初めての海外旅行。私は日本からそう遠くはないクライン王国へやって来た。繁華街にはいくつもの看板やお店が並び、私を含む観光客と地元の人で大層賑わっている。通りのところどころにクライン教を彷彿させるモチーフが飾ってあり、地元の人達はみんな法衣を着ている。ガイドブックにも載っていたが、クラインは"神秘と信仰の国"らしい。
クラインに生息するイクサドリのライオンのような鳴き声には驚いたし、勾玉の形をしたおまんじゅうの"まがたまん"は普通に美味しい。店主は、私が観光客とわかると『アッピラッケー』とクラインでの挨拶をしてくれたので、私も見よう見まねで挨拶を返す。『ごきげんよう』という意味だ。
初めは不安だった一人旅行も今では十分楽しみながら、手に持ったまがたまんを頬張りつつ上機嫌で通りを歩いていた。
「さて、今日チェックインするホテルは……ん?」
予約していたホテルを探す道中、通りに面した細い路地裏から男性のうめき声が聞こえてきた。これだけ宗教の熱い国なら幽霊の一人や二人は居るのかも、とぞっとしたが、いやいやそんな非現実的なものを私は信じないぞ。苦しそうな声だったし、もしかしたら誰かが倒れているのかもしれない……そう思って、私は恐る恐る路地裏へ足を運んだ。
少し入り組んだ路地裏は奥へ行くほど建物によって光が遮られ、暗くなっていく。途中でT字路になっており、声も聞こえなくなってしまった。どうしようかと迷った末、私は「誰か居ませんか? 大丈夫ですか?」と見えない相手に向かって言った。すると「ここで、ある……」という声が近くで聞こえてきたので、私はその声がした道へ入って行った。
その道は行き止まりになっていた。乱雑に積まれた箱があちこちに散らばっており、その向こう側にブーツを履いた足が見えた。すぐに駆け寄ってその姿を確認すると、声の主は辛そうな表情を浮かべて壁にもたれ掛かっていた。短い髪をオールバックにし、髭が生えている40代位の男性。首元には紫色のバンダナ、レンズが緑色の大きなゴーグル、軍隊を思わせるようなカーキーの軍服を着ていて、太腿あたりから血を流し、苦しそうに呼吸をしていた。
私はそんな様子の彼を見て驚愕し、すぐに腰を落として声を掛けた。玉のような汗が額に浮かんでいる。傷が痛むのだろう。
「だ、大丈夫ですか!? 早く病院へ……!」
私はバッグからハンドタオルを取り出して彼の汗を拭い、もう一枚の長めのタオルで彼の太腿を止血するように縛った。するとバタバタと複数人の足音がしたので、助けを呼んでもらおうとT字路の分かれ道へ戻る。しかし、彼らは私の姿を見るやいなや大声を張り上げた。
「そこの観光人! 男を見かけなかったか!」
「えっ……」
彼らの切迫した異様な空気を察し、私は男性の事を教えるか戸惑った。私の憶測だが、男性は彼らに追われ、傷付けられたのではないだろうか。……もし教えたら男性は殺されてしまうかもしれない。それ程の殺気を彼らから感じ取った私は別の方向に指をさした。
「はい! あっちへ走って行きました!」
「あっちだな! 行くぞ! 奴は怪我をしている、そう遠くへは行っていないはずだ!」
そう言い、彼らは私が指した方向へ慌ただしく走って行った。やはりあの男達によって男性は傷を負わされたらしい。遠ざかる足音が聞こえなくなり、私は安堵の溜息を吐きながら再び行き止まりの道へ戻り彼に声を掛けた。
「待っていて下さい、今救急車を……」
「いや、それには及ばないのである……。それより肩を貸して欲しいのである……!」
男性に言われるがまま、私はバッグを背負うようにして肩を空け、男性の体重を支えて立ち上がった。男性が連れて行ってくれ、と示した先は行き止まりの奥。道なんて何処にもなく、戸惑っていると男性は下を示した。そこにあったのは大きくて重そうなマンホールの蓋。さらに困惑していると「さっさと行くである」と急かされたので、仕方なく重いマンホールの蓋を開け、男性を連れて中へ入っていく。湿っぽくて腐臭がしてネズミの鳴き声がするその通路は、15分前まではあんなに楽しんでいた繁華街とはまるで別世界で、私は夢だったのではないかと思うくらい軽く絶望しながら歩みを進めた。蜘蛛の巣が私の顔にくっついて「ぎゃああああ!」と叫ぶとすぐ横にいる男性から「やかましいである!」と怒られた。
