生きるか死ぬかの乱世で、迷いは一瞬たりとも許されない。
自室ではらりと上着を脱いで背中を丸出しにし、水で濡らした布で傷を拭く。
血が滲んで、鋭い痛みが走る。
あの松永久秀とかいう変な男。次に会ったら容赦しない。
「お主の運命は我輩の手にある」なんて言って、ああ、思い出すだけで腹が立つ。
「もう!」
「うおっ!?」
畳に拳を叩きつけると、後ろから野太い男の声がした。
驚いて半身だけ振り返る。そこに居たのは我らが軍師、島 左近殿だった。
「左近殿!」
「す、すまない。一応障子越しに声は掛けたんですがねえ」
「そんな、こちらこそ気付かずに申し訳ありません」
「いえ、それよりも。上着、着ちゃくれないですかね? まあ、名前さんさえ良けりゃあ俺はこのまま良い眺めを……」
「あ……っ!」
私は慌ててに腰元まで落とした布を羽織り、着物を整えてから再び左近殿に向き直った。
「見苦しい姿をお見せして、失礼しました」
「いえいえ、俺は良いモン見れたので」
「……左近殿」
私はジロリと左近殿を睨みつける。
それでも彼は余裕の笑みを崩すこと無く、顎に手を添える。
そうそう、と左近殿は懐から小さな壺を取り出した。
「上官殿から良く効く塗り薬を頂いたんでね。アンタにもお裾分けをと」
「それはありがたい。生傷が絶えないもので」
それくらい、女中に渡させれば良かったのに、と私が呟くと、それじゃあ意味がない、と返される。
じゃあ彼は一体何の為にわざわざ薬を持ってきたのかというと。
「もし良けりゃ、俺に塗らせて貰えませんかね? 手、届かないでしょう?」
そんな事の為に、わざわざ自ら私の部屋へ赴いたというのか。
この軍師殿が何を考えているのかはさっぱりだが、意味のない事はしない。
左近殿はよく気が利く男だ。もしかしたら、未だ軍に馴染めぬ私に気を遣ってくれたのかもしれない。
このような事を軍師殿に頼むのは少しばかり気が咎めるのだが、その好意は受け取っておいて双方に損はないだろう。
「ではお願いします」
私は着ていた服を肌蹴させて、左近殿に背中を向けた。
一瞬だけ、ごくりと生唾を飲み込む左近殿の顔が見えた気がする。
「……失礼しますよ」
薬壺の開く固いものが擦れる音、それに続いて指が薬をすくう粘り気のある音が耳に入ってくる。
ぴとり、左近殿の指が私の傷だらけの背中に優しく触れた。
傷に沿って指を這わせると、ぬるりとした感覚が広がるのがわかる。じんわりと傷口に薬が染みて痛むが、それに堪えるように唇を噛む。
少しだけ、鼓動が早まる。自分のものではない指が背中に這う感覚と、2人きりの静かな空間に。
左近殿の2本の指が腰から背中にかけて、つつつ、と這うようになで上げると、背筋がゾクゾクして思わず「あっ」という声が出てしまった。
「……すみません、痛かったですか?」
「い、いえ……大丈夫です」
左近殿は親切でやってくれているのに私は何を邪な事を考えているんだ、と自分の心を制して、姿勢を整える。
やがて薬を塗り終えた左近殿は私の背中から指を離し、布で薬の付いた指を拭った。
「薬が染み込むまでうつ伏せで寝ていて下さいね」
「はい。左近殿もお忙しいでしょうに。ありがとうございました」
「いえいえ、アンタは大事な戦力ですからね。では、失礼しますよ」
そう言って左近殿はさっさと立ち上がってすぐに私の部屋から去って行った。
まだ少し脈が早いのは、うつ伏せが苦しいからなのか、左近殿の指先のせいなのか。
それから戦の後は大体、左近殿が私の部屋に訪れては背中に薬を塗ってくれた。
もちろん背中以外にも傷は増えるので、最近はそちらも塗ってくれるようになった。
左近殿は塗る度に「女性がこんなに傷を作るなんて、嫌な世の中ですねえ」と嘆く。
