20

 どうしてもっと真剣にコインを集めておかなかったんだろう。選抜試験が終わって無事に最終試験まで駒を進めたから変に安心してしまっていた。こんなところでコインが必要になるなんて思わなかった……そんなのは言い訳だ。
 人が多いから普段のように箒で廊下を進むわけにもいかないし、固有魔法を使うわけにもいかない。仕方なく自分の力だけで走っていると私って足が遅いんだなと思い知らされる。もっと早く走りたい──!
 半泣きで廊下を全力疾走するうさ耳の不審者に怯んでか道を勝手に空けてくれる人ばかりでそこは素直に嬉しかった。でも、教室、遠い……! 疲れる……!
 教室のある階に到着した頃には既に息も切れ切れで這う這うの体になっていたが、それでも頑張って走る。そうして到着したケモ耳カフェは有難いことに結構な行列になっていた。妹は害獣牧場とか言ってたけど、やっぱりみんなケモ耳が好きらしい。だよね、分かる。いいよね、ケモ耳。
 そんなことを思いながら扉が外されて開放的な教室に飛び込むとお客さん含めて皆の視線が私に集まり、すぐにクラスメイトたちからやんややんやと声が掛かる。「何やってんだ」とか「宣伝係が戻ってくるな」とか「なんでそんなに汗かいてんの?」とか。それに答える気力もなく膝に手を当てて息を整えていたのだが、ホール担当のリス耳マックスくんが水を持ってきてくれたので有難く受け取った。あー、冷たい。生き返るー。
「何かあったのか?」
「借金しに来た……」
「ちょっとよく分からない」
「後で説明する……」
 空になったコップを持ったまま、教室後方のキッチンスペースに向かう。足取りが重いのは気のせいじゃない。どんな顔して会えばいいんだろう。なんて言えばいいんだろう。でも言わなきゃ。
 教室中の視線を感じながらようやくキッチンスペースまであと数歩というところまで辿り着いたその瞬間、ぐるぐる悩んでいる私のことなど知らないとばかりにシャッとキッチンスペースの仕切りが開かれた。その先には、この一年半とちょっとですっかり見慣れた、金と黒半分ずつの髪色をした、私よりも背の高い男の子が仁王立ちしている。眉間に皺を寄せた顔は無愛想に見えなくもないけど、頭の上でちょこんと主張する髪色と同じ二色の猫耳とウサちゃんのアップリケのついたエプロンが可愛くて、ムスッとした表情もだんだんすごく可愛く思えてくる。
 それを見たら、もう。
「れ、レインくんだああ」
 わーんと声を上げて、どんとその胸に飛び込む。レインくんは一歩も揺らぐことなく私を受け止めて、でも抱き締め返してはくれなかった。それもいつものことだ。安心してどばどば涙が溢れてくる。
 えーんえーんと情けなく泣きながらレインくんの肩に顔を埋めると、上の方から小さなため息が聞こえてきた。それもいつものことなのにひゅっと喉が鳴って体が固まる。またやっちゃった。
 ついさっきまでとは違った意味でぼろっと涙が溢れた。私、またレインくんに嫌なことをしてしまった。泣いて縋って、そういうのはダメだと学んだはずなのに。
 唇を噛んで嗚咽を堪え、レインくんからそっと離れる。ただ私が抱きついていただけだから離れるのだって簡単だ。周りの人たちがちょっとザワついたけど、レインくんは静か。相変わらずムスッとしている。そうだよね。分かっていたはずなのに、そんなレインくんを見ていたらまた涙が出てきた。そうしたら更にレインくんの眉間に皺が寄るから、もう私の涙は止まりそうにもない。
「レインくん……い、嫌なことして、ごめんなさい。今までずっと、やだったよね。レインくん優しいから、嫌だって言えなかったんだよね」
「……何の話だ」
「わ、わたし、浮かれてた。勘違いしてた。レインくんの優しさに甘えてた。全部嫌だったでしょ? 私、キモかったし、ウザかったよね。き、嫌いに……嫌いになっちゃった、よね」
「おい」
 こうやってすぐに泣くのもレインくんの優しさにつけ込んでるのと一緒だ。レインくんは優しいから、私が泣いたら動揺する。本当のことを言ってくれなくなる。嫌いだと言えなくなってしまう。
 口を開くと声を上げて泣いてしまいそうだったから唇を噛んだら血の味がした。痛い。涙が止まるようにと無理矢理ローブの袖で擦ったら目の下も痛くなってきた。ああもう、口も目も心も全部痛い。ズキズキする。
