誰もが行き先知らずの夜明け

 どこか安っぽい香水の匂いがするエレベーターホールでエレベーターを待ちながら、意味もなく足踏みをしたり拳を開いたり閉じたり、額に手を当ててみたりする。一種の現実逃避だということが分かりやすい。
 そうしてなかなか到着しないエレベーターになんだか焦りつつも、ふとそのタイミングで誰にも連絡をしていなかったことを思い出した。昨日は流れでそのままホテルに来てしまってあんなことになったから、そんなこと気にする余裕が欠片もなかったのだ。

 コートのポケットに手を突っ込んで携帯を取り出し、四件届いていたメールを確認する。当たり障りない内容を返信しながら、まだ朝の七時なことを確認した。これじゃ言い逃れできない朝帰りだ。兄にドヤされる。
 なんだかんだと厳しい年の離れた兄を思い出して思わず顔が引き攣るのを感じながら、最後の一件のメールを開いた。親友からだ。昨日の午前中に話していた駅前のカフェに関しての話だったのだが、ふと親友の姿が脳裏に浮かんだ。短すぎず長すぎもしないスカートを翻して、にっこり笑う可愛い女の子。あの子はセーラー服も絶対に似合うと思う。

 と、そこまで考えたところで急速に意識が引き戻された。あ。ぐるぐると思考が回り始め、頭の中でたったの七文字が踊り狂い、昨晩の私を見下ろすギラギラとしたあの人の瞳と、さっき部屋に置いてきたその子供っぽい寝顔が瞬くようにして思い返される。

 ヤバい。とんでもないことになった。


 目覚めた時の非ではないぐらいに心臓が早鐘を打ち、ダラダラと冷や汗が背中を伝い始める。早くこのホテルを出なくてはと覚束無い足取りでエレベーターに乗り込んで、降りて、無人のフロントを通り過ぎて外に出た。今日は日曜日だと言うのにスーツ姿で駅に向かって歩くサラリーマンと目が合い、その視線がホテルの看板を見て、それからまた私に戻される。居た堪れなくなって逃げるようにして駅とは反対方面に足を向けた。
 しばらくそうして歩いてそういった店ばかりが立ち並ぶ繁華街を通り抜け、それでもまだ歩いているうちに住宅街に辿り着いた。ついでに公園も見つけたので、迷うことなくそちらに向かう。未だに心臓は逸り、冷や汗は止まらず、頭の中でたったの七文字が踊り狂っていた。

 ランニングをしている老人を横目に公園の入口から程近いベンチに倒れ込むようにして腰掛け、どうしようもなくなって頭を抱えた。全身ダルいし下半身は痛いし喉の違和感から言って声も枯れていそうだしで身体のコンディションも最悪だ。それに状況が何よりヤバい。


 青少年育成条例。またの名を、東京都青少年の健全な育成に関する条例。


 その一部に抵触することをしてしまった。平たく言ってしまえば、私と彼とがそういうことをしたのが、うん。ヤバいのだ。成人が未成年に手を出したわけだから。
 逮捕とか罰金とかあとは世間の目とか。バレたら終わりだ。だって二十歳の大人が、十六歳の子供とそういうことをしたわけだ。許されるか許されないかで言ったら確実に許されない。もう絶対アウト。

 思わずため息がこぼれた。もう身体を交えてしまった以上はどうにもならないとは言え泣きたくなってくる。あの人は悪くない。流されてしまった私が悪いのだ。そういうのは私がちゃんとしなきゃいけなかったのに。


 顔を上げてさして広くもない公園内を延々とランニングしているお爺さんを見ながら、またため息をつく。走って悩みがなくなるなら私も走りたい。走れば過去に戻れたりしないかな? するわけないんだよな。
 そうやって馬鹿なことを考えて現実逃避をしながら、そういえばずっとコートを抱えたままだったと思い出した。このまま風邪を引くわけにも行かないので腕を通して、ポケットに再び仕舞い込んでいた携帯を取り出す。最後の一通に返事をしよう。

 最近の私はあの人の働くバイク屋に通い詰めていたから、親友との時間もろくに取れていなかった。でもここであの人と少し距離を置くとしたら、元のように空いた時間のほとんどを親友にかけることが出来るようになる。それでいいじゃないか。あの人とは本当に距離を置いて、昨晩のことも夢だったということで片付けて、お互い忘れて生きる。これが完璧じゃない?
 本気で好きだけど、でもそれと同じだけこの状況を危惧してもいるのだ。バレたらヤバいし、なんならヤバいどころの話じゃない。いつか自分の店を持つのが夢だと言っていたけれど、このままだとその夢を叶えても風評被害で閑古鳥が鳴くことになってしまう。それは避けなくては。

