探偵を営む私に舞い込んできた今回の依頼は、とある国会議員の裏の顔を探るという内容だった。
その議員はメディアでもあまり良い噂を聞かない。決定的な証拠を掴んで欲しいと言われ、私は今夜その議員が主催するパーティーへ潜入することになった。
上品なドレスを着て、ネックレスとイヤリングで装飾をする。もちろんネックレスにはカメラを搭載し、イヤリングも盗聴を兼ねている。
綺羅びやかな会場には数々の著名人が招待されていたので、私が目立つことはないだろう。
早速ターゲットの姿を発見。
誰かと話しているので近付いて盗み聞きしようとした時、音楽が流れた。
男性は空いている女性を誘っていき、周辺の男女が次々と手を取り合って優雅に踊り始めた。ダンスの始まるタイミングが悪い。このまま接近は難しい。
「麗しきレディ、どうか踊って頂けませぬかな?」
どうすべきか考えあぐねていると背後から声を掛けられた。これは渡りに船だ。
私は声の主へ笑顔を作って振り向いた。
「ええ、構いませ……あっ、あなた!」
「今宵の月は素晴らしい出会いを予感させておりましたが、まさか貴女に出会えるとは」
そこに居たのは星威岳哀牙だった。
彼は私と同じく探偵をやっている食えない男だ。よりによってこんな所でこの男と出会うなんて、最悪だ。
「すみません、間違えました」
「いいえ、間違いではありませぬぞ名前殿。さあ、我に身体を預けて……」
「い、嫌よ。犬と踊ったほうがマシだわ!」
「シッ、黙って」
そう言うと哀牙は、私の口元の口紅がつかないギリギリの位置に人差し指を立てた。
仕方なく口をつぐむと、今度は私の腰に優しく手を添えてリードし始めた。慌てて彼に合わせて、躓かないようにステップを踏む。
「いつもの貴女はチャアミングだが、今夜はとてもビュウティフルだ。ズヴァリ、この哀牙の為……でしょうかな?」
「違うに決まってるでしょ」
棒立ちのまま言い合いを続けていれば怪しまれるのでやむを得ず哀牙と踊ることにしたが、難しい曲でなくて良かった。それだけでなく、この男のリードが上手なので安心して任せられる……のもまた忌々しく感じる。
「しかし、その開いた胸元は頂けませぬな。実に扇情的だ。我以外の輩の目に入るのは許しがたい」
哀牙もいつもは真っ赤なリボンにタキシード姿だが、今日は燕尾服に白いベスト、白いタイを着けて、より上品に決まっている。似合ってはいるが、正直言って普段とあまり雰囲気が変わらない。タキシードが普段着なんておかしいのは至極当然だけど、何度も目にしたおかげで慣れてしまった。
「ドレスなんて大体開いてるわよ。それに、美人がそこら中にいるんだから私なんて視界の端にも映りはしないわ」
不機嫌顔で答えながら視線を別の方へ投げると、うっとりとした表情で体を組み合う男女の姿が次々と目に入る。そもそも潜入捜査が目的である私がこんな場所でイタズラに目立ってはいけない。
すると手袋を着けた哀牙の指先が、私の胸元にピタリと宛てがわれた。
「果たしてそうかな? 我は……名前殿、貴女しか目に入りませんでしたぞ」
私の腰に蛇がまとわりついたかと思えばそれは哀牙の腕で、認識すると同時に私の体をピタリと自身にくっつけた。服越しに密着する下半身は布を隔てていながらも相手の引き締まった肉体を感じさせるので、妙に意識して心臓がドキドキし始める。
「クックック、貴女の身体は実に正直だ。指先から感じますぞ、ハアトが震えているのを……」
「や、やめて……っ」
自分の鼓動の早さを知られるのが嫌で、私は胸元に触れている指をはたいた。この男はいつもそうやって私の調子を狂わせ、主導権を握ってくる。
私の小さな拒絶を意に介さず、今度は繋いだ手を掲げてターンさせられる。背中を向けた一瞬の隙に、私のむき出しの背中に触れてくる。数本の指が生肌に触れる感覚にゾクリとした。
「背中までこんなに見せ付けて……我を誘っているとしか思えませぬな?」
一回転して哀牙と向き直り、私は戸惑いと怒りが混ざり合った感情を露わにして睨み付けた。
「ちょっと、ダンスはセクハラの為のものじゃないのよ!」
「普段から露出控えめな貴女の柔肌に触れるチャンスは滅多にありませぬので、つい我も心躍っているのでしょう」
「あのねえ……」
