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は、は、と短く息を吐く。額を伝い落ちる汗と血が目に入って視界が霞んだ。燃えるように熱い体には、倒れ込んだ床の冷たさが酷く心地良かった。
「あなたがそうしているのを見ると、騎士様を思い出すわね。あの人もそうやって倒れて、血を吐いていた」
夢見心地な声が正面から聞こえてくるが、顔を上げることも、何かを言い返すこともできない。口を開く度、息をする度に喉を逆流した血が吐き出されていく。なんとか視線だけ持ち上げた先では、斬り落とされた私の腕と大鎌が無様に転がっていた。ああ、クソ。
──母上を『騎士様』と呼ぶこの女は、今日に限ってはその本性を表すのが早かった。私を地下に引きずり込んですぐにあれやこれやと母上の話を聞かせてきたのだ。やれ騎士様は横顔まで凛々しかった、やれ騎士様はどんな時も騎士であられた、やれ騎士様は……。聞いているこっちが頭が痛くなってくるような話ばかり。
そうして気が済むまで母上のことを語り、こてんと首を傾げてにんまりと笑ったのだ。「でも、騎士様は最期まで私を選んではくれなかったわ」と言って。
それを聞いた時、喉の途中でつっかえていた何かがすとんと胃の底まで落ちるような感覚があった。私は多分、その一言を聞いて理解出来たのだ。この女が何故そこまで『騎士様』に執着するのかも、この女が何故ここにいるのかも。
要はこの女は、母上に選ばれたかっただけなのである。
たったそれだけの動機で人を殺し、今尚私の命を執拗に狙う。到底理解出来ることではないが、愛と狂気が紙一重だということは分からなくもない。戦闘中にも何度も「騎士様は」と母上の話をするストーカーを見てそう思った。
互いの戦力は拮抗していた。以前戦った時よりも奴の力もスピードも格段に増していたが、それは私の大鎌と固有魔法に勝るものではない。そして私は奴の毒への耐性がまだ完全なものではなく、レイピアの剣先が首筋に掠ったことで確実に毒を取り込んでしまった。それらの要素が組み合わさった結果の五分五分の戦力。どちらが勝っても負けてもおかしくない戦い。
だがその均衡は簡単に崩れた。簡単に言ってしまえば私のミスと油断だ。奴はより強い毒を隠し持っていた。それも即効性の、その癖してじわじわと体を蝕み死に追いやるタチの悪い毒。
毒が体に回ってすぐに調子を崩した私は防御する間もなく利き腕ごと大鎌を持っていかれ、そのままこうして床に倒れている。言わば絶望的な状況だった。
ストーカーはカツカツと音を鳴らして足早に歩き回りながら、興奮を隠しきれない声音で「どう、苦しい?」と聞いてきた。答えたくもないし答えられそうにもないので無視する。だけどストーカーはぶつぶつと独り言を話し続けた。つくづく変な奴だ。
「その毒はね、人間には初めて使った毒なのよ。あなたが一人目。そして最後。本当なら騎士様にその毒を飲ませたかった。私の毒で騎士様を殺したかった! なのに、なのに騎士様は……」
いや知るか、という話である。
息を吐くことでなんとか傷みを堪えながら、よろよろと体を起こす。残った左腕で大鎌へと手を伸ばしたが、足癖の悪いストーカーに右腕ごと蹴っ飛ばされてしまった。人の手を蹴るな。そもそも人の腕を斬り落とすな。
そんなんだから母上に見向きもされなかったんじゃないかと言ってやりたくなったが、開いた口から出たのは呻き声と喘ぐような呼吸だけだった。息をするだけで視界がチカチカ光り、頭が痛む。自分が座っているのか立っているのかも分からないふわふわとした感覚。完全に貧血だ。
