23

 目の前では私たちの膝丈にも及ばないほどの小規模な火が揺れており、時折ぱちぱちと爆ぜるような音がする。遠くの方から継続的に爆発音やユニコーンの叫び声、もしくは先輩のけたたましい笑い声も聞こえてきているが、それはまるで幕を一枚隔てた先で鳴っている音のように非現実的なものに感じられた。
 それにしても暑い。
 森に囲まれている上に夜だとはいえ今は夏。焚き火なんてしているせいで余計に暑くなってきて、じんわりと汗ばむ首筋を手の甲で拭うと、すかさず横からきっちりと折り畳まれた真っ白なハンカチが差し出された。明らかに未使用なそれに一瞬私は躊躇ったのだが、次の瞬間には手を取られてハンカチを握り込まされていた。手際いいな。
「ありがと」
「いえ。当然のことをしたまでです」
「……一応言っとくと、いつもはハンカチ持ち歩いてるんだよ」
「それはちゃんと分かっていますよ。姉上、先程カーディガンを脱がれてらっしゃったから、そこにハンカチを入れたままなんじゃないかと思って多めに持っていたんです」
「よく見てるね……?」
「姉上を支えることもまた妹として当然のことですから」
 ふふんと胸を張って見せた妹の横顔は、焚き火のオレンジ色の光に照らされて淡く色付いて見えた。いつもよりもその表情がどこかあどけなく見えるのは、こうして二人きりで話すことはおろか見つめ合うことすら久々で、私が少し緊張しているせいなのだろうか。それとも妹も何かを思ってくれているからか。
 先日の学校への不審者侵入事件から私と妹の間にはなんとも言えないぎこちない空気が漂い続けていたが、こうして先輩の実家に来てからというものの、少しはマシになった気がする。正しく先輩のおかげと言っていいだろう。家にいたままではこうはいかなかったはずだ。
 もちろん私も夏休みに入ってから何度か話し合いの場を設けようとはしたのだが、毎年のごとく病院での父の手伝いや雑用で忙しく、妹も妹でお友達と出掛けたり剣の修行をしたりと忙しくしていたようで、なかなか時間が取れなかった。姉としては妹にとって恐らく人生初であろう友達との様々な体験を邪魔したくなくてえ。
 とはいえ多少強引にいけば時間を取れなくもなかったのだが、それこそ緊張していたのもあるし、もし話し合いが上手くいかなかったらと思うと一歩踏み出せなかったのもある。たとえどんな事情があっても血が繋がってなくてもこの子は私の大切な妹。失うのはどうしたって怖い。
 借りたハンカチでもう一度汗を拭ってから、そのハンカチを手の中でぎゅっと握った。今だって怖いものは怖いし緊張してもいるが、先輩たちにわざわざ時間を作ってもらった以上、今日決着をつけなければいけない。それにここでまた逃げたって今後も逃げ続けなければいけなくなるだけだ。そろそろ現実逃避も終わりにしなければ。
 私が決意を固めたことを察したのか、妹はわずかに身動ぎすると視線を私から焚き火へと動かした。そのままほんの少し俯いたっきりこちらを見ようともしない。話してほしくない、ということだろうか。見つめた横顔は少し強ばっているように感じた。
 でも、この子がどれだけ聞きたくないと思っていたって話さないわけにはいかない。緩やかで幸せなまま、残酷な事実から目を逸らしていられる時間はいつの間にか終わってしまっていた。
 これは私だけの秘密ではなく、私たちの秘密であった。そして秘密である以上はいつかは暴かれなければならないことだった。最初からずっとそう決まっていたのだ。
 じわじわと体を蝕むような暑さに思わず顔を顰めながら、頬に落ちた髪を耳に掛けた。私も視線を目の前の炎へと移す。柔らかいのに力強いオレンジ色。夏特有の生ぬるい風に吹かれてはちろちろと揺れていた。
「……最初に言っておきたいんだけど、私はあなたを大切な妹だと思ってるし、この先たとえ何があってもそう思い続けるよ」
「…………私もあなたのことを大切な姉上だと思っています。……それに、この先もそう思いたいです」
「そっか。嬉しいな……うん、嬉しい」
