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「はは、見てみな先輩、ドミナ。この子、鼻に蝶々が止まってる」
「あらら、ほんとだ。よく寝てる。寝顔は小さい頃と変わらないわね」
「起こした方がいいんじゃ……」
「こんなに気持ち良さそうに寝てんだから、寝かせてやっとけばいいの」
 んー、誰かの声が……それになにか、鼻に……。
 もぞもぞと手を動かして、鼻に触れる。なんだこれ……なんか、生き物の……。
「……生き物ォ⁉︎」
「あっ、起きた」
「あー、蝶飛んでっちゃったよ」
「えっと……姉上、おはようございます」
「あっ、えっ、おはよう……えっ⁉︎ なに⁉︎ 母上⁉︎ ドミナ⁉︎ ……誰ェ⁉︎」
「なはは、『誰』かあ。この顔に見覚えはあんでしょ?」
 鼻になにか生き物が飛んでいたことに驚いてギャーッと叫んで飛び上がると、両隣と向かいからそれぞれ言葉が飛んできた。座っていたらしい椅子からずり落ちそうになりながら、意味も分からず辺りを見渡す。
 周囲に広がる色とりどりの花たち。空の高いところで輝く眩い太陽。多分ここは、前にも来たところ。死んでしまった人が行き着く最期の場所。
 そして、無限に続いているのではと思うほどに広大な花畑の真ん中に真っ白なテーブルを囲んで座る私を含めた四人がいる。向かいには母上、左隣にはドミナ、右隣には……。
「は、母上の……ストーカー……?」
「なはははは! ストーカー! 聞いたか先輩、私アンタのストーカーだってさ!」
「もう、ちょっと笑い声がうるさい! 見て、ドミナくんもうちの子も引いてるわ」
「えー、ごめんごめん。ストーカーは言われたの初めてだったからさあ……」
 ひとしきりケラケラ笑ったその人は、すとんと肩に落ちたピンク色の髪をさらりと払うとテーブルに肘をつき、片方の口角を上げてにやりと笑った。あのストーカーは一度もしなかった表情だ。見た目は一緒なのに、笑顔も喋り方も全然違う。変な感じ。
「私はアンタの弟と妹の母親。ウチの子を可愛がってくれてありがとうな」
「いえいえ、私の方こそ二人にはお世話になりっぱなしで……こんなに可愛い子を産んでくれてありがとうございます」
「それ感謝されたのはじめてだわ!」
 腹を抱えて笑いだしたその人を見て、母上は呆れ顔で「よく笑うのよ」と呟いた。その後に続いた説明によると、二人は昔神覚者選抜試験で戦ったことがある先輩後輩らしい。なるほど、そういう付き合いでお友達になったのか。
 ふむふむと私が頷いていると、母上はテーブルに乗せた腕に顎をついて「母上は怒ってるんだけど、なんでか分かる?」と突然質問してきた。首を傾げてドミナに助けを求めたが、ドミナはやんわりと笑って何も言わない。双子のお母上はまだまだ爆笑していた。めちゃくちゃ笑う人だな。
「……分かんない。どうして?」
「あなたが無茶をしたからです。自覚はある?」
「まあ、それなりに……?」
「それなりじゃダメよ。あのね、あなた死んじゃったのよ。母上はそれが悲しいの」
「ほう……」
「『ほう』じゃありません」
 でも、死んじゃったものはどうしようもないじゃん。悲しいし辛いし、『出来ればもっと』とも思う。だけど私は死んでしまった。前にここに来た時とは違って、確実に死んだのだ。
 そう思って反応に困っていると、母上は呆れ顔で手を伸ばして私の頬に触れた。くるくると円を描くように、母上とよく似た形をした痣を中途半端になぞるようにして頬が撫でられる。
「私はあなたに死んで欲しくなかった」
「それは……そう言われると、困る」
「あなたはまだ若い。十八歳なんて、人生これからでしょう。まだ学校も卒業してない。これからまだまだ楽しいことがたくさんあった。私はね、あなたに生きていて欲しかった」
「……母上だって、人生はまだまだこれからだったのでは」
「ええ」
「私だって、母上と、まだ……ずっと……」
 鼻の奥がツンとして、見つめる先にある母上の呆れ顔がじんわりと滲んで歪む。そんな私を見てそれまで黙っていたドミナが慌てたように「姉上」と呼んできたが、可愛い弟の前でも私は涙を堪えることができなかった。ぼろぼろと溢れ落ちていく涙で頬が熱い。
「母上と一緒にいたかったの」
「うん」
「まだ、一緒に生きていたかった」
「そうだね」
「母上がいないと、私、寂しいんだよ」
「……私も。私も、あなたたちと一緒に生きていけないことが寂しい」
