……困りましたな。
せっかく優雅なランチタイムを過ごそうと入ったカフェは、注文後に席に着くというもので、料理を受け取っていざ座ろうとした時にちょうど全て埋まってしまった。
トレエを手に立ち往生をしていると、控えめな声が我に呼び掛けた。
「どうぞ、相席で良ければ」
「これはこれは、心優しきお嬢さん! ありがたくその親切を享受させて頂きますぞ!」
我は2人席に掛けているお嬢さんの向かい側の椅子を引いて座る。この大都会で人の温かさに触れたのはいつぶりであろうか。こんな些細な事にすら喜びを感じてしまう。
「我は星威岳哀牙、この街の名探偵にござい! ここで会ったのも何かの縁。宜しければ名前を頂戴したいのですが」
「私は苗字名前です。哀牙さんって確か新聞に載っていた……」
「ズヴァリ! 貴女がご存知の哀牙とは今、目の間にいる我の事でしょう!」
記憶を探るような名前殿の言葉を肯定すると「やっぱり」と嬉しそうに笑った。既に我の事をご存知であったとは。いやはや、恐悦至極なことですな。
名前殿が新聞で見たというのは、我と仮面マスクが高菱屋百貨店の屋上にて一騎打ちをしている記事だろう。
「高菱屋の美術展、私もよく行くんです。そこでも何度かお見掛けしたことがありますが、まさかこうしてお食事出来るなんて!……って私、怪しい人みたいですね、すみません……」
「あいや! ともすれば、我のファンですな? クックック、隠さずとも良いのですぞ!」
自信を込めてそう言うと名前殿はクスクス笑い、サンドイッチを頬張った。実にくるくると表情を変える可愛らしい女性だ。
最初、この店に入った時は最悪な気分で沈んでいたが、彼女に声を掛けられて心はどんどん明るくなっていった。
我もスプウンを手に取り、クラムチャウダアを食べ始める。いつもより美味しく感じるのは、1人ではないからだろうか。
他愛ない雑談をしながら昼食を終えた我々は次の客の為に席を立ち、そのまま別れた。
こんな風に楽しく会話が出来る相手に出会えたのは久しぶりだ。連絡先くらい聞いておけば良かったと後悔した。
高菱屋百貨店とは、この街でも有数の超高級デパートで、たびたび展示会が開かれている。
そして我は、半年ほど前から現れた怪人☆仮面マスクと幾度も攻防を繰り広げていた。他にも美術館はあるのだが、戦場は大体が高菱屋。そこに展示される品は超一流で価値あるものばかり。彼奴が狙うのも頷ける。
もしかしたら、美術館を周っていれば再び彼女と出会えるかもしれない。そう思うと探偵としての仕事にも腕が鳴り、意気揚々と事務所へ戻って行った。
それから我は、依頼が無い日は暇さえあれば様々な美術館を巡った。無論、我が美術的センスを磨く為――だけではなく、多少の邪な気持ちがあるのも否定できない。
回廊を曲がり、『考えても仕方ない人』などというよくわからない銅像を眺めていると、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「あれ? 哀牙さんじゃないですか?」
「あいや名前殿! これはこれは、偶然ですな!」
ビンゴだ。名前殿と再び巡り会えた高菱屋の展示会場に心の中で感謝をする。彼女に会えた喜びは相当だったのか、思った以上に胸が高鳴っている。
「またお会い出来て嬉しいです」
「なんと! 我も同じく思っておりましたぞ」
名前殿はリップサアビスかもしれないが、我は彼女に再会できて心底喜んでいた。彼女の雰囲気はとても柔和で、一緒に居て心地が良い。
「折角ですし、一緒に見ませんか?」
「我で良ければ喜んで」
名前殿からの嬉しい誘いに、心臓の鼓動が一層強くなるのを感じた。彼女には心を許してしまう何かがある。
