二十四話(裏)

 かつても今も「伝説」と呼ばれるような人相手だ。向かい合って「吉野のことどう思ってるんすか」と聞くその瞬間に緊張しなかったと言えば、それは嘘になる。
 品行方正で眉目秀麗。柔らかい雰囲気と垢抜けた可愛さがいい、とクラスメイトたちが噂しているのを中学校三年間と高校に入って最初の一年で何度も聞いた。教師からも露骨に気に入られ、その癖して同級生たちとも打ち解けていた。吉野はそういう女だった。
 たいしてオレはと言えば、しがない花屋の次男。弟が生まれてすぐにバイクで事故って死んだ親父と、親父が死んでから女手一つでやんちゃな息子三人を育てるのに苦労するお袋の背中を見て育った。だというのに兄貴の後を追うようにしてグレたとんでもない親不孝者である。
 そんなオレにとって、吉野はまさに高嶺の花と呼ぶに相応しい別世界の人間のような存在だった。オレと吉野の繋がりと言えばジジイの道場に吉野が通っていることぐらいだったが、それもジジイが一度畳んだ道場をまた開いて「筋がいい」と褒めるほどの実力がある、という程度のことしか知らなかった。オレたちはそうやって、約四年間交わることなく過ごした。
 しかし、高二の春に吉野は突如不登校になり、気付けばオレたちのコミュニティに染まりきっていた。そうなったきっかけはよく覚えていないが、確か、オレたちの家の近所側の山道の入口に置かれた質素なベンチでぼーっと夕焼けを見つめている吉野をオレが拾ったような気がする。
 ともかくそれから交流の増えたオレたちは、なんやかんやと喧嘩をしたりしたものの、今もこうしてダチとして仲良くやっている。「後期から復学することにしたから、これ、新居の住所」と言って引っ越し先の住所を教えられた時、オレは少し泣いた。アイツが引っ越すその日にも泣いた。吉野はそんなオレを変なものを見る目で見ながら笑っていた。
 別に吉野に恋をしているわけじゃない。今後何があってもあの女に恋をすることはないだろうとすら思う。吉野のことを好ましく思っていても、それは恋愛感情ではない。友人として、人間としての好ましさだ。
 だからこそオレは、この人にその真意を聞かなければならなかった。吉野をいたずらに弄んでいるのであれば、負けると分かっていても殴り掛かって止めなければならない。それが友情だ。
 オレがそんな風に決意を固めている間、若狭くんは何も言わず、暮れなずむ夕日を静かに見つめていた。夕日に照らされてじんわりと赤く染まるその横顔は、どこかあの日の吉野に似ているようにも思った。
 そしてそこから更に少しの沈黙の後に、オレを真っ直ぐ見ながら若狭くんは口を開く。
「好きだよ」
「……本気なんですよね」
「ン。本気で好きだし、これからも手放す気なんてねえよ」
 その言葉に安堵のため息をついて肩の力を抜く。良かった、と思った。吉野の心が不用意に傷付けられないなら良かった。
 どこか張り詰めていた空気が弛緩し、若狭くんはゆるりと口元を緩める。
「仲良いんだな」
「ダチっすから。あと、アイツが本当なら知らなくて良かったこと色々教えちまってるんで、こう、罪悪感みたいなもんもあるんすよ」
「あー、酒とか?」
「っす。酒も煙草も飲みたい吸いたいっつーから与えてましたけど、本当はダメなやつでしょ」
 吉野が酒と煙草を求めたのは、それらが体に悪いからだ。その真意を聞いたことはないが、あの頃の吉野は心のどこかで死にたいと思っていたのではないか、とオレは思っている。だからこそ体に悪いものにばかり手を伸ばしたのではないか、と。
 今思えば勧めるべきではなかったし、与えるべきではなかった。娯楽やかっこつけで求めるならまだいい。死にたいからなんて理由で酒と煙草を選んだ吉野にそれを与えてしまったのはオレの罪だ。
「それにオレは、アイツのことギリギリまで見つけてやれなかったんで……若狭くんはちゃんと見つけてやってくださいね」
 吉野の母親から「あの子が外に出たっきり帰ってこないの」と連絡を受けた時、無性に嫌な予感がした。日中に久々に高校に行った時の吉野は普通ではないように見えたからだ。
 しかしオレはそう思っていながら何も聞こうとしなかったし、何も言おうとしなかった。その結果がアレだ。
 街中を駆けずり回り最後にダメ元で入った山奥で、木に寄りかかって死んだように眠る吉野を見付けた時、既に朝日が登り始めていた。冷たい体を抱きかかえて山を駆け下りる時、何度もぬかるみに足を取られて転びかけ、その度に悪態をつき、木々の間から差し込む朝日の目を焼くような眩しさにすら苛立ちながらオレは泣いたのだ。友人を失うことに恐怖し、泣くことしか出来なかった。
 あの日から朝焼けが苦手だ。朝焼けに照らされると上手く息ができなくなる。親父が死んだと聞かされた朝のことを、オレより一回りも二回りも小さく氷のように冷え切った体を抱えて山を駆け下りる瞬間のことを、朝が来る度に思い出す。
 だけど、だからこそ吉野がそうでなければいいと思っていた。夕焼けを悲しむアイツが、朝焼けまで苦しむようにならなければいい。そしていつか、アイツを見つけてくれる誰かに出会えればいい。
 良かった、とまた頭の中で繰り返す。良かったな、吉野。お前、いい人に見つけてもらったじゃん。この人ならきっとお前のこと誰より先に見つけてくれるよ。
 なんだか娘を嫁に出す父親になったような気分だった。娘、いないけど。
 少し笑いながら息を吐き出して、手に持っていた紙袋を若狭くんに差し出す。若狭くんは怪訝そうな顔をしながらも受け取って、軽く中身を覗いていた。
「それ、吉野の中高の卒アルっす。話のネタになるかと思っておばさんから借りてきたんすけど、若狭くんに託します。吉野に渡しといてください。まあ? 軽く中身見るぐらいならセーフだと思うんで?」
「……良い奴じゃん、お前」
「いやいやそれほどでも! その代わりと言っちゃなんなんですけど、アイツのことマジでよろしく頼みます。目ェ離すとすぐどっか行こうとするんで」
 きっと、この人のそばでならばその悪癖もだんだんなくなっていくのだろうが、一応念の為。
 当たり前の顔で「お前に言われなくても」とばかりに「任せとけ」と頷いた若狭くんに、また少し泣きそうになった。アイツ、変なものばっか拾うくせして男見る目はあるんだなあ。

