28
──花の匂いが強い。軽く吸い込んだだけでくらくらするほどだった。
太陽と距離が近いのか嫌に眩しくて何度か瞬きをすると、視界を遮るようにしてひらひらと蝶が飛んでいることに気付く。仲良さげに並んで飛ぶ番の蝶は見たことのない模様の羽をしていた。なんだろう、この蝶。
……っていうか、ここはどこだろう。
辺り一面花畑で、私はそこに座り込んでいる。この花も見たことがない。え、本当にここどこ。っていうか私なんでこんなところにいるの。急いでたんだけど……あれ、なんで急いでたんだっけ?
「試験だからでしょ?」
「あ、そうそう。最終試験だからだ」
「もう、そんなに大切なこと忘れちゃダメじゃない」
「はい、ごめんなさい。でもさー、母上も結婚記念日忘れて父上に怒られ、アイエエエ! 母上ェ⁉︎ 母上ナンデェ⁉︎」
飛び上がる私を他所に、隣に座った母上はのほほんと笑って見せた。「うるさい子ね」だって。私の声量は母上譲りだよお。
慌てて立ち上がって辺りを見渡す。花、花、花。あと太陽と母上。それしか見えない。どこなんだ、ここは……も、もしかして!
「私死んじゃったのお」
「死んでないよ」
「えーんえーん、まだ死にたくないよお。レインくんのこと神覚者にしてあげられてないのにい。うええん」
「こらっ、死んでないって言ってるでしょう。母上の話をちゃんと聞きなさい」
「あーん母上が怒ったあ」
「泣き虫な子……誰に似たのかしら」
それも多分母上だよお。
困った顔して笑った母上が腕を広げてくれたので、大人しくその腕の中に収まった。温かくて心地いい。そうだ。母上の腕の中はこんな感じだった。
でもなんか違う気がする。何が違うんだろう。母上が違うっていうよりかは、また別の何かが……あ。
「母上の方が柔らかくて、レインくんの方が安定感がある……」
「……もしかして母上と好きな男の子とを比べてるの?」
「比べてはない。母上のハグのいいところとレインくんのハグのいいところ、それぞれ事実を述べただけ」
「それを比べてるって言うのよ」
もう、とため息をついた母上によって弾かれた額を抑えた。い、痛い。デコピンひとつでこの威力。さすが神覚者だ。……神覚者と言えば。
「母上、ここはどこ? 私はどうしてここにいるの」
「うん?」
「このあと神覚者選抜最終試験があってね、私それに出るんだ。好きな人が神覚者になりたがってるから、試験でその手助けをしてあげたいの」
「うん、知ってるよ」
「知ってるの? どうして?」
私の疑問に「ここからいつもあなたたちを見てるから」と柔らかく笑って答えた母上を見ていると、十年以上も前の記憶を揺さぶられるようだった。記憶の中の母上は、いつもこうして優しい目で私を見つめている。その頬にある私とほとんど似た形の五芒星の痣も、目の前のこの人が母上に違いないのだと証明している。
「ここから……」
「そう。ここはね、うーん、なんて言えばいいんだろう。死後の世界……みたいなものかな。私はここでバイトをしてて」
「バイト⁉︎」
「って言ってもあれよ。犯罪者を裁く感じのバイトよ」
「犯罪者を裁く感じのバイト⁉︎」
なんだそれは。死後の世界ってそんな感じなの? そういうバイトができる感じ? っていうかバイトにそういうこと任せちゃうんだ。怖すぎるよ。
人手不足なのかな……といらぬ心配をしている間にも、母上はひとつ頷いて「急いだ方が良さそうね」と呟いた。その言葉にすっと背筋が伸びる。まさか……!