通路の行き止まりに、一本の心もとないハシゴが上に向かって伸びていた。登った先は小さな窓から木漏れ日が差す狭い一室。木で作られたその部屋は、生活するには最低限の家具や電化製品が揃っていたが、大分ガタが来ているように見える。私はとりあえず男性をソファにゆっくりと降ろし、バッグから救急箱を取り出して手当を始めることにした。
「すみません、脱いでもらっても良いですか?」
「最近の若い子は大胆なのである!」
「ち、違います! 手当をするだけです!」
「冗談である。かわいい反応であるな」
全く、こんな時に何を言うんだ……けど冗談が言えるくらいなら大丈夫だろう。水道で濡らしたタオルで傷口を綺麗にして消毒液をかけると、やはり染みるのか男性は小さく呻く。気を紛らわせようとして「痛くないですよーすぐ終わりますよー」と声を掛けると「子供扱いするなである!」とまた怒られた。大きめの絆創膏のようなものを貼り、ガーゼを当てて包帯を巻く。簡単な手当を終えて再びズボンを履いた男性の横に腰掛けると、隣の男性はニッと笑って「実にありがたい! 助かったのである!」と私にお礼を言った。
「そういえばまだ名前を聞いていなかったのである! 俺はダッツ・ディニゲルである!」
「私は苗字名前です。クラインへは観光旅行に来ました」
「名前か! では、何かお礼をせねばな!」
と言うと、ダッツさんは背中から大きなククリナイフを取り出した。ギラリと銀色に輝く刃は骨まで切れそうなくらい大きくて、私は顔を真っ青にして甲高い悲鳴を上げた。ち、違うである、とダッツさんは慌てて腰に提げていた小さなバッグからリンゴを取り出して器用に皮を剥き始めた。見事に繋がったまま細く長く足元に流れていき、目を奪われているとダッツさんにお皿を持ってくるように言われたので、私は今にも取っ手が取れそうな食器棚から一枚のお皿を取り出して軽く水で洗ってからテーブルに差し出した。ダッツさんはリンゴを手の上で切り分け、お皿の上に並べた。食べるように勧められ、私はあまり気乗りしないままリンゴを一つ手にとってかじる。シャリッという小気味の良い音と共に、甘い酸味と果汁が乾いた喉を潤してくれる。
「どうしてあんな所に居たんですか? 追われていたっぽいですが……」
「おっと、名前。ここから先はアンタみたいな世間知らずのお嬢さんが踏み込んではいけないのである」
この人を助けた時点ですでに片足突っ込んでいる気がするのだが、考えてみればそうかもしれない。事件性があるものなら深くは関わらないほうが良いだろう。大げさかもしれないが、事件に巻き込まれて命を落としたくはない。私はただの観光客で、たまたま怪我しているダッツさんを見付けたから助けた。ただそれだけだ。
「……わかりました。では、私はそろそろ失礼します。無理しないで、ゆっくり休んでくださいね」
私は納得し、ソファから立ち上がってバッグを持つ。腰掛けたままのダッツさんに頭を下げて挨拶をし、背中を向けた。ああ、でもまたあの薄暗い通路を通るのかと思うと少し憂鬱だ。
「あ、待つのである」
ダッツさんは傷を押さえながら腰を上げて、胸元からバンダナを取り出した。それをお礼として私の手首に巻いた。そのバンダナの中央には龍のような紋が入っていて、ダッツさんは「我々の守り神である。大事にするであるぞ」と言った。あれ、この国では鳥姫様が守り神だったと思うけど……また別の神様なのかな。まあ、いいか。
「ありがとうございます。お元気で」
「おう。またいつか会えるのだ」
私は深く考えず、別れの挨拶を済ませて彼の家を後にした。
――うそ! うそだ! どうしてこうなった!? 一体何が起こっている!? 私が何をしたっていうんだ!!