礼装でダンスパーティーという非現実な空間に、私も少しばかり胸が弾んでいるのは認める。けれど、先程から隙さえあれば私の肌に触れてくるものだから心臓が全く落ち着かない。このまま哀牙に触れられ続けたら、私は彼の押しに負けてどこまでも許してしまいそうで怖くなった。
「もういいわ……それより、何故あなたがここに居るの?」
「勿論、貴女と踊る為ですぞ」
「冗談はいいから」
「……特別に教えて差し上げましょう。我も仕事なのですよ。依頼人は異なりますが」
という事は哀牙は私の依頼人を知っているのだろう。いつも私の一歩先を行く男だ、不思議ではない。
もう少し情報を聞き出したいと思い、自ら哀牙に体を寄せる。今度はこちらが主導権を握る番だ。
「依頼人って誰? どういう事なの?」
哀牙の胸元に手を添えながら頭を埋めると、彼の心臓が急に強く鼓動し始めるのがわかった。……そんなに意識されたら逆にこっちが恥ずかしくなるじゃない。
そっと顔を盗み見れば、こんなに胸を高鳴らせているくせにそれを一ミリも顔に出さず、ニコリと爽やかに微笑みかけてきた。
「もう少々、貴女が欲しいですな」
私の手首を掴んで自らの首へ回させる。自然と体全体が密着し、お互いの心臓の音が混ざり合う。
こんなに近い距離で顔を向き合わせるのは流石に恥ずかしくて、私は顔を少し反らしながら耳元で囁いた。
「あの議員の噂はあなたも知っているでしょ? 彼を失墜させる証拠が欲しいの」
「……であれば、手を引いたほうがよろしいでしょうな」
「どういうこと?」
「彼奴にまつわる噂は全て貴女の依頼人がでっち上げたマガイモノ。我は議員殿に近付く迷惑千万な輩を見張る為、ここに来たのです」
私の依頼人と哀牙、どちらがウソを吐いているかなんて明白だ。私は彼の探偵能力を妬ましいほどに買っている。哀牙の言葉はとても信用性のある情報だし、探偵業にウソなど紛れさせればそれこそ信用問題に関わる。
「更に貴女の依頼人は他の探偵も雇っておられる。あちこちから匂うのですよ、同業者のカホリが」
他の探偵の仕事は私と同様の依頼もあれば、スキャンダルを作り出そうとする卑劣な依頼もある、と哀牙は言った。調査の裏付けに関する話まで添えられて、一体どうやってそこまで調べ上げたのか、私は改めてこの男を敵に回したくないと思った。
「良いの? そんな情報を私に与えちゃって」
「ええ。我の愛する名前殿が悪しき者の毒牙にかかるのは阻止せねばなりませぬ」
私の耳にさらに顔を近付けると、唇が微かに触れて生温い吐息がかかる。弄ぶような、けれど甘美な口づけにビクリと肩を揺らすと、哀牙がクツクツと喉を鳴らして笑った。
「証拠が欲しければ、このあと我が探偵事務所でジックリと」
声のトーンを落とし、じっとりと舐るように哀牙が囁いた。その直接的な誘いに、私は今、底のない沼へ足を踏み入れようとしているのではないかと錯覚した。僅かな恐怖と背徳感を感じて哀牙から体を離す。……この男、紳士を気取ってはいるが近付きすぎると危険だ。
「おや、熱でも出ましたかな? 可愛いお顔が林檎のように真っ赤だ」
「あなたこそ手が震えているわ。寒いのかしら?」
「やはり貴女は我を誘っておられる。どうですかな、いよいよ我のものとなるのは」
私はこの男から何度もアプローチを受けているが、本気にせずいつも軽くあしらっていた。
同じ仕事をしていれば依頼が重なる事もある。だがこの男とは、その頻度が尋常ではないくらい多い。大体は私より先にこの男が解決してしまう上、私の助けあっての解決だと慰めごとを言う。そういう経緯がある為、彼と恋仲になるどころか、いつかこの男の鼻を明かしてやりたいと思っていた。
「……必死ね」
彼が私を好いているという事実だけが私に僅かな優越感を感じさせてくれる。趣味が悪いとは思うが、私が哀牙に勝てる要素などそれ以外に何も無い。
天才的な頭脳を持ち、完璧な推理をこなす哀牙の唇が、私に愛を囁くことにしか使われないだなんて全くもって贅沢すぎる。
「ええ、必死です。貴女に相応しい男になる為に、それはそれは必死なのですよ」
哀牙の気持ちを嘘偽りだなんて思ったことは一度もない。けれどもし彼の気持ちに甘えてしまえば、きっと私は弱くなる。虚勢の皮まで剥がされてしまえば、私は彼の前に立つことすら出来なくなるだろう。
