探偵事務所のドアを強めにノックし、返事も待たず室内に踏み込む。正面の窓の手前にある大きなデスクに腰掛け、英字新聞を虫眼鏡で眺める人物は私の方になど目もくれない。この人が私を迎えてくれるなんて思ってなかったけど、そんな事は気にせず大股で歩み寄る。
「哀牙探偵! 事件です!」
「階段を上るけたたましい雑音、必要以上に激しいノック、乱暴なドアの開け閉め。すぐにわかりましたぞ、貴女だと」
「うぐっ、すみません急いでいたもので。そんなことより事件です!」
"事件"という言葉に哀牙探偵は英字新聞から私へゆっくりと視線を移す。そして待ってましたと言わんばかりにニヤリと口角を上げた。
一難去ったら二難来る
彼を連れてやってきたのは事務所からそう遠くない場所にあるビタミン広場。現場には数台のパトカーと警官と鑑識、三人の容疑者、沢山の野次馬、そして地面に横たわってピクリとも動かない被害者の姿があった。被害者は血の海に沈み、すでに事切れている。
「我が灰色の脳細胞を必要とするステエジは、いつも哀しみに溢れておりますな」
「また変なポエムを……」
「何か言いましたかな?」
「い、いえ! 何でもありません!」
哀牙探偵にジト目で睨まれ、私は姿勢を正して敬礼する。ここで機嫌を損なってはいけない。彼の言う通り、その灰色のなんちゃらが必要なのだから。
そう、私は事件が起こる度に哀牙探偵事務所へ赴いては、彼の類まれなる知恵と頭脳でそれを解決して貰っている。今回の事件も彼が必要だと判断して要請に来た。あと現場から事務所が近かったし。
「では苗字刑事、事件の概要を」
「はい。被害者は二十代女性のコンビニ店員。仕事からの帰宅中に殺されたようです。目撃者の女性の話によりますと、悲鳴が聞こえたので駆け付けるも被害者はすでに亡くなっており、現場から逃走している犯人の姿を見たとの事です」
「して、犯人は?」
「広場の男子トイレに逃げ込んだのを見てすぐに通報したようですが……どうやらトイレには三人も居たようで。今は全員が事情聴取を受けています」
ちらりとイトノコ先輩達に目を向けると、三人の容疑者は誰もが『自分はやっていない!』と捲し立てていた。それを隣の町尾先輩がなだめつつ話を聞こうとしているのだが、興奮していてマトモな会話にすらなっていない。
トイレは全員が個室を使用していたから互いの姿は見ていないと言うし、厄介だなぁ。
「では被害状況から確認ですな」
「はい、こちらです」
案内すると、哀牙探偵は横たわって死んでいる被害者の傍にしゃがみ込んだ。胸元は自らの血で真っ赤に染まっており、失血死だとひと目で分かる。哀牙探偵は近くに居た鑑識に声を掛けて凶器を受け取り刺し傷と見比べ始めた。ビニールに入っているそれは刃渡り16センチほどのナイフで、こちらも見事に根本まで血が付着している。ちなみに男子トイレに落ちていた。
「哀牙探偵! 私の推理では、犯人は目撃者の女性なのでは?」
「苗字刑事。貴女のその目と耳は飾りかな?」
「ななっ、何でですか!」
「本来ならば銀色に輝くシルバアナイフ、今は根本まで緋色に染まっておりますな。このように人体に深く刺すのは女性の力では不可能。刺した後に男子トイレに凶器を投げ込む暇もナシッ!」
「じ、事実は小説よりも奇なりと言いますし」
「事実より貴女の方が誠に奇怪ですな」
フッと鼻で笑われた。確かに軽率な推理だったけどここまで頭ごなしに否定されるとは。その上「お口にチャックですぞ」と言われてしまった。失礼な。ぐぬぬ、と何か反論しようと思っているとマコ先輩がやってきた。哀牙探偵にビシっと敬礼を決め、挨拶をする。
「哀牙探偵、お疲れ様ッス! 捜査協力、ありがたいッス!」
「これは須々木刑事。本日もチャアミングですな」
哀牙探偵は私への塩対応とは正反対のジェントルマンな挨拶を返す。なにこの態度の差。酷くない? いつもの事だけど!