逸る鼓動を押さえつつ、数々の作品を共に見て回っていると、名前殿がふと呟いた。
「仮面マスクがこういった美術品を盗んでしまうのも、わかる気がしますね」
「ほお、何故ですかな?」
「他人の目に触れさせず、自分だけがその作品を愛でたい。そう思う瞬間は誰にでもあると思います」
「成程……」
「けどいずれ積もるのは……虚しさだけ」
素晴らしいものを見た感動を他人と分かち合えないのは寂しい。そう言いながら、名前殿が憂いを帯びた瞳で我を見つめる。仮面マスクの狼藉に対して心を痛めているのだろうか、憤っているのだろうか。彼女の心中は定かではない。
「そう思うと、やっぱり盗みはよくありませんね」
「……正義感あふるるお方なのですな」
それだけしか返せなかった。
彼女の真実を貫くような瞳が、何かを言おうとして開きかけた唇が、行き場を失って下ろした指先が、何かを示唆しているように感じた。
そして展示会場を後にして、名前殿は去って行った。また連絡先を聞けなかったなどと悔やむ余裕など、今の我の心には無かった。
我は彼女に隠し事をしている。
アレ以上の言葉を吐けば、きっとボロが出ていた事だろう。
仮面マスクの盗みに対し、悲しみと怒りを見せた彼女の横顔はとても綺麗だった。その感情を生み出したのが自分自身だと思うと、何とも言えない葛藤のようなものを感じた。
我は最低だ。
最低な人間だ。
それでも、己の心を保つにはこうする他ない。
満たされたい。欲しても欲しても、まだ足りない。
貴女に手を伸ばせば、繋いでくれるのだろうか。
だがそんな勇気など、どこにもない。
何度も振り払われたこの手は、誰かに縋ることを辞めてしまったのだ。
「虚しさなど、とうの昔に忘れたのですよ」
ポツリと呟いたその言葉は、やはり誰にも届かなかった。
数日後、我は仮面マスクとして予告状を出した。
名探偵など仮初めの姿。その実態は下らぬ盗人だ。
今回の狙いの品は、名前殿が一番気に入っていた『ヒガシの女』という絵画。
警備員の中に仲間を潜ませ、手筈通りに仕掛けを作動し、額縁の中の絵画のみを盗み出す。額縁に残されたのは、仮面マスクのカードのみ。実に見事な手際だ。我ながら惚れ惚れする。
高菱屋のビルの裏通りへ躍り出る。ポリバケツに警備員のコスチュウムを投げ捨て、盗んだ絵画を丸めて筒の中にしまう。警官や警備のものは仮面マスクに扮した仲間が引き付けてくれている。
いざサラバと、高菱屋から逃げ出そうとした時だった。
「……哀牙さん?」
我の目の前には名前殿が立っていた。
深い暗闇に染まる路地裏で、間接的な柔い光が彼女の姿を薄っすらと照らす。
「名前殿……? 何故、此処に?」
ぐらりと、世界が揺れた気がした。
「仮面マスクの予告状、ニュースになってましたから……哀牙さんも居ると思って」
名前殿は我から視線を逸らすことなくそう言った。
ゆらゆらと揺れる名前殿の指先が、やがて狙いを定めたように我の手中にある筒を指す。
「もしかして、その手に持っているものは……」
抑揚なく、名前殿は言葉を紡ぐ。
「そうかもしれないと心のどこかで思っていた。でも、信じたくなかった」
彼女の瞳は真実を知ってしまった衝撃からか、僅かに潤んでいた。
失望されただろうか。嫌われただろうか。
それでも悪足掻きのように、我は嘘を重ねる。
「……何か勘違いをされているようだ。我は憎き怪人からこの絵画を……」
「だから哀牙さんは、いつもあんな目で美術品を見ていたんですね」
だが我の言い訳など意にも介さず、話の軸を意図的にぶれさせる。
彼女の発言が気になり聞き返した。
「"あんな目"とは?」
「寂しそう――でした」
「……よくわかりませぬな」
"寂しそう"だと?
