暖かい陽気が気持ち良く、縁側で日光を浴びながらうとうとしていた頃。
背中越しに、障子の向こうから「きゃあっ」という小さな悲鳴が聞こえてきた。
眠気がさめて、どうしたことかと中へ入るとお市様が私の方へ寄って来た。
「名前様、ク、クモが……!」
「クモ、ですか」
お市様が指をさした方を見ると、畳の上には親指の爪程しかない小さなクモが跳ねていた。
ぴょんぴょんと可愛らしく忙しない動きに、私はクスリと笑みを漏らす。
「これはハエトリグモですよ、大丈夫です」
そう言って手に乗るように誘導し、落ちないように両手で包んだ。
「逃してきます。障子を開けて貰っても宜しいでしょうか」
「はい。ありがとうございます、名前様」
こんな小さなクモに驚くお市様も可愛らしい、なんて思いながら縁側へ向かって歩き出す。
お市様が障子に手を伸ばしてスッと開くと、すぐそこにはどう見ても極悪人の顔をした松永 久秀が立っていた。
お市様は静かに障子を閉めて無かったことにしたので、私とお市様の心が通じ合ったのを感じた。
いやいや、……え? どういう事だ? 先程まで誰も居なかったはずなのに。
「あ、あの、お市様、障子を開けて貰っても宜しいでしょうか?」
「は、はい」
2人揃って最初からやり直す。
お市様は再度、障子に手を掛けてゆっくりと開ける。
しかしそこには依然として変わらぬ松永 久秀がぎょろりとした目でにこやかに笑い、こちらを見ていた。
「名前よ! クモはお好きかね!?」
やばい。話し掛けられた。しかも私に。
流石に無視は出来ないが、まともに相手にするのは面倒なので簡潔に答える。
「好きでも嫌いでもないです」
そう言って久秀殿の横を通り過ぎ、縁側から外へとハエトリグモを逃がす。
すぐに中庭の小石に混じって姿が見えなくなった。
「むふふ〜そうかそうか。良い事だ! 好きではない、つまりこれから好きになる運命、という事になる!」
後ろから満足気に勝手なことを言い出す久秀殿の声が聞こえるが、無視したい。いや、無視しよう。これ以上は相手にしなくて良いだろう。
お市様に一言告げてからこの場を離れようと振り返ると、障子は既に閉まっていた。
あ、逃げた。私と変人を縁側に二人きりにするなんて酷い。でも気持ちはわかります。
「では失礼します」
「クモはいいよな〜標的を捉えて好きに出来るもんな〜」
久秀殿は私の後を歩きながら聞こえるように独り言を呟く。
いや、何故付いてくるんだ。歩く速度を速くすると、久秀殿の足音も同じく速くなる。
その後も暫くの間、クモのうんちくを垂れ流しながら金魚のフンのように付いてくるので、いい加減しつこいと思い、立ち止まって振り返った。
「何か御用ですか!」
「ほうら引っかかったな〜クモの糸に」
予想通りと言わんばかりに厭らしく笑う久秀殿。
別に引っかかったつもりはないが、そう言われると少し悔しくて腹が立つ。
この人はいつもこんな調子で私にちょっかいを出してくるので困りものだ。
私は久秀殿に多少の好意を抱いているからこそ、からかわれていると思うと逆に心苦しくなるというのに。
「まあまあ、その辺にしておいたらどうかな?」
背後から現れたのは柳生 宗矩。
相変わらず図体がでかくて見上げずにはいられない。久秀殿と並ぶと更に大きく感じる。
何故ここに、と問うと、諸用があったそうだが、もう済んだのでこれから帰るらしい。
宗矩殿はヒョイッと久秀殿の首根っこを掴むとそのまま私の前から去って行った。
助かったが、結局何がしたかったんだ、あの人は。
夜も更けて、涼し気な虫の鳴き声が中庭から聞こえてくる。
そろそろ床に就こうと、燈台の火を消そうとすれば、部屋の外から戸を叩く音がする。
こんな時間に何用かと不機嫌気味にカラリと開けると、そこに立っていたのは昼間にも見た光景。
夜着に身を包み、気味の悪い笑みを浮かべた松永 久秀。
「……何ですか」
はあ、と溜息をつきながらとりあえず用件を聞く。
「我輩、昼間助けて頂いたクモだよ」
私は即座に戸を閉めた。
戯言に付き合っている暇はない。
「閉めんでも良いではないか。ちょっとした洒落なのに、我輩寂しい!」
勢い良く戸を開けられて、久秀殿が悲しげに叫んだ。
別にちょっかいだすのもからかわれるのも構わないが、この時間帯はやめて欲しい。色んな意味で勘違いしてしまう。
「で、何しに来たんですか?」
「こんな夜更けに来る理由など1つに決まっておろう? 一度巣に引っかかった獲物は逃さない性質でな」
ずいずい、と私の自室に上がり、後ろ手に戸を閉めた。
いつもより強引な行動を取る久秀殿に驚いて、私はつい後ずさる。
「お主、明るいと恥ずかしい方か? 安心せい、暗くすれば大丈夫!」
このオッサンは何を言っているんだろう。いや、わかってる。わかってるんだけど。
突然こんな事をされたって、心の準備が出来ているわけがない。
どうすればいいか迷っていると、久秀殿が燈台の火をフッと吹き消して、室内が暗闇に染まる。
辺りが真暗になり、衣擦れの音と荒い吐息が聞こえてきた。