 ぽつりと呟いた飾らない言葉に妹は何も言わなかったが、躊躇いがちに伸ばされたその手が私のTシャツの裾を握った。
「姉上が話そうとしていること、私は聞きたくないです」
「だろうねえ……でも話すよ」
「……じゃあ私も聞きます」
「ありがとう。まず私の話の前に、改めて聞いてもいいかな。学校に不審者が侵入してきた日、あの不審者に何を言われたの。何を言われて神覚者を目指そうなんて思ったの?」
 未だに続く先輩たちの騒ぎ声の中でも、私の声も妹の声も不思議とよく聞こえた。声を張らなくてもその息遣いまで聞こえてくるほどだった。
 妹は私のTシャツの裾を握ったまま、ずっと焚き火を見つめ続けている。炎のオレンジ色に照らされても色をなくして見えるその横顔は、あの不審者侵入事件が起きた日に会った、既に死んだはずの女性によく似ている。いいや、似ていて当たり前だ。似ていない方がおかしい。──何せあの女性こそが、この子の実の母なのだから。
 しばらくの沈黙のあとにこれまでよりも大きな声で先輩が爆笑するのが聞こえてきて、それから少しも間を置かずに妹は口を開いた。
「私は姉上とも父上とも母上とも血が繋がっていないのだと言われました。元々違和感はあっただろうと……」
「……違和感あったの?」
「ええ、少し。私が母上と一緒に写ってる写真が一枚もなかったですし、幼い頃の写真も何にも……それに、記憶がないのはやはりおかしいのではないかとずっと思っていました。母上の死に強いショックを受けたからと姉上も父上も説明していましたけど、本当は違うのではないかと、ずっと」
「……他にも要因はあるかもしれないけど、決して違くはないと思う。その辺りのことは私たちもきちんとは分かってないけど、あなたが母上の死に強いショックを受けていたのは事実だよ」
 四歳の子供にはあまりにもショッキングな現実であったことも事実だ。私ですら未だにトラウマのようになっているのに、それ以上の体験をしたこの子が心に傷を負わないはずがない。そしてその傷を忘れるために全てを忘れてしまうこともまた、心を守るための体の反応としておかしくないものだ。
 そんなことを説明すると、妹は「そうなんですね」とどこか他人事のように呟いて「でも」と続けた。
「あの男の話を聞いて、『そうなんだ』と改めて納得してしまったんです。姉上と父上が私にやけに過保護だったのも、魔法局の人間が頻繁に我が家に出入りしているのも、私が誰とも血が繋がっていなくて、私の失った記憶に問題があるのであれば全て解決すると思いました……姉上、やはり私はあなたたちと血が繋がってはいないんですよね」
「うん。そうだよ」
 私の言葉に「やっぱり……」と返した妹は、軽く俯きながらも表情を柔らげた。真実を知れたことを安堵しているように見える。……こんな顔をさせてしまうぐらいなら、もっと早く話してあげるべきだったんだろうな。
「私と血の繋がった人間はもう死んでいるのですか」
「お母上は十二年前の火事で亡くなった。お父上は……ごめんね、誰かも分かってないんだ」
「では、父親がイノセント・ゼロである可能性もあるのでしょうか。例の不審者の口ぶりからして、私自身はその可能性が最も高いと思ったのですが」
「それに関しても『確実にそうだ』とは言えない。でもあなたの言う通り、その可能性が高いんじゃないかとは私たちも考えている」
「そうと分かっていながら魔法局が私を今日まで野放しにしている理由は?」
「血縁を示す証拠がない。それに今の時点であなたはなんの罪も犯していないし、なんならイノセント・ゼロの襲撃で実の母を喪って自らも殺されかけた被害者だ。捕まえる理由こそないでしょ」
 まあ、この十二年間で一度も魔法局からの「こっちで見ようか?」という声がなかったかと言えばそれは嘘になるけど……。
 裾を掴んでいた妹の手は僅かに移動し、私の手のひらの上に置かれた。夏だと言うのにヒヤリと冷たい掌。私もきっと同じだろう。緊張しているのだ。
 先輩たちはいつまで私たちを二人きりにしてくれるつもりなのだろうか。顔を上げて先程からずっと騒がしい方を見てはみたが、三人はもちろんユニコーン一匹すら視界に入らなかった。広がるのは広々とした静かな森だけだ。