背中を向け、左近殿の指が這うように傷をなぞるが、今日はどこか無機質に感じる。
そう思っていると左近殿は指の動きを止めた。
「……名前さん、アンタ何か隠しちゃいませんか?」
「そんな事……」
「いいや、背中の傷を見てりゃわかる。これは死に急ぐ奴の傷だ」
左近殿が私の背中に向けて、冷たく言葉を発した。
ありません、とは言えなかった。どうもこの男の前では調子が狂う。
何もかも見透かされているようで、半端な嘘は吐けない。
「アンタに死なれちゃあ俺が困る。自分を捨て駒扱いしないでくださいよ」
「……心得ます」
薬だけじゃない、左近殿の言葉さえも私の傷を通して心の中に沁み込んでくる。
優しい言葉を掛けてくれる左近殿にいつしか私は心を開きつつあった。
だからこそ一方的に非難されるのが辛く感じたので、私は左近殿に今まで隠していた心の中をぽつりと呟いた。
「……実は私、松永から誘われているのです、私に奴の軍に下れと」
「乗るか迷っているんですか?」
「いえ、そんな事は絶対に有り得ません! 私は順慶様に忠誠を誓いました。しかし……」
私は声を震わせて、言葉を紡ぐ。
怖い。ただあの男が怖い。松永 久秀という得も言われぬ未知の恐怖を感じる男が今の私には奈落の底のようだった。
「怖いのです。あの男を見ると我を失い、気付けば囲まれ、死なない程度に痛め付けられては『下れば命まで取らぬ』と言われ、私は命からがら逃げ出す……。私の運命を握られているような気持ちにさせられる。いつしかあの男の言う通りになりそうで、私は……」
「わかってますよ」
「……え?」
徐々にか細くなる声に続くように、左近殿は場の空気を変えるように言った。
「俺も筒井殿も、アンタが心身共に強い女ってのはね」
そんな些細な一言が私に勇気を与えてくれる。
今まで独りで抱え込んでいたからこそ、心強く感じた。
「話してくれてありがとうございました。俺はアンタを信じましょう」
「左近殿……」
今日の左近殿はどこかいつもと違った。
私の話を聞いた後の彼は、何かを決意したような、力強くて真っ直ぐな瞳をしていた。
「むっふふう。可愛いお嬢さん、御機嫌よう! 今日も会いに来てくれるなんて、我輩感激!」
「貴様、ふざけた事を……!」
私の目の前に居る松永は嬉々として両手を広げ、優雅に挨拶をする。
まただ。
また、気付かぬ内にこの男の手中に居る。いつもの倍以上の松永の兵に四方を囲まれ逃げ切れそうもないが、この男は私を殺すつもりはないらしい。
頭がくらくらするが、必死に正気を保とうと頭にかかるモヤを振り払って刀の柄を強く握る。
「今日こそ我輩のモノになって貰うぞ。この我輩の蜘蛛の巣からは絶対に逃げ切れぬ、と保証しよう」
そんな保証はいらん、と言いたいところだが口すらも上手く開けない。
どうしてだ、急に体の力が抜けて倒れそうになる。
膝をつき、剣先を地面に突き刺して体を支えるが、限界だ。
こんなところで私は終わりなのか。
(もう左近殿に薬を塗って貰えないんだな……)
じわじわと周りの兵が近付いて来る。中から抜きん出るように松永が私の目の前までやってきてしゃがみ込む。
頭を垂れる私の顎をくいっと持ち上げ、灰色の瞳で慈しむように私を見つめてくるので、私も重い瞼を閉じぬようにしてなんとか睨み返す。
「この状況でその強気な目とは。くうう〜たまらん!」
顔を歪めて恍惚の笑みを浮かべる松永に、背筋がぞわりとする。
気持ち悪い。こんな男に触れられたくない。この薄汚い手を離せ、と口を開きかけたその時、松永が急に私から身を引いた。
直後に空から大きな物体が降ってきて、土煙を撒き散らす。いや、物ではない。この見知った姿は見間違えようもなく左近殿だった。
「筒井家家臣、島 左近。此処に参上仕る、ってね」
「さ、左近殿……!?」