 あなたたちとずっと一緒に生きていたかったと、母上は掠れた声でそう言った。気付けば双子のお母上の笑い声も収まって、どこか遠くで名前も知らない鳥が鳴く声と私の嗚咽だけが虚しく落ちていく。気遣わしげに背中に当てられたドミナの手が暖かいことで、余計に泣けて仕方がなかった。
 頬に触れていた指先が、手のひら全体で頬を包むように触れ方を変える。私よりも大きくて硬い手。ずっと剣を握ってきた人の手。だけど、いつだって私を優しく導いてくれた大好きな手のひら。
 私はずっとずっと寂しかった。置いていかれたことが辛かった。もう二度と母上に会えないことが、もう二度と母上と生きてはいけないことが、逆に泣けなくなるぐらいに悲しくてたまらなかった。
 妹と弟ができた。二人は私を姉上と呼んで慕ってくれる。可愛い子たちだ。
 友達もできた。楽しいことも辛いことも一緒に乗り越えてきた。ちょっと怒られるようなことも一緒にしたんだ。ちょっとだけね。
 それに、私、恋をしたの。母上が最期に見た幼い私からは考えられないだろうけど、好きな人が出来たんだよ。本気で誰かを好きになれたの。心の底から愛しいと思えた。
 溢れ続ける涙を母上の指が拭っていく。その拭い方は、私が泣くといつもレインくんがしてくれるようなものとは少し違っていた。だけど優しくて暖かいことに代わりはない。私を大切に思っているのだと痛いぐらいに伝わってくる触れ方。
 涙で滲む視界の中、同じように涙を滲ませた母上が笑う。
「大きくなったね」
「私もう十八歳だもん」
「そうだね……そうだよね。十二年も経てば、こんなに大きくもなるよね」
「母上……」
「あなたたちには沢山辛い思いも悲しい思いもさせた。この十二年間、ずっと寂しかったよね……でも私は、それをあなたたちに謝ってはあげられない」
「……だろうと思った」
「うん。私もね、あなたたちと生きられなかったことをすごく悔やんでる。あなたたちと生きたかったとずっと思ってる。だけど私は、騎士として死んだ私自身を誇りに思う」
 迷いなくそう言いきった母上に、思わず笑ってしまった。ああ、本当に……本当に、私の母上がこういう人で良かった。この素晴らしい人の娘として生まれてこられて、私は幸せだった。
 ほろりと流れた涙をもう一度母上の指先が拭い、そして離れていく。
「まあ、私の頑固さがあなたにこんな風に受け継がれちゃったことには色々と思うところがあるんだけどね……」
「なはは、それでこそアンタでしょ! 融通の効かない頑固者の癖して、すーぐ調子に乗る大馬鹿者! アンタは昔からずーっと変わってない! それでこそ先輩だよ!」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。アンタの娘もさ、そんなことは分かってんだよ。分かってて、この子はアンタの娘になれて良かったって思ってくれてんの。良い子に育ったじゃん」
「……全部あの人のおかげ。私はなーんにもしてない」
「そお? 私には、ちゃんと先輩の背中も見て育ってるように見えるけどな」
 テーブルに頬杖をついてそう言った双子のお母上は、にっかり笑うと「良いお母さんだね」と言った。私もそれに頷いて「ええ」と答える。
「自慢の母です」
「だってよ。あーあ、羨まし! あ、今のは褒めの催促とかじゃないから!」
「褒めの催促……」
 そう繰り返したドミナは、しばらく間を置いてからぽつりと「あなたはどうして僕たちを産んだんですか」と呟いた。
「お父様以外の男性と結婚していたと聞きました。でもあなたはその男性とではなく、お父様と子どもを作った。それは何故?」
「んー……なんつーのかなあ。……愛されてみたかった、から?」
「……愛されてみたかった……?」
「そ。私の旦那、子どもが出来ない体質だったんだよ。元々家のための結婚だったし、そこは納得してた。後から養子でも取ろうって話してたんだ。でも、先輩に子どもができて、毎日毎日家族で幸せそーにしてんの見たらさ……欲しくなっちゃったんだよなあ、血の繋がった自分の子ども」
 頬杖をついたまま、彼女はなんてことはないようにそう言った。対するミナは動揺しているようで、視線を揺らしながらも何も言わない。今度は私がその背に手を当てる番だった。
「そしたらあの人が私のところに来て、そっからはもう、沼にハマってくようなもんだったよ。あの人はすごく優しかったし、私の望む言葉をなんでもくれた。子どもが欲しいって言ったら、自分もだって言ってくれてさ……本当は、ドミナが連れてかれた時点でちゃんと夢から醒めるべきだったんだよな」
 静かに続いた「ごめん」という一言は、軽いように聞こえて酷く重い。ドミナがごくりと唾を飲む。