 まだ騒ぎは続いていて今すぐにこちらに戻ってくるとも思えないが、いつ戻ってくるかも分からない以上はこうゆっくりもしていられない。恐らくほとんどの事情を知っているであろう先輩はともかく、アベルくんやアビスくんに聞かれるのはちょっとね。
 妹も私と同じように話を進める気はあるようで、しばらく押し黙っていたもののふと髪をかきあげて「それで」と声を上げた。
「神覚者を目指そうと思った理由ですが、神覚者になれば何かを知れるのではないかと思ったからです。でももうやめます」
「え、やめちゃうの? 本気で目指してるなら、どんな理由だったとしても応援しようと思ってたのに」
「姉上が応援してくださるのは心強いですが、もういいんです。あの男の言葉が事実だと分かりましたし、何より私には『誰かのために』とかなんとか思ってやらなければならないようなことは向いていません。それならマッシュやシスコンが神覚者になった方がまだマシでしょう」
 はあとため息をついた妹は、そう言いながらも胡乱気に私を睨んできた。え、なに。
「第一、姉上はあのシスコンを応援していると聞きましたけど? 週に何回も二人で会っては修行をつけてやってるそうですね。浮気ですか」
「いやいや、そんなんじゃないから! ランスくんは見どころがあるなーって思ってるだけ! 後輩の面倒見てあげるのも先輩として当然のことっていうか」
「贔屓って言うんですよ、そういうの。レイン・エイムズといい、あのシスコンといい、姉上はああいう癪に障る生意気な男が好きなのですか? 見る目がないですね」
「すごい言われてるな……私、自分には見る目あると思うんだけど……」
 レインくんはかっこよくて優しくて私のことを大事にしてくれて、更には有言実行を体現しているような生き様を貫くまっすぐで素敵な人だし、ランスくんだって大切な妹さんのためにと頑張っている可愛い後輩だ。私も妹を愛しているからこそ、その覚悟にすごく共感するんだよ。
 言い訳と捉えられてもおかしくないが必死でそう言い募っていると、相変わらずじっとりとした視線で私を見つめる妹は、再び重々しいため息を吐くと「まあいいです」と鼻を鳴らした。そのままゆっくりと手を握られる。
「連中に見どころがあるというのは、本当に癪ですけど……認めます」
「……ね、今も『友だちなんて枷になるだけ』って思ってる?」
「……いえ。そうは思えなくなりました。本当にムカつきます。……そんな風に思うようになったことが嫌じゃない自分にも、ムカつく」
 むすっと顔を顰めて焚き火を睨む妹は本当にムカついているのかもしれないが、確かに本気で嫌だと思っているわけではないようだった。その目はあたたかい。
 そんな妹を見ていると少しだけ笑えた。悲しいし寂しいけど、この子もこうやって大切なものを見つけて生きていくのだ。それは何より私の望んできたことだった。
 握られた手のひらを握り返して、その肩に頭を預ける。
「学校、楽しい?」
「たの……しい、です。……友人も、出来ました」
「そっかそっかあ。なら良かった。姉上は安心しました。この先悲しいことや辛いことがあって、その時私たち家族があなたのそばにいてあげられないその時も、きっとあなたのお友だちはあなたのそばにいてくれる。大事にしなよ」
「……はい。あの、姉上」
「なあに?」
「姉上は、私を愛していますか」
 急に改まるから何を聞くかと思えば! 今度こそ私は声を上げて笑ってしまった。妹はそわそわと落ち着きなく私を見て、私の言葉を待っている。
「──愛してるよ。あなたが私を『姉上』と呼んでくれたその日から、私はずっとあなたを愛してる。これまでも、この先も、ずっと。血が繋がっていようがいまいが関係なく、ずーっと愛し続けるよ」
「……私もあなたを愛しています、姉上」
 少しの沈黙のあとに「あなたの妹になれてよかった」と呟いた声はすっかり震えていて、「うん」と短く呟いた私の視界に映る焚き火もまたぼんやりと滲んでいた。

ふたつおりのひとひら