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 妹。それはこの世で一番素晴らしき生き物。あの子が微笑めば花が咲き、あの子の涙は虹を生み、あの子の愛らしさで世界は救われる。私はそう信じてやまない。
 あの子が私を「姉上」と呼んでくれたその日から、私はずっと──。
 勢いを殺さずに曲がり角を思いっきり曲がって、ブレた体勢を立て直す間もなく更にスピードを出す。レインくんは校長室前の廊下でライオ様と話したと言っていた。きっと今もその辺りにライオ様はいらっしゃるはず。校長室はこのすぐ先だ。
 抑えきれない急ぐ気持ちをスピードとして昇華しながらもうひとつ曲がり角を曲がると、予想通りそこにはライオ様がいらっしゃった。窓枠に頬杖をつき、そこから外の景色を眺めていたようだ。気配か何かで私の到着に気付いたのか、視線がこちらに寄越される。
「おお、久し」
「ライオ様ッ……あの子に、あの子になにかあったんですか⁉︎」
「落ち着け、何もない。いや、何もなくはないが……まあ今想像しているような悪いことじゃないのは確かだ」
 箒に乗ったまま詰め寄った私の肩に、ライオ様の手のひらが乗せられる。そのままやんわりと後ろに押され、私たちの間には距離ができた。……そうだ、いくら昔から可愛がってもらっている方とはいえ、ライオ様には奥様もお子様もいらっしゃる。こんなどこに人目があるかも分からない場所で距離を詰めるなんて、勘違いしてくださいと言っているようなものだった。
「申し訳ございません、その、焦りで周りが見えておりませんでした」
「いや、オレの伝え方も悪かったんだろう。あまり気にするな」
「ありがとうございます。それで、妹になにか……?」
 箒から飛び降りて、しかし仕舞うことはせずに腕に抱くようにしながらライオ様を見上げれば、彼はふっと笑って肩を竦めて見せた。なんとなく気まずくなって視線を逸らす。今更先程の自分の焦りようを客観視してしまったのだ。そんな私を気にせずにライオ様は杖を一振りした。人避けと防音の魔法。
「なんてことはない。今よりも彼女の警護のレベルをあげたいという話だ」
「それはありがたい話ですが、なぜ急にそんな話に?」
「急じゃないさ。オーターが後輩に頼んで調べさせた情報が先日会議にかけられてな」
「それは、ドミナ・ブローライブの……?」
「そうだ。どこまで知っている?」
「ヴァルキス魔学校の中等部に通っているということだけ」
「まあ、それが今回得られた情報の全貌でもある。知っての通り、ブローライブ家に関するものは全て燃え尽きてしまった」
 なんてことはないとばかりに、いつも通りの少しの大袈裟な仕草を添えてそう言ってみせたライオ様に私は曖昧に笑うことしか出来なかった。ブローライブ家に関するものは全て燃え尽きた……そういうことに、なっている。
 ライオ様もそれを知っているからこそ、敢えて強調したのだろう。あの夜、ブローライブ家に関するものは全て燃え尽きていなければならなかった。
 再び目を逸らした私に何を言うでもなく、ライオ様は窓枠にもたれかかってどこか遠くを見る。誰かを思い出すような目だった。
「先生は真面目な人だった。剣と魔法、どんな時でもそのどちらも疎かにすることなく、ただただ上を目指す……だけど茶目っ気もあってな。当時の神覚者の中ではいたずら小娘と呼ばれていたんだ。知っていたか?」
「……いえ」
「いたずら小娘といたずら爆弾。母娘だな」
「そのようです」
 ふっと笑ったライオ様に、思わず私も笑ってしまう。私の知らない母上のことを知るとどうしてだがむず痒い気持ちになる。この気持ちは懐かしさに近いような気もするが、ただの懐かしさでもないのだろう。
 母上は神覚者だった。今はもう魔法警備隊に吸収合併されてしまって存在しない組織だが、魔法騎士団という組織を率いていたらしい。今でも魔法局には母上のことを知る人々が沢山いて、その人たちはみな口を揃えて「強い人だった」という。「選ばれるべくして選ばれた人だ」とも。
 あの頃の私はまだ幼く今となってはあまり母上のことは覚えていないが、それでも剣を振るうその横顔を不思議とよく思い出す。父上が言うには私はよく母上の剣の修行を見ていたらしいから、記憶の奥底にでもその時の景色が染み付いているのだろう。自発的に思い出すことが出来ずとも、私を形成する記憶の一部にでも母上がいるのは嬉しいことだ。
 次に思い出すのは優しい笑顔と私を抱き上げる大きくて暖かい手のひら。剣を握るための硬い手は、一度だって私を傷付けたことはなかった。最期のその時まで、ずっと。