 そのまましばらく頑張ってみたけど涙は止まりそうにもなかった。仕方なく顔を上げ、レインくんを見つめる。レインくんは最早怖い顔をしていて、また涙が出た。
「レインくん……私、もうレインくんに話しかけないし、触ったりしないし、お部屋にも行くのやめる。テストも一人で頑張るし、おばけ怖くても一緒に寝てってお願いしないし……もう、嫌なことしないから、最後におねがい」
「……」
「……コインを貸して欲しいの」
「……は?」
「どうしても今すぐ必要なの……! あと一枚足りなくて、あの、絶対返すから! 返す時話したくなかったらマックスくんに預けるし、最終試験も辞退する! それでもやだったら学校辞めるから、お願い!」
 話しているうちにレインくんがどんどん怖い顔になっていくのが涙でぐちゃぐちゃの視界でも分かって、情けなさとせめてもの誠意で頭を下げた。ぽたぽた溢れて止まらない涙が床に落ちていく。それでもレインくんは何も言わない。……やっぱり土下座とかしないとダメかな。コインって貴重なものだし……。
 それなら土下座しようと床に膝と手をつくと、ドンと荒々しく床を踏みつける音が響いた。視界にレインくんの足が入ってくる。ふ、踏まれるやつだ……! 下げた頭を踏まれるアレだ……!
 レインくんって結構足癖悪いから、嫌いなやつにはそれぐらいするのかもしれない。悲しくなんてない。嫌われた私が悪い。
 でも踏まれるの怖いな。痛いかな。鼻血出るかな。
 ちょっとだけ土下座を躊躇っていると、レインくんの方から動いた。なんと私の前にしゃがみ込んだのだ。そして、ウサちゃんのアップリケが見えて思わず上げた顔をガッと掴まれる。頬を鷲掴むようなそれは、レインくんがいつも私にやるやつだ。力加減をしてくれているからあまり痛くない。
 しばらく見つめあっていたのだが、こうしているとまだ流れている涙がレインくんの手を濡らしてしまうことに気付いた。まずい。嫌いな人間の体液とかそれこそ嫌でしょ。もっと嫌われちゃう。
 それになんか、顔が怖い。
「れ、レインくん、離して」
「誰に何を言われた?」
「……え?」
「オレがお前を嫌っているだの、コインが必要だの、学校を辞めるだの……言え。お前は一体誰に何を言われてそんなふざけたことを言い出した」
「や、ちがうよ、誰にもなんにも言われてないよ……私、反省したの。レインくんに嫌われることしかしてないし、でももう嫌われたくないし、だから……」
 レインくんは何か勘違いしている。私がなにか、それこそ脅迫とかされてると思ってるんじゃないだろうか。これまでに見たことがないぐらい怖い顔をしているし、目が冷たい。誰かに何か言われて変なことを言い出す馬鹿って思ってる顔? それとも私をもっと嫌いになってる顔?
 嫌われたくない。レインくんに嫌われるのは嫌。今既に私を嫌いでも、もっと嫌いになられたら、もしレインくんに嫌いだと言われてしまったら、私はもう生きていけない。
「お願い、きらいにならないで」
「そんなこと一言も言ってねえだろ」
「だって怒ってるもん……れいんくん、こわい顔してるもん」
「……怒ってないからもう泣くな」
「ご、ごめ、ごめんなさいっ、嫌いになっちゃいや、レインくん、やだ、置いてかないでえ」
「落ち着け。嫌いじゃないし置いてもいかない」
 頬を掴んでいた手が肩に触れ、そして背中に回った。そのまま引き寄せられてぴったりと体がくっつく。緊張で強張る私の背中を撫でるレインくんの手のひらは母上のそれのように優しく、でも母上のものよりもずっと大きくてあたたかだった。
 恐る恐る私もレインくんの背に手を回す。こんなことしていいんだろうか。本当に嫌いじゃないの。今も嫌だって思ってて、でもレインくんは優しいから、私を突き放せないだけなんじゃ。
 そんな私の心を読んだかのようにレインくんは「いい」と言った。いいって何。何がどういいの。私の躊躇いを見透かしたのか、クラスメイトやお客さんたちが親指を立てたり、何かを抱き締めるような動作をしたりしている。そういえばこの人たちいたな……と私は思った。