絶体絶命と言わざるをえない状況で、左近殿は危険を顧みず私を助けに来てくれた。
私はたまらない嬉しさを感じ、暗闇に光が差すかのように明るい笑顔を取り戻した。
松永は左近殿の姿を見て信じられないと言った様子だ。
「ば、馬鹿な! 何故貴様が此処に……!?」
「変だと思ったんですよねえ。毎度毎度、アンタの居る戦場では名前さんの姿が消える。だがもう安心だ、蜘蛛の巣は全部焼き払ったからな!」
左近殿は吠えるように叫び、大剣を振り回して松永の兵を一掃した。
方々に散った兵たちの姿は草むらに倒れると地面に溶け込むように姿を消していく。
「こ、これは……!?」
「幻術ですよ。近くに幻術士が居ました。まあ、既にあの世ですがね」
左近殿が言うには、どうやら松永は幻術士を使って私をおびき寄せていたようだ。
軍から孤立させ、仲間には見えないように術を張っていたのでしょう、と言った。
そうやって徐々に周りから不信感を抱かせ、私がどっち付かずの存在になるように仕向け、いよいよ運命が動く日が来たのだ。
「名前さんの目は誤魔化せても、この左近の目は誤魔化せませんよ」
得意気にそう言うと、左近殿は私の傍にしゃがみ込み頬に手を添えた。
じっと瞳の奥を見つめられて心が締め付けられる。
「アンタが居なくちゃ困る……って言っただろ?」
そして私の唇に、自分のそれを優しく押し付けた。
柔らかい感触。目の前には左近殿の顔。私は急速に胸が高鳴って思考がはっきりする。
すぐに唇を離した左近殿が松永に向き直ると、とても悔しそうに歯を食いしばっていた。
「わ、我輩の名前にい〜! 許さん、許さんぞお〜〜!」
松永はどこから取り出したのか、無数の爆弾を左近殿に向かって放り投げた。
数が多すぎてとても避けきれそうになく、万が一、筒を切って中の火薬が出てくれば途端に爆発の連鎖が起こるだろう。
――それが、私達相手でなければの話だが。
私は目に見えぬ速さで、空中に投げ出された爆弾の導火線を全て切り落とす。
導火線と筒は無残にも地面に落ちていき、不発に終わる。
松永はポカンと口を開いたまま、呆然としていた。
「ここからは私がお相手します」
刀の柄を握って、松永の方を向いて構える。
松永は額から数粒の汗を流し、一歩後退した。
「くっ……! 今日の所はこの辺にしておこう。だが名前よ、我輩は諦めないんだから!」
負け犬の遠吠えのような台詞を吐いて、松永は森の中へと姿を消した。最後まで気色の悪い男だった。
次第に周りからは殺伐とした気配が消えていき、私はすぐに必死の形相で左近殿に掴みかかる。
「水! 水を下さい!」
「おやおや、そんなに苦かったですか? 気付け薬は」
「苦いなんてもんじゃないですよ! 助かったのに、苦さで死ぬかと思いました!」
先程、左近殿が私に口付けをした際に、何かがぬるりと口内に入ってきて思わず飲み込んだ。
直後、とてつもない苦味が口の中に広がり、私は瞬時に正気を取り戻した。
おかげで松永の攻撃にも対応することが出来たが、今はその苦味のせいで気絶しそうだ。
左近殿が懐から水筒を取り出し、私はそれをごくごくと飲み込む。自分の水筒はどこかに落としてしまったらしい。
「しかし左近殿、よく此処がわかりましたね」
「ええ。敵さんに気取られぬようアンタを尾行するのは大変でしたよ。ま、この作戦を思い付いたのは殿なんですけどね」
「順慶様が?」
「ええ、殿はああ見えて部下思いでね。アンタも例外じゃないってわけですよ」
そうか、あの時言われた言葉は、ただの慰めではなかったということか。
確信を得ると、一層嬉しさがこみ上げる。
私は水を半分程飲み干し、礼を言って左近殿に水筒を返した。
それを受け取ると左近殿は水筒の飲み口をジッと見つめて、ところで、と切り出した。