「ドミナが三歳の頃に一度だけ会ったことがあるんだけど、もう覚えてないよな」
「……なにも」
「だろうなあ。アンタが熱を出した、下がらない、このまま死ぬかもってあの人から連絡が来てさ。着の身着のまま駆け付けて、一晩中アンタを看病して……アンタの小さな手のひらが、私の手を掴むんだ。それで、『お母様?』ってアンタは言って……あれでようやく私の夢は醒めたんだ。アンタが私を正気に戻してくれた」
 そう言った彼女は、「あの時と比べると随分でかくなったな」とまたにっかりと笑った。そのまま母上に「かなりちっちゃかったんだよ。ちゃんと食べてんのか心配になってあの人に言っちゃって、結構ウザがられただろうな、アレ」などと声を掛けている。母上もそれにあれこれと応じて、二人が話す声を聞きながら私はドミナの顔を覗き込んだ。
 すぐに見つめ返してきた瞳はしきりに瞬かれ、困惑の色をたっぷりと含んでいた。何もかもが初耳で、理解が追い付いていないという顔をしている。そりゃそうだろう。ドミナにとって、『母』は会ったこともない、見たこともない存在だった。あの人のガワを借りたストーカーがドミナにどんな接し方をしていたのかは分からないが、この反応を見るに親密ではなかったはずだ。
 背に触れていた手を動かしてきてドミナの手を握ると、ぎゅっと握り返される。
「僕は……『お母様』は、いないものだと思っていた」
「いたね」
「うん……僕にもいたんだ……」
「……ドミナと『お母様』は、髪の色も目の色もよく似てる。笑った顔も少し似てるかも」
「……そうかな」
「そうだよ」
「……姉上たちは、顔立ちがよく似てるね。それから声と喋り方も似てる」
「ええ、そうかな?」
「うん。そっくりだよ」
 話しているうちに気を取り直したのか、ドミナがにっこり笑う。その可愛い笑顔を見て私も楽しい気持ちになっていると、ふと強い風が吹いた。咄嗟に頭を押さえたが、逃してしまった髪が少しだけドミナの顔に当たってしまう。ごめんねと謝ったものの、その声は母上たちの「ええ⁉︎」という声に遮られた。
「なんだこれ、正気?」
「たまにあるやつでしょ。まさかこの子たちが当事者になるとは思わなかったけど……」
「えー……バイト手伝ってもらおうと思ったのになあ」
 いつの間にか持っていた紙から顔を上げて困った顔をした母二人が揃って私たちを見つめ、私たちは顔を見合わせ首を傾げる。なんだろうか。何もしてないと思うけど。
 困惑する私たちを他所に、双子のお母上は「あー」と言葉を選ぶように一瞬ぼやき、すぐに「よし!」と大きな声を上げた。
「アンタたちの死はキャンセルということになった! 突然で悪いんだけど、今から下に返す!」
「えっ」
「キャンセル? そういう概念あるの?」
「まあ、あるといえばあるのよね。稀に良くあることってやつよ」
「稀なのか良くあるのかどっち?」
 説明を聞いてもよく分からなかった。二人にそれぞれ肩を掴んで立たされ、背中を押してどんどん追いやられる。どこに向かうのか分からないが、どこかに向かわなければならないらしい。それにしても死をキャンセルってどういうことなんだ。
 話についていけない私たちを無視して、二人はそれぞれ忙しなく口を開いては色んなことを喋りかけてきた。
「言いたいことは沢山あるんだけど、それはまた今度に取っておく。前にも言ったけど、ちゃんときょうだいで仲良くすること。それから父上には『ちゃんと寝なさい』って伝えて。あの人、すぐ無理するから」
「私は……もうそっちに遺してきたのはアンタたちだけだもんな。一応言っとくけど、姉上にあんまり迷惑かけるなよ? それと、あの子にもよろしく伝えて」
「あとは、えっと……そうだ! 私の……ストーカーではなかったと思うんだけど、その人に『お前は私の人生で一番の馬鹿』って伝えてやって! 元気でね! 無理はしちゃダメだし無茶もしちゃダメ! 当分会いに来なくていい! 長生きしなよ!」
「あの人にもよろしくー」
 全部覚えられない、と言うよりも早く、ドンッと背中を押された。えっと思う間もなく、体が深い穴の底に落ちる。穴に落ちるのは今日二度目。一日で二度もする体験じゃないでしょ、これ。
 びゅんびゅん風が吹き付ける底の見えない穴に思わず「わあ」と叫ぶと、隣で一緒に落ちていたらしいドミナが抱きかかえてくれた。なんて気の利く弟。褒めてあげなきゃと思ったのだが、何かしらの褒め言葉を思い付く前に私はふらっと気を失ってしまったのであった──。

ふたつおりのひとひら