ぐるぐると同じ事を頭の中で繰り返しながら、私は必死に逃げ回っていた。そう、今私はクライン王国の街中で、先程ダッツさんの行方を聞いてきた男達に追い掛けられていた。
30分前、ダッツさんの家から出て行ってから私も早く休もうとホテルに向かう道すがら、再び彼らと出会った。私の姿を見るやいなや「貴様、革命派だったのか!」と叫びながらダッシュで私に向かってきた。追いかけられたら逃げるのは生き物の性。彼らの様子は尋常ではなく、私の話を聞いてくれそうにない。私も殺されてしまうかもしれないと思うと、絶対に捕まるわけには行かなかった。「クラインの反逆者め!」「革命派は根絶やしだ!」「旅行者のフリをして我らを騙そうなんてフザケた女だ!」一つも理解できない言葉が背後から飛んできて、あまりの恐怖に涙目になる。見知らぬ国で土地勘ゼロの私は早々に行き場を失い、仕方なく人混みに紛れようと再び繁華街へ躍り出た。ガクガクと震える足を叱咤させながら逃げていると、先程まがたまんを買ったお店の店主に声を掛けられた。
「お嬢さん、アンタ、ポルクン者だね! ほら、とっととココから逃げな!」
「えっ、ええっ……!?」
店主は地面のマンホールの蓋を開けて中を指差す。またマンホールか、と躊躇うが店主に無理矢理押し込められて仕方なく再びドブ臭い通路をただ走った。この国は一体どうなっているんだ!
しばらく道なりに走っていると見慣れたハシゴを発見し、私はすぐに掴んで勢い良く中に飛び込んだ。身体全体を床に投げ出し、抱えていたバッグが傍らに転がる。服の袖で汗を拭い、へたり込んだまま肩で息をする。ああ、生きてて良かったけど、随分と寿命が縮んだ気がする。ソファに座っていた男性――ダッツさんは、私の姿を確認すると怪我した足を気遣いながら近寄ってきて、ニッコリ笑った。
「おお名前! さっきぶりであるな! また会えて嬉しいのであーる!」
「ちょっと! 一体どういう事ですか! あなたを追いかけていた男達が私を仲間だと勘違いした挙句、急に追いかけて来て死ぬかと思ったんですけど! しかも革命派だとか、反逆者だとか、ポルクン者だとか言われて訳がわかりませんよ! ちゃんと説明してください!」
私はダッツさんの言葉を無視して腹の底から声を出して盛大に怒鳴りつけた。するとダッツさんは私の左腕を掴んで、バンダナを指す。それは先程ダッツさんが巻いてくれた龍の印があるものだ。
「うむ、この龍は現在の腐ったクライン王国に背く革命家の印なのである! つまり、これを堂々と付けて街中を歩いていたせいで警察に『旅行客を装った革命派』と勘違いされ、ポルクン者……『とんでもない奴』と罵られたわけであーる! ダーッハッハッハッハ!」
他人事のように腹を抱えて涙を零しながら爆笑するダッツさん。私は腸が煮えくり返るくらいのどうしようもない憤りを感じて、ダッツさんの顔を思いっきり平手打ちした。
「アンタのせいじゃないですか――――ッ!!」
「ぶへぇ――――ッ!!」
バチィーン、と部屋中に破裂音が響く。ダッツさんは引っ叩かれた勢いで床に倒れ込んだ。叩かれた頬を押さえながら目をひん剥いて私に抗議する。
「怪我人に何をするであるか!!」
「あなたこそ善良な一般旅行客を、なに自国のお家騒動に巻き込んでるんですか!」
「そもそも、俺の指名手配は街中にあるのに、気付かない方が間抜けなのである!」
「外国人の顔なんてそんな簡単に見分けられませんよ! それに指名手配のあんな怖い顔の人がこんな間抜けなオッサンとか、わかるわけないじゃないですか!」
ダッツさんはそこそこに痛いところを突いてくるが、負けじと私も言い返す。この人相手なら言い過ぎなくらいがちょうど良いと思う。ま、まぬけなおっさん……、と繰り返すとダッツさんはようやく静かになった。間抜け同士、言いたいことを言い合ったところで私も口を閉じた。放り投げたバッグを取り、埃を払う。