 親友にこの話をしたら呆れられるか怒られるか。後者な気がする。ずっと相談に乗ってもらっていたけれど、まさか突然告白を飛び越えてそういうホテルでそういうことをしましたなんて言ったら流石のあの子でも怒りそうだ。
 いや、今はもうお叱りでもいいから話を聞いて欲しい。昨晩はあんなに幸せだと思って満ち足りた気分だったのに、今はもう先が不安で不安で堪らない。大変なことになってしまった。

 まだ寝てるかなと思いながら着信履歴の上の方にあるその名前を押して、ぼんやりとコール音を聞く。ランニングをしていたお爺さんはラジオ体操を始めていた。朝から元気な人だな。

 十数秒ほど待った後に、機械の音が変わる。小さな呼吸音が聞こえてきて、眠そうな声で名前を呼ばれた。眠っていたら出ないだろうから、起きてはいたらしい。
 最初は起こしてごめんねと言おうと思っていたのに、その柔らかい声を聞いた途端に視界が潤み出した。ううと声を上げれば、私が泣いていることに気付いたのかほんの少し驚いたように親友がまた私を呼ぶ。

『どうかしたの? 昨日デートだったんだよね。何かあった?』
「赤音……! ヤバいことになっちゃったよお……」
『ヤバいことって……』

 グズグズと鼻を鳴らして泣く私に何かを察したのか電話越しに分かりやすく息が飲まれる。話しているうちに意識が覚醒してきたらしく、ええっと大きな声が聞こえた。

『え、え、普通にカフェとか行ったりするって言ってたのに?』
「なんか夜景見てたらつい、こう、流れで……未成年淫行って懲役十年ぐらい……?」

 問い掛けに返事をしつつずっと考えていたことを聞けば、電話越しに赤音が混乱したようにまた声を上げ、その後にうーんと考え込んだ。

『同意の元なら多分逮捕まではいかないんじゃ……無理矢理その人に襲われたとか、襲ったとかじゃないんだよね……?』
「そんな人じゃないよお……」

 あの人はそういう人ではないのだ。場の空気に流されてこんなことにはなってしまったけれど、本当にそういう人ではない。
 散々私があの人の話を聞かせているせいで会ったことはなくとも人となりは分かっているからか、赤音の質問も「一応聞いておくけど」といったレベルのものではあった。それに私が襲った可能性まで考慮してくれている。私のこともよく分かってるのだ。

 話しているうちにすっかり目が覚めたのか、電話越しに唸り声が聞こえてきた。軽率な行動を咎めるよりも、一緒に悩んでくれることにしたらしい。

『ひとまず、今どこにいるの? その人の家とか?』
「いや、普通に外。っていうか泊まったのもホテルだし……」
『じゃあこの後会おう。会って話した方が良いデショ?』
「もうほんとありがと……大好き……」

 本格的にこぼれ落ち始めた涙を拭いながら、私も大好きだよと返してくれた親友の言葉に少し心が軽くなる。いや、なっちゃダメなんだけどね。事態は何にも好転してないわけだから。
 それでもひとまずは、話を聞いてもらえそうではあるということに変わりはない。私一人だと多分延々と悩むばかりでろくな事にならないから、当事者じゃない赤音に話を聞いてもらうことで少しは状況がマシになるかもしれないのだ。私の心構え的な意味でね。

 じゃあ駅の方に行くからと言ってくれた赤音にもう一度お礼を言って、相変わらずな全身の倦怠感にため息をつきつつ立ち上がる。クラスの女の子たちからそういう体験談を聞かせてもらうことはあったけれど、この身で味わうのは初めての痛みと倦怠感だ。

 本来ならば意中の人と関係を持てて嬉しいはずなのに、お互いの年齢差を考えると確実にアウトだから手放しに喜ぶことも出来ないし、なんというか不思議な感じ。成り行きに過ぎなかったとはいえ初めてって重くなかったかなとかそんなことも今更考えても意味は無いのだ。

 ここからの私に出来ることはと言えば、徹底的に昨晩のことを隠し通してあの人と会わないようにすることだけ。昔ちょっとやんちゃしていたとも聞いたけれど、そのやんちゃもこういうやんちゃじゃないだろう。詳しい話は聞かせてもらっていないけれど、改造バイクを乗り回していたとかそんなところじゃないかと予想しているぐらいだ。喧嘩もしていたとか言っていたけど、それも多分改造バイク乗り同士の喧嘩でしょ。

 軽快なラジオ体操の音楽を聞きながら駅に向かって歩き始める。

「佐野さんを犯罪者にするわけにはいかない……バレなきゃ犯罪は犯罪じゃないし…………」

 好きな人とこんな形でお別れなんて名残惜しい所の話じゃないけれど、佐野さんには夢を叶えて欲しいのだ。成り行きだったとしても一度抱いてもらえたことだけを胸にこれからは生きていこう。

 ぽろりと溢れた涙を拭って、ひとまず今は赤音に会いたいと足を速めた。


 惚れた腫れたを抜きにしたって、二十歳の佐野さんが交際しているわけでもない十六歳の私を抱くのはやっぱり法的にアウトなのだ。法が憎いなあ。