「もしかしてもうレインくんが神覚者になっちゃった……⁉︎」
「ううん、それはまだ。そうじゃなくて、このままだとおばあ様の手でキメラにされちゃうわ」
「おばあ様の手でキメラにされちゃう⁉︎」
「うん。耳をすましてみて」
母上に促され、大人しく目を瞑り耳に手を当てる。うーん……確かになにか聞こえるような……えー、なになに。『お待ちくださいメリアドール様! それではこの子の腕がドラゴンの翼になってしまいます!』『ええい、離しなさい! 仕方ないでしょう起きないんだから! ショック療法ですよ!』『やめてください! おい起きろ! 早く起きろ! 出なければ腕がドラゴンの翼になるぞ! 触れるもの皆全て傷付けることになるぞ!』……ふーむ。
「母上……名残惜しいですが、私は早急に起きなければならないようです」
「私は腕がドラゴンの翼になるのもいいと思うけどな。強そうじゃない?」
「強すぎるよ」
「そうかな」
「それにそんな腕じゃ好きな人のことを抱き締められないでしょ」
「それはたしかに困るわね」
顎に手を当てて真剣な顔で頷いた母上は、それ以上はもう何も言わずに私を抱き締めた。……うん。こうして大好きな人を抱き締められなくなるのは嫌だ。
「父上をあまり困らせちゃダメよ。あの人、心配性だからね。それから姉妹仲良くすること」
「うん、分かってる」
「あと……たまにでいいから、母上のことも思い出してね」
「忘れたことないよ。母上もちゃんと見てて、私のこと」
「見てるわ。ずーっと見てる。母上はずーっとずーっと、あなたを愛してる。どうかそれを忘れないで」
「……うん。忘れない。私も愛してる」
+
「ドラゴンはダメ、ドラゴンはダメ、ドラゴンはダメッ!」
バッと跳ね起きると、ベッドの向こう側でひいおばあ様に絞め技をかけられている父上と、カウントをしている先輩と、それからメガホン片手に父上を応援しているマックスくんと目が合った。ええ……?
「なにやってんの……」
マジで何やってんの。揃いも揃って目を見開いて似たような表情をしている四人を見てそう呟けば、全身がズキズキ痛んだ。開いた口からだばーっと血が出てくる。うーん、これは重傷。頭軽いなって思ったら髪も肩につかないぐらいまで短くなってるし……。
慌てたように駆け寄ってきた父上とひいおばあ様に「起きたのか、でもまだ早い」「傷も塞がっていないのに起き上がらないでください」などと口々に言われた上に色々と魔法をかけられる。そのまま肩を押してベッドに寝かされそうになったがそこは抵抗した。何せ私には行かなければならない場所とやらなければならないことがあるのだ。
「今何時? もう試験始まっちゃった?」
「……お前まさか試験に出る気か?」
「出るよ。ひいおばあ様、傷どうですか。どれぐらい持つ?」
「タイムリミットは三時間ほどですね。そのあとは、かなり無理矢理治療しましたから、恐らく一週間ほど寝込むことになります」
「了解です。じゃあ念には念を入れて一時間で終わらせます。なんかねー、調子いい感じする。今なら結構いいとこ行けそう」
「死にかけて魔力が増加したり能力が覚醒したりすることは稀によくありますから、それでしょうね」
「稀なのかよくあるのかどっち?」
首を傾げると、まただばーっと口から血が出た。思ったより重傷だこれ。
私が試験に出ると言ってからフリーズしてしまっていた父は、この辺りでようやくこちらに戻ってきたようで私の口にタオルを押し当てながら「認めないぞ!」と叫んだ。そうは言われましても……。
「お前は絶対に無茶をする。分かってるのか? 杖を折られてるんだ、お前は! そもそもどうして襲われたのかも分かってないだろ。それはつまり今後襲われる可能性を完全には排除できないということで」
「杖折れちゃったんだ……でも襲われた理由はなんとなく分かるよ。次はもう来ないんじゃないかな」
「なら早く言え! 犯人は? 目的は? 何を言われた? いやそもそもなにをされた?」
「犯人は……」
ちらりと先輩とマックスくんの方を見ると、二人は揃ってサッと耳に手を当ててくれた。うん、ありがとう。
「犯人はドミナ・ブローライブ。目的は……顔を見に来た、とか?」
「ふざけてるのか?」
「ふざけてないよ。えーっと、次なんだっけ。あ、そうだ。『姉上』って呼ばれた。あと、はじめまして、さようならって」