「じゃあ今度こそ失礼します!」
「待て、まだ行かないほうが良いのである」
また何か私を騙すつもりなのかと疑いの眼を向けるが、ダッツさんは至って真剣だった。どういう事か尋ねると、きっと私が予約したホテルには警察がすでに待機しているだろう、との事。なら空港にそのまま行きます、とムッとしながら言うと、「どうやって?」「方法は?」「交通機関なんてもっと危険である」としたり顔で返される。他の方法を提示しても「無理だ」と詳細に理由を説明され、八方塞がりとなってしまった。
「このまま革命家になるのが賢明である」
「だからー……はあ……」
そもそも革命とか、反逆とか、どういう事ですか。そう尋ねるとダッツさんは重々しく口を開いた。
クライン王国ではある事件をきっかけに『弁護罪』という法律が制定された。裁判で被告を弁護した者は被告と同罪にされ、被告が有罪になれば弁護人も当然有罪、そして即死刑となる。それからクライン王国には弁護士は一人残らず居なくなり、まともな裁判は行われず、犯罪者だろうと冤罪だろうと全員が今まで死刑にされてきた。
こんな横暴な法律が存在するのが間違いである、とダッツさんは握りこぶしをわなわなと震わせた。――私はそんな話を聞いたことが無かった。ガイドブックに載っているわけがないし、今日の観光中でも街中は至って平和に見えた。にわかには信じがたいが、もし彼の話が本当ならば私が警察に追いかけられた事も腑に落ちる。
「俺は別にアンタを騙そうと思ってバンダナを巻いたわけではない。むしろアンタみたいな人間が欲しかったである」
「え……」
「アンタも見たなら、あの男達が警察であることはわかったはず。だが怪我をしている俺を優先的に助けてくれた。そういう"正義"の心を持つ者こそ、我々革命派には必要なのである!」
ダッツさんの言わんとすることは理解出来る。しかし、日本でぬくぬくと平和に育った私にはいかんせん非現実的過ぎて頭が追い付かないのが現状だ。けれどそんな私が追い付くのをのんびり待っていてくれる程この国は優しくないのはもう身を持って思い知った。
「アンタを巻き込んだのは申し訳ないと思うが俺は本気である。しばらくこのアジトで匿ってやるから、その間に真剣に考えて欲しいである。どうしても無理だと言うのであれば、ほとぼりが冷めたら俺が空港まで送ろう」
ここはダッツさんの家ではなく革命派のアジトだったのか。道理で生活必需品が必要最低限しか揃っていないと思った。
この人の勝手な事情で巻き込まれたことがそもそもの原因ではあるが、今はそれを嘆いている悠長な事はしていられない。外に出るのも危険で母国に帰れる可能性は無いに等しい時点で選択肢はあってないようなものだ。彼の言う通り『正義感溢れる私』はそこまでの話を聞いた上で「わかりました頑張ってくださいサヨウナラ」なんてあっけなく去るのは忍びない。ああ、これも私の運命だというのだろうか。私はしばらく考えた後、意を決して返事をした。
「あなたのせいで行く宛も無いので、仕方なくここでお世話になります。けど、革命とか弁護罪とか……その辺は期待しないで下さい」
何とも曖昧でどっち付かずな返事だろうかと私は言ってから思った。けれどそれ以上の言葉が出てこなかった。しかしダッツさんは嬉しそうに顔を輝かせて、
「ああ、よろしく頼むである!」
と、私の手を強く握った。
ただの海外旅行のはずが、まさか一国の運命を担うお手伝いをする事になるなんて誰が想像出来ただろうか。しかしこんな事はまだ序の口で、私が真に革命派の仲間入りを果たし、数奇な運命を辿った後に、この国を変える事になるのは…………もっとずっと未来の話である。
「なに勝手なナレーションをしてるんですか、ダッツさん」
「と、なれば良いなーと思っただけである!」
不覚の革命の命運
(20160928)
Smotherd mate