何を言っているのだ、この女は。
「哀牙さんが、寂しそうでした」
やんわり否定をすると、再びはっきりとそう告げられた。そんな事を言われたのは初めてだ。
「あなたが手に入れたいのはそんな物じゃない」
「何を……」
「どんなに価値ある物を盗んだところで、あなたが本当に欲しいものは……」
「だ、黙れ!」
彼女の口を封じようと拳で壁を強く叩く。鈍い音が響いて我の右腕に重い振動が走り、地面には土壁の破片がパラパラと落ちていく。
「哀牙さん……」
ゆっくりと名前殿が我に近付いて来る。その瞳には悲しみを携えたまま、今にも消えそうな灯火にも似た笑みを浮かべて。
「私も、ずっと独りぼっちだったから」
「愚ッ……!」
やめろ、そんな目で見るな。
憐れむような、可哀想なものを見るような目で、我を見るんじゃない。
「き、貴様に何がわかるッ! オレの、……我の何が……!」
嘆く我に向かって名前殿が腕を伸ばし、気付けば我は彼女に抱き締められていた。
胸元に顔を埋められ、背中に回された手は我を離そうとしない頑なな意志が感じられた。
「もう、良いんです。私がずっと、あなたの傍に居ますから」
彼女の紡ぐ言葉が、胸に溶け込んでいく。
その手を振り解くこともせず、ただ名前殿の体温と鼓動を受け入れた。
「私じゃ頼りないかもしれない。あなたが本当に望むものを与えられないかもしれない」
少しずつ心の鍵が外されていくような感覚。
それはいつの頃からか、自分の心を守る為に掛けた……遠い残響にも似た錠前。
「それでも……愛しています、哀牙さん」
堰き止められていたダムが決壊したかのように、無意識に我が両の眼から涙が零れていた。重力に逆らわぬまま、ぽたりぽたりと地に落ちていく。
力なく彼女の体を抱き締め返す。
女性特有のしなやかな体は反発することなく、我からの接触を赦した。
――そうか。
自分が本当に欲しかったものは、これだったのか。
彼女の背に回した腕に力を込め、更に強く抱き締める。縋るように、自分の物ではない熱を求めた。それはまるで、愛を囁くような温かさだった。
それから我は、今まで盗んだ美術品を仮面マスクから取り戻したかの如く各々の美術館へ返還した。
その帰り道、我は隣を歩く名前殿に尋ねる。
「これで宜しいかな? 名前殿」
「はい、ありがとうございます」
「しかし我を警察に突き出さぬとは……」
不思議そうに言うと、名前殿が我の手を握った。その手を持ち上げながらニッコリと歯を見せて笑う。
「だってそうしたら、哀牙さんと会えなくなってしまうし。私も意外とワルなんですよ?」
「……嬉しい言葉ですな」
「では……更に喜んで貰えるかわかりませんが、」
ひと呼吸置いて、名前殿は頬を染めながら繋いだ手とは反対の手を顎に当てた。何を言われるのだろうかと少し緊張してしまう。
「実は私、ずっと前に哀牙さんを美術館で見掛けた時に一目惚れしたんです。だからあのカフェでご一緒出来た時は、本当に夢のようでした」
「……!」
思いもよらぬ言葉に一気に顔が火照るのを感じた。そんな事を言われれば、誰だって嬉しいに決まっている。
喜びがこみ上げて堪らなくなり、名前殿の両手を自分のそれで優しく包み込んだ。我が両手に収まる彼女の一回り小さな手が愛おしい。
「名前殿、今度は我が貴女を幸せに致しますぞ」
「……私も、負けません」
名前殿は照れながら、けれど嬉しそうに目を細めた。それはこちらまで幸せになるような笑顔だった。
我は人として壊れていると思っていた。
しかし今は、生きることを乞われている。
世界でたった一人の彼女に、恋われる身として。
こわれもの
(20170216)
Smotherd mate