醒めぬだけの春の夢

 目が覚めたら視界いっぱいに知らない天井が広がっていて、股と腰が痛くて、更に隣で知り合いが寝ていた。しかもなんか相手は裸。下半身は見えないけれど上半身は絶対にそう。そして最悪なことに私も多分裸だ。シーツの感触がこう、肌に直接触れている感じなんだよ。
 すよすよと気持ち良さそうに眠る知り合いを暫く呆然と見つめていたのだが、どうにもこうにも心臓が逸って冷や汗が止まらなくなったので目を逸らした。頭皮がじんわりと汗ばむ。言葉にしがたい色をした天井を十秒ほど見つめ、意を決して肩までかけられた掛け布団を捲った。辛うじて下着は身につけているけれど、腰のあたりにくっきり手形がついているし、太ももには赤い痕とか噛み跡とかが見える。うん、知ってたけどアウトだね。

 再び隣を見た。私が起きていることになんてこれっぽっちも気付いていないのか、変わらずにこちらに顔を向けながらも寝息を立てている。やっぱり整った顔立ちだ。こうして無防備に眠っているとちょっと子供っぽく見えるんだと、今初めて知った。そもそも寝顔なんて見るの初めてだよ。


 分かりやすい現実逃避だよなあ。そうは思いつつ、その顔を見つめ続ける。殴られても殴られても曲がらなかった鼻とか、最近仕事が忙しくて昼休憩もまともに取れないと言っていたからか僅かに痩せた頬とか、なんだかんだ言いつつ長くて上を向いた睫毛とか。あとはそれから、普段から肉体労働と言っても差し支えの無い仕事をしているだけあってがっしりしている肩と腕と、案外綺麗に筋肉のついた胸板。くっきり浮き出た喉仏。
 こうやってまじまじと見つめると分かってくる身体的特徴を一つ一つ浮かべていき、ああ好きだと思って、小さくため息をついた。現実逃避にならない。好きだと思い知らされてこの状況のヤバさに辛くなるだけじゃないか。

 私のため息に反応したのかその人は僅かに唸って、それでも目覚めるには至らなかったのかもぞもぞと体勢を変えてからまた寝息を立て始めた。薄く開かれた唇を見つめる。乾燥してるな。リップ塗れって言ったのに。まあ、そんなこと言ったところで聞くような人じゃないんだけどさ。


 この人と私とは言うならば、バイク屋のバイトと常連の妹などという何とも希薄な関係だった。帰りになにか美味しいものを食べさせてくれるという兄に釣られて着いて行った店で、その人がバイトをしていたのだ。

 こう、目があった瞬間にビビッときたよね。恋愛事に疎いというわけではないけれど聡いというわけでもない私でも分かるぐらいに、たった一瞬で恋に落ちた。ぱちくりと瞬きをした後にゆるりと笑われたらもうイチコロだ。煤汚れた頬を首に掛けたタオルで拭っているところも素敵に見えたし、休憩中に水を飲んでいたタイミングで店長さんに会話の流れから背中を叩かれて全部吹き出したところも支えてあげなきゃと思わされた。

 そんな風に文字通り一目惚れした私はなんだかんだと用事を作り出して店に通って、連絡先は交換したし私的なメールだってするような仲になった。この半年、主観混じりにはなるけれどかなり順調に行ってたと思う。だってお互い休みが合えば会ったりしてたし、今度の夏は一緒に夏祭りに行こうとか話してたんだよ。
 この前なんて声を聞きたいからって電話されたりしちゃってさ。正直普通に脈アリかなとか思った。付き合えるんじゃないの? とか期待した。

 まあ、ひとつ、大きな壁さえなければの話だけど。

 意識を現実に引き戻して、相変わらず気持ち良さそうに眠るその人を見つめる。むにゃむにゃと聞き取れないレベルの寝言を言って少し開いていた唇が引き結ばれた。
 この乾燥してカサついた唇と私の唇が重なってキスをして、それ以上のこともしたわけだ。普通に状況に流されてしまっただけで酒なんて一滴も飲んでいなかったからよく覚えている。意識を飛ばす余地もなかった。

 可愛いとか好きだとかたくさん言ってもらえて嬉しくなって、最後まで流されてしまった。ヤバいよね。他に言うことないのって感じだと思うけれど、あの時感じていた多幸感と精神的にも物理的にも満たされていく感覚に流された結果言える言葉って、正直「ヤバい」以外にない。色んな意味でヤバいから。


 ほんの少しの振動が伝わって起こすことがないようにと慎重に身体を起こして、下半身に残る鈍い痛みと全身に感じる倦怠感に眉が寄る。運動不足が祟った気がする。前から色んな人に言われていた通り、体育の授業とかはもっとちゃんと真剣に取り組んで、朝とかランニングしたりしようかな。一応言っておくけど、これも現実逃避だ。
 起きてないよねとその人をチラチラ横目で確認しつつ、逃亡中の犯罪者の如き音と気配を殺した挙動でゆっくりベッドから降りて、床に落ちていた服を着ていく。全身ダルいのに衣擦れの音にすら気を遣うのは少し疲れるけれど、今ここで起きられても困る。何を言えばいいのか分からないし、どんな顔をすればいいかも分からない。

 そうして服を着ているうちに気付いたけれど、この部屋はなんだか暑い。暖房がついているのだ。コートも羽織ろうかと思ったけれどやめて、腕に抱えるだけにした。外に出て寒かったら羽織ろう。もう十二月なんだから寒くないわけないんだけどね。
 上から下までちゃんと服を着ていることを確認しながら、そのままにしておくのも忍びないので私の服と同様に床に落とされたその人の服も拾い上げて畳んでベッドに置いておく。暖房をつけているとはいえ裸で寝ていられる季節でもないので、起きたらちゃんと着て欲しい。

 ブーツを履きながら鞄を手繰り寄せ、財布を取り出した。こういうホテルの相場がいくらか分からないんだけど、足りなくても嫌だからここは万札を置いていこう。少なくて困ることはあっても、多くて困ることはないでしょ。
 分かりやすいようにサイドテーブルにお金を置いて忘れ物がないかベッド回りを見回してから、また足音を殺して出口の方に向かう。まだ起きていないようだ。置いて逃げるみたいなことしてごめんなさい。でもちょっと合わせる顔がないし、お互いコレってかなりヤバいことだからね。またそのうち、連絡が出来たらします。いや、出来る気はしてないけど。

 ドアを慎重に開けて僅かな隙間から身を滑らせて外に出て、音を立てたりしないようにと細心の注意を払って閉めた。ドアノブからゆっくり手を離し、相当緊張していたのか焦っていたのか額に浮かんだ汗を拭う。右を見て左を見て昨晩の記憶に従ってエレベーターホールに向かいながら、知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。