 ライオ様の視線を追うようにして窓の外を見る。母上もこのイーストン魔法学校で学生時代を過ごしたのだと聞く。その学生生活の中でこんな風にここに立って窓の外を見たりしたことはあったのだろうか。試験の結果で一喜一憂したり、友達とゲームをして遊んだり、家族からの手紙を心待ちにしたり、恋をしたり、したのだろうか。
 私は母上のことをよく覚えていない。顔は写真を見れば思い出せる。手のひらの暖かさはたまに夢に見る。剣筋も忘れたことはない。好きな食べ物やお気に入りの場所は知っている。
 でも声は忘れてしまった。杖さばきも記憶にない。どんな学生時代を過ごしたのかも伝聞で聞くばかり。私は、母上のことをよく知らない。
 母上は十一年前に死んだ。何者かに襲撃にあった人々を救うために単身で危険に飛び込み、己の命を顧みずに敵を退け、でも誰も守れずに死んだ。未だに英雄と呼ばれ、素晴らしい人として語り継がれ、だけど「誰も守れなかった」と──そう言われている。
 心臓の当たりが重くなる。母上のことを思い出すといつもそうだ。苦しいとか辛いとか悲しいとか、果てには怒りのような感情まで込み上げてくるのだ。母上はちゃんと……。
「……母上は、私に『もっと一緒にいたかった』と仰りました。それが最期の言葉です。私はその時から神覚者という存在があまり好きではありません」
 母上が泣くのを初めて見た。いつも玄関先で待ち構えてはおかえりなさいの言葉よりも早く抱きつこうとする私を「血がついているからちょっと待ってね」となだめてシャワーに直行していた母上が、あの日は私に血がつくのを厭わずに私の手を握ったのだ。残った片腕で私を抱き締め、頬擦りをし、そして泣きながら「もっと一緒にいたかった」と。
 それを「誰も守れなかった」だなんて一言で結論づけられて、その癖して「英雄」などと持て囃されて。母上は、ちゃんと。
 俯いた視界にスッとハンカチが差し出された。顔を上げずに一言お礼だけ言ってそれを受けとり目頭に押し当て、もう片方の手で箒の柄を強く抱く。そうすると少しだけ気持ちが落ち着くのだ。ライオ様はそんな私を敢えて無視して喋りだしてくださった。
「警護レベルを上げることに関してはお父上の許可も既にいただいている。これまで以上に気を配り、決して本人にはバレないようにすると誓おう」
「……ありがとうございます。お願いします」
「それから、お前のことも」
「私?」
 思わず顔を上げるとライオ様はにっと笑って「ああ」と頷いた。……その笑顔が、母上にちょっと似てる。
「先生に『娘を頼む』と言われたんだ」
「……それ、母上が家でライオ様に修行をつけてた時に魔法局から呼び出されると言ってたやつでしょ」
「よく覚えてるな。でもまあ、頼まれたことに変わりはないだろ?」
「もう時効だよ」
「時効なんてないさ」
 かっこつけのライオ様はそう言って笑い、ストールをなびかせた。こういうところが人気者になる所以なんだろうなあ。
「……神覚者という存在はあまり好きではないと言いましたが、ライオ様のことは結構好きです。皆様には感謝もしています」
 風に吹かれてかっこつけているライオ様を見ていたら、笑いと一緒なそんな言葉が勝手にこぼれてきた。借りたハンカチを握り締め、窓から吹き込んでくる冷たい冬の風に巻き上げられる前髪をそのままに、少し驚いた顔をしているライオ様の目を見てちょっとだけ笑う。
「レインくんが神覚者になるというのも、自分では分からないぐらいの心の奥底では反対しているんだと思います。でも、私はレインくんを神覚者にします」
 約二年前、私が編入試験に受かったばかりのあの日。レインくんは言ったのだ。神覚者になって世界の仕組みを変える、と。
 その言葉に、その目に嘘はなかった。だから私はレインくんを神覚者にする。レインくんを信じる。レインくんが仕組みを変えてくれたあとの世界で、どうか妹が、大切なあの子が胸を張って生きていけることを祈って。
 それに何より、好きな人がやりたいと思って頑張っていることは応援してあげたいもの。
「ライオ様、私からも頼みごとをさせてください。どうか、どうか妹を……あの子を守ってあげてください。傷付きやすい子です。もう一生分傷付いて苦しんだ子なんです。これ以上傷付かなくていい。泣かなくていい。──レインくんは神覚者になります。きっと世界の仕組みを変えてくれる。その世界があの子にとって少しでも生きやすい世界であるよう、私は願っています」
 母上もきっと、そう願ってくれているはずだ。
「母上の『娘』を守ってください」
「……心得た。必ず彼女を守ろう」
「ありがとう、ライオ様」
 涙ながらに笑った私を見つめ、ライオ様は「ますます先生に似てきたな」とどこか嬉しそうに呟いた。

ふたつおりのひとひら