腕の傷口からと、鼻血に吐血にその他諸々の大小の傷からの出血。どう考えたって血を失いすぎている。それなりの時間戦闘を続けていたこともあって、魔力の消費も馬鹿にはならない。止血と解毒の両方を魔法で担う余裕は今の私にはもうなかった。それどころか、その片方も恐らく満足には出来ないだろうという予感がある。
なら、どうするべきか。今の失血状況からみて、このまま止血をしなければあと数分で意識を失いそのまま死ぬ。だからといって解毒をしなければ毒で体が完全にダメになって、それもまた死ぬ。つまり、どちらを選んでも死ぬ。
──だったら、と思った。だったら、どうせ死ぬんなら、止血も解毒も捨ててこのストーカーを道連れにするべきなんじゃないのか。成すべきことを成さねばならない。成すべきことを成さなければ死ねない。せめて、成すべきことを成して死にたい。
ぼんやりと俯くと、鼻と口から勝手に溢れる血が床と膝をどんどん汚していく。血を失いすぎたせいで足や手の感覚がなくなっていくのが分かる。もう私には時間がない。あと少しで本当に死んでしまう。──だったら、やっぱり。
貧血でガタガタ震える手を首から掛けた絹の小袋の中に突っ込む。そのまま剣を取り出せば、じっと私を見下ろしていたストーカーは今にも踊り出しそうな声で「さすが、あの人の娘ね」と言った。勝手に言ってろ、と胸中で毒づいてよたよた立ち上がる。
固有魔法で身体能力を瞬間的に強化して、ストーカーの首を跳ねる。一撃なら多分いけるだろう。次はもう無理だ。魔力がもう心許ない。今更な話だけど、出来るだけ魔力は残して、それでせめて最後にレインくんに──。
痛む頭の片隅でそんなことを考えながら、何が面白いのか声を上げて笑うストーカーを見る。
あの子たちによく似た容姿。でもこれはこの女の本当の姿ではない。母上に選ばれなかった姿をも捨てた女。この女は、何を考えてそんなことをしたんだろう。母上の友人だったという双子の母の姿形を真似れば、母上が自分を選んでくれるとでも思った? その時には既に、母上もこの世にはいなかったというのに。
一頻り笑ったストーカーが、意地の悪い笑みを浮かべたままレイピアを構える。私も左手で何とか剣を握った。こっちで剣を振る練習も少しだけしていて良かった。母上が利き腕をなくして帰ってきたあの日、剣の道を完全に捨てなくて良かった。母上が遠くにいってしまったあの日、何もかもを諦めなくて良かった。
左手の小指が熱い。血が足りなくて冷えきった手には痛いぐらいの熱さに、じわりと視界が滲んで私まで笑えた。ああ、本当に良かった。本当に本当に、良かった。私はあの日、なにも間違えてなんていなかった。
剣を構え、駆け出す。これまでの比じゃないぐらいに左手の小指が熱くなり、きらりと私たちの頭上で何かが光った。よく手入れをされた美しい刃だ。あの子が努力を続けた証。あの子が母上に憧れ、その背を追い掛け続けてきた故の美しさ。
ストーカーの構えたレイピアの剣先が、胸に刺さる。その瞬間の情けなく揺れるストーカーの瞳を見て、場違いにもまた笑ってしまった。母上によく似た私を殺せて満足だろうに、何故今更そんな顔をするのか。お前の求めていたものは、これじゃないか。
そう思いながら剣を捨て、突き刺さったレイピアの剣先をぎゅっと掴む。今更驚いたってもう遅い。これだけ手放させることができれば、私はもうそれでいいのだ。
レイピアの持ち手から手を離して振り返ったストーカーの体を、妹が振りかざした剣が躊躇いなく切り裂いた。
さすがは私の妹だ。かすれゆく意識の中で見えた駆け寄ってくる愛しい妹を見て、もう一度「良かった」と思う。あの日、記憶も家も母も何もかもを失って空っぽになってしまったこの子を抱き締められて良かった。この子をあそこで一人にしなくて良かった。
この子の姉になれて、良かった。