再び被害者に視線を戻した哀牙探偵を尻目に、私はマコ先輩にぼそぼそと愚痴をこぼす。
「先輩、私ばっかり酷い扱いなんですよ。チャアミングなんて言われたことないです」
「それは名前ちゃんに気を許している証拠ッスよ。心配無用ッス!」
マコ先輩はいつもの明るい笑顔できっぱり否定してくれた。気を許してる証拠かぁ…本当にそうかなぁ……。せっかくのフォローをいまいち納得できずにいると先輩が言葉を続けた。
「名前ちゃんが現場に居る時と居ない時じゃ随分機嫌が違うッスよ。須々木にはわかるッス!」
「ええ〜? 本当ですか〜?」
「自信を持つッス! 名前ちゃんにしかあの人は手駒に出来ないッスよ!」
て、手駒って……むしろ私が手駒にされているんだけど。でもそう言われると少し自信が出てきた。よし、マイボトルに入れてきた紅茶を哀牙探偵の応援ついでにおすそ分けしよう。
パトカーにある自分のバッグからボトルを取り出して、まだ熱を残す紅茶を紙コップに注ぐ。哀牙探偵はどこかと見回して探すと、どうやら今度は容疑者達に話を聞いているようだった。小走りで駆け寄りながら声を掛ける。
「哀牙探て……おわあッ!?」
足元を見ていなかったせいで石に躓いてしまい、紅茶の入ったカップが私の手から離れた。それは見事な放物線を描き、容疑者の一人の腕に着地した。
「熱ッ! 何をする!」
「ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
紅茶のほとんどが男性の腕にかかってしまったらしく、袖がびしょ濡れだ。服の上からとはいえ火傷したかもしれない。慌てて彼の袖を捲ると、しかし強い力で手を振りほどかれた。
「さ、触るんじゃない!」
「す、すみません。あの、タオルです……」
男性にものすごい剣幕で怒られ、萎縮しながら恐る恐るタオルを差し出した。舌打ちをされ、乱暴に奪い取られる。そして私を睨んでいるのは彼だけではなかった。横から強い視線を感じる。言わずもがな哀牙探偵だ。
「苗字刑事、何をなさっているので?」
「あうう……その、哀牙探偵に紅茶を……」
「ほお。この哀牙にホットシャワアをぶっかけてダメエジを与えようとしたのですか」
「うぐぐっ! ち、違……っ」
「やはり少しの間引っ込んで頂こう――と思いましたが、目を離せばまた珍事を起こすやもしれませぬな。致し方ない、刑事、容疑者について説明を」
今度こそ見放されると思ったが、哀牙探偵はまだ私にチャンスをくれている。名誉挽回だ、ここで有益な情報を哀牙探偵に渡してみせる!