彼の真っ直ぐな好意は、いつも遠慮なく私が必死に作った壁を容赦なく破ってくる。その度に心を強く揺さぶられるのだが、私の下らない自尊心が彼の好意を受け入れるのを拒否してしまう。
……本当に、下らない。
胸が果てしなく締め付けられて、私の身体全体が、本当は哀牙を好きだと、気持ちを伝えたいと叫んでは反響している。
それなのに私は臆病だから何も答えられずにいると、哀牙が私の手をそっと掴んで自らの口元へ持っていった。
「こんなに好きにさせておいて、貴女は罪な方ですな」
切なげに眉を寄せて、私の手のひらに口付けをした。唇の柔らかい感触が薄い皮膚を伝わって、じんわりと体の奥が熱を帯びる。私の反応を見た哀牙は満足そうに口端を上げて微笑んだ。
この世界を彩る優美な音楽が終わりを告げると、哀牙は私の体から手を離した。シンデレラは0時までに帰らなければなりません、と巫山戯た事を言い出す彼に失笑した。
「夢のようなひとときを有難う御座いました」
「……こちらこそ」
哀牙は最後に私の手を優しく握って、優雅に会釈をした。姿勢を戻してその双眸に私を捉えると、
「探偵という仮面を外せば我らもただの男と女。いつでも両手を広げてお待ちしておりますぞ」
……と言い、先刻までの熱烈なアプローチが嘘の様に、哀牙は身を翻して私から離れていった。
けれど私はまだ夢心地で、哀牙に触れられた胸元も背中も手のひらも、体中が熱くて堪らなかった。鼓動は鳴り止まず、どうしようもなく狂おしい気持ちに駆られた。
そして私は、この件から手を引くことにした。
数日後、国会議員の悪い噂は、哀牙の言っていた通り私の依頼人が黒幕であったと新聞やテレビで報じられた。
いつもなら、哀牙にまた先を越されて憎たらしいと思う場面なのだが、今はただ清々しい気持ちで溢れていた。哀牙を妬む気持ちはただの羨望であったと素直に認めた時、私は心のわだかまりのようなものが溶けていくのを感じた。
今、私が望んでいるのは、あの夜の続き。
目の前のドアをノックするとすぐに中から返事が返ってきたので、私はドアノブを握ってゆっくりと開け、お邪魔をする。
室内にいる人物は私の姿を認識すると目をパチクリさせた。意外な人物がやって来たというのは自分でも認める。
「これは珍しい客人だ。さて、どのようなご依頼でしょうかな?」
「依頼じゃないわよ」
哀牙が立ち上がり、私を客席へ案内するのでそのまま付いて行く。
丸いテーブル席に置かれたアンティーク調の椅子を引いて、座るように促されたが、腰を下ろさず哀牙に手を伸ばした。
「……今の私は探偵じゃないわ」
「まさか、お辞めになったので? な、何故貴女ほどの実力の持ち主が……!」
「探偵は辞めてないけど、今の私は探偵としてここに来たわけじゃないの」
「つまりそれは……どういうことでしょうかな?」
いつもは冴えているくせに、どうして自分の事になるとこんなに鈍いのだろうか。ここまで言っても気付かないなんて……私は今まで、そんなにも哀牙の気持ちに応じない態度を見せていたのか。少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「ただの女を届けに来たのよ! あなたに!」
はっきりそう告げると、哀牙は口を開けてぽかーんとした……のも束の間、パッと嬉しそうな笑顔に変わり、私の手には目もくれずにいきなり抱き付いてきた。
「名前殿ぉ――! 愛、愛、愛しておりますぞ――ッ!!」
「やっ、やめっ……」
突然の抱擁に驚いたが、飾ることのない素直な気持ちを丸出しにして、痛いくらいに私を抱き締めてくる哀牙が愛しく感じる。この愛を今度こそ私も受け入れようと勇気を出して、恐る恐る哀牙を抱き締め返した。
自然と、心に張っていたバリアのような物が音もなく消えていくのを感じた。哀牙を受け入れると同時に自分の心の弱さも抱き締めてあげられたような気がして、目の前が滲んだ。
「私も愛してるよ……、哀牙」
小さな探偵事務所で芽生えた大きな愛は、慈しみ育まれ、今日も明日も明後日も、私と哀牙の愛を紡ぎ続けてくれるのだ。
廻るワルツは揺れ融けて
(20161125)
Smotherd mate