「それは、お前……」
父はそれっきり絶句し、ひいおばあ様は何かを考えるように顎に手を当てて斜め上を見ていた。
「殺意は感じなかった。殺そうとは思ってなかったんじゃないかな。現に今も生きてるし……本当に、顔を見に来ただけなんだと思うよ。『姉上』だからね」
まあ相手に殺意がなくとも私は瀕死になり、臨死体験のようなものまでしてしまったわけだが。
さっきひいおばあ様に言った通り、なんとなく調子がいいし魔力が上がったような気もするが、それでも次もドミナに勝つことは出来ないだろう。それだけの実力差があった。悔しいがそれが事実だ。
グッと伸びをして布団を退ける。身動ぎする度に体の内側が引き攣るように痛むが、これはもう仕方がない。命があるだけ御の字だ。その上三時間も猶予を貰えてしまったんだから、感謝の言葉以外に言うことはない。
父上は動き出した私をもう止めようとはしなかった。いつも通りに隈の刻まれた不健康そうな青白い顔で私を見ている。その目は仕方ないものを見るような色をしていた。
私が準備を始めようと思った瞬間に制服とローブを抱えて近寄ってきてくれた先輩とマックスくんにお礼を言う。
「色々ありがとう。見つけてくれたのも二人? あ、先輩、ネクタイ……」
「気にすんな。この通り、ムカつくことにネクタイは不思議と無傷だったから。それからお前を見つけたのはあたし。でも感謝はあたしたちにしろよ。ウォールバーグ様に頼んで、試験辞退を遅刻に変えてやったのはあたしたちなんだからな」
「ほんとに? えー、ありがとう! マックスくん、このお礼は今度必ず! 具体的には魔法史の補講プリント分けてあげるね!」
「レインがすごく心配してたから、それはレインに分けてあげてくれ」
「れっ、レインくんが心配⁉︎ 私を⁉︎ そ、そんな、レインくんってば優しゴフッ」
「あああ馬鹿お前馬鹿、この馬鹿娘がッ! メリアドール様! あなたからも何か言ってやってください!」
「既にかなり出血しているので、これ以上深手を負うと死にます。やられる前にやりなさい。以前あげた『アレ』はまだ持っていますね? 追い詰められたら躊躇わず使うこと。最終試験で死人が出てもそれは事故です」
「うす。使います」
「そういうことじゃない! いいか、無茶はするな。危険に飛び込むな。熱くなりすぎるな。危ないと思ったらすぐに辞退しろ」
「父上うるさーい。分かってるよ、それぐらい。父上こそ、あの子のことちゃんと守ってよ? ……あと、オーター様かライオ様に伝えて。痣の形がすごく似てた」
「……ああ、伝えるし守る。それからこれを」
腕に抱えた制服やローブの上に、一本の杖とネクタイが置かれた。これは、母上の。
「先程も伝えたがお前の杖は折られていた。今から新しい杖を買いに行くには時間が足りん。今日はそれをお前の杖として使え」
「いいの?」
「いい。それにこれまでも使ってただろ。今更だ」
「それは箒としてとか、大鎌としてとかでしょ。杖としては使ってない」
「同じことだ。それに母上もお前に使って欲しいと思っているはずだ。そのネクタイもそういう理由でお前にやる。大事に使えよ」
「……うん」
母上の杖とネクタイ。前者はこれまでもこっそり箒として、もしくは大鎌として使っていた。私が箒でとんでもないスピードを出せたり、箒を大鎌に自由自在に変えられたり、なんなら大鎌で飛べたりしていたのはそういう理由だ。母上の固有魔法は『変化』の性質を強く持っていて、どうしてだかその性質が母上の杖にも染み付いてしまっていた。私は自分の固有魔法も使いつつ、そんな母上の杖を使わせてもらっていたということ。
ネクタイは杖とは違って見る限り普通のネクタイだ。でもどうしてだかそれ以上の意味があるものに思える。その理由もとっくに分かっていた。
「父上、私……」
「何も言うな。……どうせ止めても無駄なんだろ?」
「……うん」
「ならもういい。ちゃんと帰ってきてくれるなら、オレから言うことは何もないよ」
「帰ってくるよ。母上に父上のことあまり困らせちゃダメって言われたし」
「……そうか」
そう言って柔らかく笑った父上の瞳は優しい。それはきっと、母上から父上へ、もしくは父上から母上へと、一緒にいる間に移った笑顔なのだろう。そう思うと私もついつい笑ってしまった。