でも思い込みでも構わない。だって赤音なら本当にああ言ってくれる。私はあの夢でそれを思い出すことが出来た。百年でも二百年でも待っていると言ってくれた赤音の言葉は、きっと本物だった。

 わかささんの肩に額を寄せたまま、そっと目を閉じる。そうしているとお互いの鼓動まで混ざりあって曖昧にぼやけていくような気がした。それでいいと今なら思える。百年後か二百年後かに赤音にまた会えるまでのその日々を一緒に過ごすのはこの人がいい。それが私の思う「好き」だ。
 目を瞑って耳を澄まし、わかささんの鼓動の音を聞きながらゆっくり口を開く。

「そのうちわかささんのお友達の話も聞かせてね。ほら、『真ちゃん』さん」
「真ちゃん? アイツは……カッケー奴だった」
「うん」
「まあでも女の趣味は悪かったな。自分に興味ねー女ばっか好きになるから告白も二十連敗ぐらいしててさ」
「二十は結構な数じゃない?」
「だろ? 絶対もっといい女いたはずなのに、毎回毎回変なのばっか選ぶんだよ」

 過去を懐かしむようにそう呟いたわかささんの声はあたたかいものだった。相槌を打つ私の声も自然と緩やかなものになる。

 しばらくの間わかささんはお友達の話を聞かせてくれた。族時代にわかささんとベンケイさんの上にいただけあって、カリスマ性は抜群な人だったらしい。山田たちが憧れていた人とも同一人物みたいだし、要はすごい人だったんだろうな。会えないことが悔やまれる。
 最終的に話が一周して散々『真ちゃん』さんの女の人選びのセンスの悪さを貶した後に、わかささんは「でも良い奴だった」と言った。肩に頭を預けたままちらりと見上げた先で、わかささんは目を細めてどこか遠くを見ている。もう会えない人と一緒に過ごしたその日々のことを思い出しているんだろう。私も同じように、赤音のことを思い出してみる。

 赤音は一体どんな恋愛をしたんだろうか。あの頃の私たちは「恋なんてよく分からない」と思っていたから、誰がタイプとか誰が好きだとか、そんな話は全然しなかった。もっとしておけば良かったと今なら思う。赤音、私ね、泥酔してゴミ捨て場に落ちてるような人が好きなんだよ。女慣れしてるけど、本気で私のこと大事にしてくれる人なんだ。
 脳内の赤音が「告白しちゃえ!」と拳を構えた。夢の中でもそんなことを言われたような気がする。これと決めたら譲らないし、決断が早い子だったからなあ。

 懐かしさにやんわりと笑いながら「わかささんも変な女選んでるよね」と言えば、わかささんは思わずと言った様子で「えっ」と声を上げた。

「どれに会った?」
「何その酷い言い方。誰にも会ってません、多分。今のは私のことだよ」
「どこが? 全然変じゃねえけど、誰かになんか言われた?」
「ううん、言われてない。だけど変だよ、私。私なら選ばないなって思う」
「はあ? 意味分かんねえ。お前はお前のままでいいの。お前がお前を選ばなくても、オレは何があってもお前のこと選ぶんだからな」
「ふーん?」

 何があっても、だって。この人って普通の顔してこういう言葉を選ぶから、こっちはドキドキさせられっぱなしだ。でも嫌じゃない。

 肩に乗せていた頭を上げ、ニヤリと笑いながらわかささんを見上げる。わかささんも私を見下ろしながらゆっくりと口角を上げた。

「じゃあ責任取ってね。私に期待させた責任と、私の心に勝手に入ってきた責任と、それから私にキスさせた責任」
「は」

 わかささんが何を言うより早く、両肩にそれぞれ手を置いて軽く背を伸ばしながらわざとらしくリップ音を立ててその唇の端にキスをする。

 肩に手を置いたまま顔を離せば、いつもの余裕そうな表情はどこへやら、わかささんは目を見開いて私を見つめていた。思わず笑えてくるような間抜け面だ。

「変な顔」
「だっ……いやお前、今のはそういうことだよな?」
「さあ? でもあれだよ。今の一回で懲役十年ぐらい。だからあと二十回はしなきゃ二百年にならないんだけど……どうする?」
「ひとまず今二十回する」
「わっ」

 情緒もへったくれもなくわかささんの顔が近付いてきて唇と唇がくっついた。あーあ。私、さっきは敢えて外したのに。この人は普通にキスしてきた。仕方がないのでせめて少しはそれっぽくしようと目を瞑って、気付けば私の手の上に置かれていたわかささんの手のひらを握る。

 力強く手を握り返してきたわかささんによってそのまま二度、三度と触れるだけのキスが続き、かさついた唇が触れて離れていくくすぐったさに私は笑ってしまう。笑われたのが嫌だったのか、わかささんは何回目かのキスの後に「おい」と不満げに声を上げた。

「なんで笑ってんの」
「だってなんかくすぐったいし、わかささん可愛くて」
「……好きな女とようやくキス出来んだから必死にもなんだろ」
「いや、馬鹿にしてるんじゃないからね? 私の可愛いは褒め言葉だよ」
「嬉しくねえよ」
「男の子だねえ。私は嬉しいけどな」
「世界で一番可愛い」
「ありがと、嬉しい」

 恋は盲目、という言葉はわかささんにだって適用されるものらしい。世界で一番可愛いだって。よくそんな恥ずかしいことを堂々と言えるものだ。言われた私だって小っ恥ずかしくてたまらないというのに。
 綻ぶ頬をそのままにわかささんの首に腕を回す。そろそろ電車が来るだろうけど、まああと一回二回ぐらいなら、いいかな。

 私も私で浮かれているのでそんな甘い考えの元、もう一度目を瞑ろうとして、ふと視線を感じた。うん? 閉じかけた目を開き、じゃれるように頬を寄せてくるわかささんをそのままにさせておきながら、その後ろ、何メートルか先の柱の影を見る。あちらの方から、視線が……。

「なー、言ったじゃん! 吉野、変な男とイチャイチャしてるだろ!」
「や、お前これオレらが見ていいやつじゃねーって! ヤベー、アレ誰だ、吉野さんの彼氏か⁉︎ 東京の男か⁉︎ これって山田くんに報告した方、が……あっ」
「あっ、ヤベーよ兄ちゃん、吉野こっち見てるよ!」
「……わかささん、一旦離れて」
「いやあのなんも見てねッス! オレらなんも見てねーんで!」
「なんで? 見せ付けてやろうぜ」
「いいから、離れて」
「やだ」

 柱の影に隠れてギャーギャーと騒いでいる、先程黙らせたはずのチビと、山田の舎弟のうちの一人であるその兄。すっかり浮かれてしまっているわかささんと、知り合いにあられもない場面を見られたことにより嫌でも冷静になってしまった私。ここが駅舎のど真ん中であることを今更思い出しても、全て後の祭りだった。


 数時間後、山田から「駅でやるな、せめて東京に帰ってからやれ」と暗に「こっちではもうさっきのことは噂になってますよ」とばかりのメールが送られてきて、数日ぶりのわかささんの部屋だというのに私が思わず叫んでしまったのは、まあ余談である。締まらないなあ、ほんとに。

ふたつおりのひとひら