「先程の口付けの返事は貰えないんですかね?」
「えっ……!?」
意外な言葉に私は驚きの声を上げた。
口付けの返事って、あれは私に気付け薬を飲ます為だけのものだと思っていた。
そう言うと左近殿は呆れたような顔をした。
「そんな失礼な事をするわけないじゃないですか。まあ役得ってところですがね」
「そ、そうでしたか……安心しました。私、殿方との接吻は初めてでしたから……」
初めて、と左近殿は機械的に繰り返す。そして私に頭を下げて謝罪した。
急を要する事態だったとはいえ、女性の大事な物を奪ってしまった事に対して罪悪感を感じたようだ。
「い、いえ! むしろ嬉しかったです! 左近殿がお相手で……あっ、」
しまった。つい本音が出てしまった。
もちろんそんな美味しい言葉を左近殿が聞き逃すわけもなく、ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべ始めた。
「ほう、そうでしたか」
「あ、いや、その……」
「俺が相手で嬉しかった、と。今、言いましたね」
「えっと、うう、ぐ……」
弁明の余地もない。わかっている、何を言おうとも時既に遅し。
ぐいぐいと責めてくる左近殿に私は押されてばかりだが、不思議とそれが嫌ではない。
「初めてがアレではあんまりでしょうが、俺はそれでも無かったことにしたくありません。なので今度はとっておきのを差し上げましょう」
「えっ」
ぐい、と腕を引っ張られて左近殿の胸元へ引き寄せられる。
元々大柄なだけあって、自分との体格差が如実に現れてしまう。
彼の腕の中にすっぽりと収まった私は、顎を持ち上げられて、唇を奪われた。
先程とは違い、私の唇を食むようにして舐め上げたあと、口内に熱い舌が侵入してきた。
突然の感覚に私の体はびくんと跳ね、左近殿は逃さないようにと私の背中に回した腕に力を込める。
舌を絡ませるほどに唾液が乱れる水音が聞こえ、頭がボーッとして、体が火照ってくる。
敏感な口内を舌先でぬるぬると刺激されると、どうにも堪らなくなって、縋るように左近殿の胸元をぎゅっと掴んだ。
腰が砕けそうになって膝が折れると、左近殿は唇を離して「おっと」と言いながら、私の体を支えた。
「どうでした?」
「…………凄かった、です」
口端からとろりと、2人の混ざりあった熱い液が一筋流れたので、ぐいっと指で拭う。
目を細めて笑う左近殿が私の顔を覗き込んで聞いてくるが、私は恥ずかしくてそれ以上の言葉が出てこなかった。
左近殿は満足した様子で「ご馳走様でした」と言った。
「さて、本陣へ戻りましょうか。続きは後で、ね」
「……はい。って、え、続きって……!?」
左近殿の言葉に慌てふためく私をヒョイッと抱え、自分の馬に乗せてくれた。
そのままひらりと左近殿も私の後ろに乗って手綱を握り、本陣へと走り出した。
今後私の背中に薬を塗ることは無いだろう、と彼は私に言った。
どういうことかと考え込んでいると、意味がわかっていない私に気付いて左近殿が耳元で囁く。
「俺が名前さんの背中を守りますから」
その甘い声に私は思わず落馬しそうになったが、慌てて左近殿が引き寄せてくれたので事なきを得た。
左近殿の言葉が凍てついた私の心を溶かしていってくれる。
今まで私は左近殿の言う通り、死ぬ為に戦っていたのだろう。そうして自分を見捨て、戦って死ぬだけの乱世に、いつしか私は自身の価値を見失っていた。
左近殿はそんな私に気付き、孤独に震える私を見つけ出してくれた。
ならば今度はそれに甘えよう。それに応えよう。私も貴方の背中を守り、共に戦おう。
もう私は、死に急ぐ必要などないのだから。
2人を乗せた馬は凱旋をするかの如く、大地を力強く蹴り駆け抜けた。
戦場に聳える凛背
(20161003)
Smotherd mate