「お主は意外と豊満な胸を持っておるなあ〜、いや、豊満というより筋肉質というか……、んん? これは腕か? 太腿か? まあいい、ほうらどうだ、この辺を触られるのは初めてかあ〜?」
私が燈台に再び火を灯すと、久秀殿は私の布団の上で、何かを下敷きにしてもぞもぞと蠢いていた。
「おっさん2人でちちくりあって何が楽しいんですか……」
私の布団の上に居たのは久秀殿と宗矩殿。
変だと思ったのだ。私は久秀殿が飛び込んでくることを見越してすぐに飛び退いたのに、まるで行為を楽しんでいるかのように話していたから。
しかし何という気持ち悪い光景だろうか、吐き気がしてくる。
「き、き、貴様! 宗矩! こんな所で何をしておる! こんな話は聞いておらんぞ!」
「松永殿こそ、夜這いなんて大胆な事をするねェ」
「ええい気色悪い! 我輩の質問に答えろ宗矩!」
私も我が目を疑った。
昼間は久秀殿を引きずってそのまま城から出て行ったとばかり思っていたから。
「そ、そうですよ。どうして宗矩殿がここに!?」
「昼間は帰ったフリをしただけさァ。拙者も名前殿を抱こうと思って、布団に潜り込んで待ってたんだけどさァ。悪代官みたいな男がやってくるから、身代わりになるしかないじゃない?」
「抱……ッ!」
揃いも揃って、色のことしか頭にないのかこの男共は。
こんな滅茶苦茶な状況でそういう雰囲気になる方が無理な話だ。
「ねえ名前殿? この悪人面でド変態なおじさんと、剣の腕が立つ素敵なおじさん、どっちに抱かれたい?」
「愚問だ。我輩に決まっておろう」
何とも直接的な質問だろうか。答えるのに勇気が要る。
い、いや、これは罠だ。冷静に考えて、何故どちらか一方を答えなければいけないんだ。
「ど……」
「どっちも嫌、となったら3人で……ってなるよォ」
「質問が『どっちが良かった?』ってなるだけだぞ〜」
私の浅はかな考えは既に読まれていた。
右腕を久秀殿、左腕を宗矩殿にがっしりと掴まれて逃げられない。
私は観念し、顔から火が出そうになりながらも蚊の鳴くような声で呟いた。
「……うう、…………、殿、です」
「そんな小さな声じゃ聞こえないよォ?」
「次に聞こえなかったら力づくでいくか、宗矩よ」
何か怖い事を言い出す久秀殿。横暴すぎるが、それだけは勘弁して欲しい。
私は意を決して、今度こそ聞こえるくらいの声で告げた。
「ひ、久秀殿、です……!」
しん……と室内が静まり返り、この場から今すぐ消えてしまいたい衝動に駆られる。
半ば強制的にとはいえ、こんなに正直に告白するのは初めてで、恥ずかしいったらありゃしない。
胸が力強く脈を打ち、徐々に顔が熱くなるのが自分でもわかる。
「むっふっふ、ひゃっひゃっひゃっひゃぁ! 聞いたか宗矩! 邪魔者はさっさと消えろ! 今すぐ!」
「はいはい、夜はこれからだから楽しんでねェ」
久秀殿はまさに悪代官の如く弾けるような笑い声を上げ、宗矩殿はさっさと私の部屋から出て行ってしまった。
あまりにも宗矩殿があっさりとしていたので、まさか仕組まれた? と勘ぐったがそれ以上の思考は久秀殿によって中断された。
「さあて、名前よ。今からお主の可愛らしい姿をとくと楽しませて貰うとしようか」
「ま、待って下さい! どっちかって言うから選んだだけであって、まだそんな久秀殿とは……」
「ならばこれから深い仲になれば良いではないか。我輩、頑張っちゃうからね!」
「ま、待っ、……アッ――――!!」
――こうして、クモの巣に見事に掛かった私(標的)は、久秀殿に好きにされてしまうのであった。
〜数刻前〜
名前から引き離された後も、久秀は相変わらず宗矩にずるずると廊下を引きずられていた。
久秀は一向に離す気のない宗矩に業を煮やして藻掻き始める。
「こら宗矩、いい加減離さんか!」
「いいけどさァ。松永殿、相も変わらず苦戦してるねェ」
宗矩は久秀の襟をパッと離す。
久秀は立ち上がり、着物を整えて宗矩に向き直った。
「わかっとらんな〜。それでこそ燃えるのが男女の仲ってやつよ」
「男女の仲って言うほど進展はしてないように見えたけどねェ」
宗矩に痛いところを突かれ、久秀は顔を歪めた。
気分を害した久秀は、城の外へ指を差しながら宗矩に怒鳴る。
「う、五月蝿い! 用が済んだならとっとと城から出て行け!」
「仕方ないねェ。松永殿には世話になっているからね。拙者、一肌脱いじゃおうかなァ」
「……ほほう? お主、何か策があるのか? 聞いてやっても良いぞ」
宗矩は久秀の耳元に手を添えてぼそぼそと話し掛けた。
「まず松永殿が名前殿の部屋に……、……で拙者が……、……どっちかを選択……、……というわけさァ」
「……成程。宗矩、お主、なかなか面白い事を考えるではないか!」
「今夜が楽しみだねェ」
もし松永殿が選ばれなかったら拙者が美味しく頂いちゃうんだけどねェ、と宗矩は胸の内でほくそ笑んだ。
そうして昼間に開かれた男達の怪しい会議を、名前は知る由も無かった。
誤前提的クモの糸
(20161005)
Smotherd mate