 でも、皆の反応を見る限り、いいっていうのはそういう「いい」なんだろうか。
「レインくん」
「なんだ」
「……ぎゅってしていい?」
「……いい」
「ありがと。……大好き」
 レインくんをありったけの力で抱き締めて、その肩に顔を埋める。わぁっと歓声と拍手が起こった。なんかいい感じの音楽も流れ出す。この人たちうるさいな……。
 まあ、いいか。レインくんはもう私の背を撫でるのをやめてしまったけど、その大きな手のひらはずっと背中に当てられたままだ。あたたかくて優しい、大好きなレインくんの大好きな手のひら。初めてレインくんに抱きしめてもらった。……えへへ。
 ワイシャツにもエプロンにも鼻水と涙がついちゃったから、私のエプロンを貸してあげよう。猫のアップリケが着いてて可愛いんだよ。今度ウサちゃんのアップリケもつけるね。
 ズビズビ鼻を啜りつつ、嬉しくなって笑っていたのだが、ふと思い出してしまった。
「そうだ、コイン。レインくん、コイン貸して。あのね、私ね、買いたいものがあるの」
「……ちょっと待ってろ」
 ため息をついたレインくんは、私を離すとキッチンスペースに戻っていった。いつからいたのか分からないけど当然のような顔で客席に座っている先輩と目が合ったのでピースをしておく。ニッと笑った先輩は杖を私に向かって一振りするとその場で立ち上がって酒瓶を掲げ、一気飲みし始めた。おお。顔がスッキリした。泣いたせいでメイクが落ちて酷い顔をしてただろうから全部落としてくれたみたいだ。先輩優しい。
 私が顔をぺたぺた触っている間にも先輩の酒瓶一気飲みは佳境へ突入し、周りの人もわぁっと盛り上がっている。先輩は場を沸かす才能があるな。クマ耳だからなんか強そうに見えるし。
 ぼけーっとその余興を見ていると名前を呼ばれた。声で分かる。レインくんだ。
 正面に立ったレインくんが差し出してくれた手を握って立ち上がる。エプロン取っちゃったんだ。可愛かったのにもったいない。もっと見たかったな。私、宣伝係を任せてもらって全然教室にいなかったから、エプロン姿のレインくんのこと全然見れなかった。
 名残惜しさを感じていると手を離され、そしてまた掴まれた。そのまま何かを握り込まされる。この感触、大きさ、薄さ……コインだな。
「貸してくれてありがとう。ちゃんと返すね。じゃあ買ってくる」
「待て、オレも行く」
「えっ来るの」
「お前……何を買うつもりだ」
「ちがうちがう、ちがうよお。っていうか今すっぴんだからあんまり見ないで、恥ずかしい」
「化粧してるかどうかなんて今更気にすることじゃないだろ。それより、言えないならそれは返せ」
「気にするの! 女心分かってないなあレインくんったら! やだやだ! コインは……あの、その、写真を買いたくてですね」
「……この世には人を騙して金品を盗み取ったり借金を背負わせたりする連中がいる。以前お前が引っかかった募集枠の早期満了云々もその一種だ」
「ええっ! ベストカップル賞のこと? あれ嘘だったの⁉︎」
「そうに決まってるだろ。今回は契約書作成者をぶん殴ってどうにか出来たが、それじゃ済まない可能性の方が高いことを忘れるな」
「……ぶん殴ったの?」
「……それで何を買うんだ。そもそも通貨じゃないだろ」
「ぶん殴ったんだ……レインくん、耳貸して。もっと近く来て。違う、もっと。……あのね、レインくんの隠し撮り写真をね、コイン三枚で売ってるクラスがあってね」
「は?」
 そんなこんなで『闇市』をやっていたクラスはレインくんに襲撃され、私はどさくさに紛れてタダでレインくんの写真をたくさんゲットしたのであった。しかもツーショット写真も何枚も撮ってもらったんだよ。羨ましいでしょ。
 ちなみに妹とフィンくんはかなり打ち解けたようで、後で合流して話を聞いたところ、妹はびよんびよん伸びる目玉のついたカチューシャをして「まあ? 他の有象無象に比べればフィンは話が分かる有象無象ではありましたけど? 別に友達とかではないですし?」といつもの調子で言っていた。フィンくんも「三人称が『有象無象』の人に初めて会いました」と言っていたけど同じカチューシャをつけていたから、仲良くなれたってことでいいんじゃないかな。姉上は安心しました。

ふたつおりのひとひら