落ちた紙コップを拾って片付けた後、手帳を取り出して自分なりにまとめた内容を哀牙探偵に伝える。
「一人目は詩座(しざ)さん。理容師。見ての通りアゴヒゲです。特注の仕事道具を取りに行った帰りなので、数種類のハサミを持っています。
二人目は刈多(かった)さん。造園家。ちょびヒゲです。近くで伐採の仕事中でした。もちろん仕事道具のカッターや高枝鋏も腰のバッグにあります。
三人目は芽巣(めす)さん。外科医。マスクをしていますがヒゲは無し。これから仕事だそうでバッグには医療器具が数点あります。私が紅茶を零してしまった方ですね。
三人共被害者との面識は無しと言っていますが、現在調査中です」
揃って刃物を扱う仕事だなんて全員が疑わしく思えてきますね、と添えながら簡単な説明を終えると、哀牙探偵は怪訝な顔をしながら疑問を口にした。
「……何故ヒゲの有無について語るので? 苗字刑事はそのようなフェティシズムがお有りかな?」
「あ、そうそう! 目撃者の情報によると犯人はヒゲが生えていたそうです!」
「……そういうのはもっと早く――いえ、貴女に何を言っても無駄ですな。よおく存じております」
「酷い! ハッキリ言ってくださいよ! 改善の余地があるかもしれないじゃないですか!」
「それを自分で言い出すとは……」
哀牙探偵の心無い言葉にショックを受けていると容疑者の人達からブーイングが入ってきた。
「おい、俺達はアンタらのコントを見に来たわけじゃねえんだよ!」
「いい加減仕事に戻りてえんだが」
「午後から手術があるんだ、早くしてくれ!」
人が殺されているというのに随分と勝手なことを言うものだ。私だって出来るものならさっさと解決している。憤りを感じていると、哀牙探偵が三人に向かって虫眼鏡を突きつけながら言った。
「ご安心なされよ皆々様。美しき推理は既に我に真実を囁いております」
「本当ですか! 哀牙探偵!」
「貴女はお口にチャック。次はありませぬ」
「…………」
威圧するように言われて大人しく口を噤む。哀牙探偵、自分の推理中に口を挟まれるの嫌いだからなぁ。最初の頃はそれを知らずに横ヤリ入れたら本気で怒られた。ちょっと懐かしい。
「犯人はズヴァリ! 外科医の芽巣殿、貴方だ!」
「ええ!? ヒゲ生えてないじゃないですか!」
「……苗字刑事。貴女はもう少し脳みそを使った方が宜しいかと」
チャックがたったの三秒で破られた事と私の下らないツッコミに対し、哀牙探偵は呆れ顔で自分の頭を指先でとんとん叩いた。一応これでもフル稼働中なんだけど。
「芽巣殿、マスクに血が滲んでおりますぞ。急いでヒゲを剃った時にでも切ったのでしょうな」
「なにィっ!?」
芽巣さんは驚き、マスクを慌てて外した。しかし私が見る限りマスクに血など滲んでいない……が、よく見ると彼の顎の辺りには小さな切り傷があった。
「やはり、そのマスクは傷を隠す為の物でしたな」
「フン、だがそれだけじゃないか! 俺が殺したという証拠にはならない!」
芽巣さんは哀牙探偵に騙されたと気付き、マスクを地面に投げ捨てた。見れば内側には薄っすらと血が滲んでいた。
「クックック、片腹痛いですなあ。先程このトンチンカンな刑事が貴方に紅茶を零し、袖を捲くられた時に見えたのですよ。……そのふくよかな体型に似合わぬ細腕が」
確かに芽巣さんは細長い顔の割に少しふっくらとして……って、トンチンカンって言った? 今この人、私の事をトンチンカンって言いませんでした? 紅茶を零した事がこんな形で役に立つとは思わなかったけど、それよりトンチンカンって言葉の方が私には衝撃なのですが、哀牙探偵?