 +

「わかささーん、お風呂出たけど……なにそれ本? 何見てるの?」
「卒アル」
「……誰の?」
「ん」
「……私のじゃん! なに⁉︎ なんで持ってんの⁉︎ あっ、山田だな⁉︎」
「そ、もらった」
「あげてない! しかもこれアイツのじゃなくて私の実家から持ち出してきたやつ! ねえ見ないでっ、恥ずかしい!」
「なんで?」
「なんでえ⁉︎ じゃあわかささんは私に卒アル見せられるの?」
「見せられるよ。どこ行ったか分かんねーけどな」
「なん、なっ……それでもダメ!」
「別にいいだろ。ほら、コレとか可愛いじゃん」
「そんなこと言ってもダメなものはダメ! ねえ返して、見ないでってば」
「マジで生徒会長やってたんだなー、今よりちっちゃくて可愛い」
「返せ!」
「おーおー、じゃれるなじゃれるな」
「ちょっ、くすぐったい! あはっ、やっ、ねえそれやめてっ!」
「ん? ここ?」
「あっ、だめっ、それやだ」
「……」
「やめてってばあ」
「……先風呂入ってくるワ。後で一緒に見よ」
「見ないけど……?」
「とにかく起きとけよ」
「ええ……?」
 まあ寝ちゃったわけだけど、「起きとけっつったろ」とぼやくわかささんにキスをされる夢を見た。夢は欲望を表すとも言う。本当に恥ずかしい。

ふたつおりのひとひら