「その大きな腹に隠しているのは返り血の付いた服とヒゲを剃る為に使ったメス。違いますかな?」
「なっ、なにをっ……!」
芽巣さんは誰が見てもわかるくらいに動揺した。傍で聞いていたイトノコ先輩の不信が強まり、芽巣さんに詰め寄る。
「アンタ、服を脱ぐッス!」
「や、やめろ、触るな! クソッ!」
腕を引っ張った瞬間、服と体の隙間からバサリと上着が落ちてきた。ヒゲを剃る時に使ったと思われるメスと、細々とした毛(多分ヒゲ)も。こんなに証拠が出てきてしまってはもう弁明なんて不可能だ。
「哀牙探偵、たったあれだけでよくわかりましたね!」
「真実とは少し裾を捲るだけで見えるものなのですよ」
ドヤ顔で言う哀牙探偵。それ言葉通りの偶然に過ぎないっていうか、むしろ私が紅茶をこぼしたおかげじゃないかな。
「ああそうだよ、俺が殺した! あの女は――」
「犯人確保ッス!」
「イトノコ先輩に続け!」
これから真犯人が自供するぞという時にずイトノコ先輩と町尾先輩が掴みかかった。地面で揉み合いを始めて……って、いつの間にか哀牙探偵まで混ざってる。せめて探偵くらいは自供を最後まで言わせてあげればいいのに、容赦ない。
「苗字刑事! 早く手錠をッ!」
「あっ、はい!」
引き気味にそれを眺めていると哀牙探偵に命令され、慌てて手錠を取り出した。犯人の手首めがけてそれを掛けて、逃さないようにともう一つの輪を自分の右手首に掛ける。
「犯人、捕まえました!」
手応えを感じて興奮気味に右腕を引っ張り上げた。しかし、私の手錠に繋がっていた人物は――
「……苗字刑事……」
「……あ、あれ? 何で哀牙探偵が!?」
「な、に、を! なさっている!?」
怒り心頭の哀牙探偵は、手錠をかけられた手とは反対の手の人差し指で私の鼻頭を突いた。まさか哀牙探偵を逮捕してしまうなんて、モリアーティもびっくりだ。
「まったく、犬の方がよっぽど手錠を使いこなせますぞ!」
「ふぐぐ……ごめんなさい……」
カギ、カギ、とポケットを探るが布地の感触しか無い。……嘘。カギ、失くしちゃった?
動きを止めて顔を真っ青にしている私を見た哀牙探偵はそれを察し、大きく息を吐いて肩を落とした。そんな事をしている間に、犯人はとっくにパトカーに乗せられていた。
「あの、イトノコ先輩! 手錠が……!」
「何してるッスか名前くん……。自分らは先に署に戻ってるッスよ」
「町尾先輩! 鍵を下さい!」
「ごめん、僕も手錠は持ってきてないんだ。じゃあまた後でね苗字さん」
「マコ先輩いいぃぃ!!」
「悪いッスけど、須々木も役に立てなさそうッス。哀牙探偵、名前ちゃんを宜しく頼むッス!」
そう言って皆はパトカーに乗り込み、私を置いて行ってしまった。しかも哀牙探偵と一緒に。
というか皆は笑ってたけど私は全然笑えないよ! お願いですからもっと危機感を持ってくださいよ! それより犯人の動機は!? 更なる自供は!? 犯行時の詳細は!!?
「苗字刑事、失礼ながらハッキリ言わせて頂く。貴女は人類最高の"アホ"でございますな」
「ううう、否定できません……」
めそめそしながら大いに嘆いていると、手錠ごと腕を引っ張られた。哀牙探偵は勝手に歩きだすので仕方なく私も付いて行く。行き先を尋ねると、どうやら探偵事務所へ帰るらしい。え、私まで?
「我が事務所にあるピッキングツウルで解錠するしか他に方法が無いように見受けられる。四の五の言わず付いてくるのが宜しいかと」
「良かった! 一生このままじゃないんですね!」
「そのように喜ばれてはツマラヌものですな。貴女の苦しむ顔が見られるのなら、このままでも構わないのですが?」
「えええ哀牙探偵ってば、そういうフェティシズムがあるんですか?」
ドン引きしながらそう返すと哀牙探偵は顔をひきつらせた。自分の言った言葉がまさしく返ってくるとは思わなかったのだろう。不機嫌気味にまた手錠ごと引っ張られて足がもつれて転びそうになった。
「ジョオクもわからぬとは実に哀れッ! とっとと参りますぞ!」
「痛ッ! 引っ張らないでくださいよ〜!」
まるで散歩中の犬にでもなった気分だ。さしずめ哀牙探偵は飼い主かな。でもムチばっかりだと犬は怯えて逃げちゃうんですからね。
「本日の働きに免じ、特別に我が事務所で紅茶を淹れて差し上げましょう」
「あ……ありがとうございます!」
と思っていると、しっかりアメまで用意されてしまった。それだけでご機嫌になってしまう私はやっぱり私は哀牙探偵の手駒なのかもしれない。
(20170322)
Smotherd mate