律と王路さん
2019/07/22
空想結婚生活
「律くん、結婚しないかい?」
書類の文字を追っていた途中、耳に入ってきた重さのない声。律は文字とともにめぐらせていた思考が途切れてしまったことに不快感を覚えるが、息一つ漏らさずに顔をあげる。声の発生源たる男がその表情の変化すら楽しむタチだと理解しているからこそ、望まれている反応を返すのは癪だった。もっとも、そんな子供のような強がりもわかっているのかもしれないが。
耳元で、甘言を吐いた男は律と目が合うと「紅茶を淹れたんだけれど、律くんがあまりにも集中しているから、つい」と楽しげに言葉を並べている。
「ありがとう巧さん。丁度、紅茶が飲みたいと思っていたところだったのよ」
「そうなのかい。以心伝心だね」
テーブルに置かれた紅茶は二つ。そのことに律は落胆する。案の定男 ――王路巧は向かい側のソファに腰を落ち着けている。同じ書類を手には持っているが、その瞳は無意味に隔てられているガラス越しに律を見ている。見ている、というのは、子供が虫眼鏡で昆虫をじっくりと眺めているような温度と同じものだ。
「それで、さっきの返事はもらえないのかな?」
「何のお話かしら」
「つれないなあ」
律の視線が向かないことに諦めたのか王路も紙の束に目を通し始めた。温度のない視線が外れて、律は小さく息を吐く。文字の列を追うつもりが、何だか気が抜けてしまった。
無理やりにでも思考を再開させても良かったのだが、律は気まぐれに、王路の口にした「結婚」とやらについて考えてみることにした。
目の前に居る王路巧と結婚することに特別不愉快だという気持ちは無い。専門分野に関して言えばかなり優秀な方だと認識している。見た目も、センスも悪くない。事務所の大きな窓から差し込む陽の光で少しだけ透けるように輝いている髪や、影を作る顔の造形は所謂美形の域なのだろう。
それでは、性格や価値観は。さして律にとって重視していることでは無いが、無意味な恋愛たられば論を口にしている女たちは何よりも大切なことだと言うのだ。倣って考えてみるが、律は何も考え付かなかった。形だけなぞっていた書類の字列だけが頭の中で通り過ぎていく。
そもそもどんな人間だっただろうか、この男は。
人が好きなんだろうと思ったことがある。少し、違う。もっと厳密にいうなら、人そのものではなく、人の行動や言葉を見てその人間の底にあるものを覗くことを楽しいと感じている。何度か、見たことがある。細められた瞳から滲む感情はまったく律が理解できないもので、その時の王路巧のことを律はひどく苦手だった。初めてそれを見たとき、悪趣味ね、と言った声がいつものように発音できているのか心配になったほどに。
「律くん」
反射的にあげた目線が合ってしまった。返事の代わりに手元の書類を下げる。
「そんなに熱心に読み込むほど、君の興味を惹く案件なのかな?」
「……いいえ、少し考え事をしていたのよ」
「へえ! どんなことを考えていたのか聞いてもいいかな?」
声にそれらしい反応を乗せるのが、上手いと思う。本当に思っているのかもしれないが、常日頃から白々しさを感じる。わかりやすいだろう、と言われているようだ。こういうところは感心する。無駄な嘘は吐くが、不必要な偽りはしない男だから仕事をする上では困らないし、こうしたわかりやすさは面倒じゃなくて助かることも多い。
「巧さんと結婚したらどんな生活になるのかを、少しね」
律は笑みを浮かべる。普段年下の警察官を巻き込むときのように軽く。「君もそんなこと考えたりするんだねえ」「たまには、無意味な想像をしてみるのも楽しいかと思ったのよ」「無意味にしちゃうのかい?」そのままゆるゆると繋がっていく会話はまるでシャボン玉のように浮いている。
残念だなあ、と眉を下げた王路は続けて、「それで、」と楽しげに小首を傾げた。
「君の想像の中の新婚生活はどうだった?」
いつの間にか朱を帯びている室内で、王路の声が響く。先ほどよりも薄暗いせいで、王路の顔は不鮮明に揺れる。きっとまた、好奇心をありありと浮かべて笑っているのだろう。
もしも、普通の女のように恥らったりしたら、どんな反応をするのだろう。律は言葉を飲み込んだ。
私をつまらない女と感じるだろうか。対象に興味を失ったとき、この男は、ガラス玉みたいな瞳をする。冷えてもいない、熱もない無機質な瞳。口元だけは三日月みたいに歪ませたまま、いつも通りの声色で話す。隣で聞いていたその時、今この人に触ったら、陶器みたいに手に馴染むひやりとした冷たさなのだろうかと、くだらないこと想像した。
―― 私はその瞳が好き。
成程。長い証明を書き終えたように律の頭はすっきりとした。一度瞬きをしてから、肩から落ちる髪を払う。
「最悪だったわ」
「……君の中で、僕はどんなイメージなんだろうね」
ねえ紺くん、といつの間にか律の後ろに立っていた男に王路の視線は移った。そのまま不機嫌そうな紺くん、と王路は着地点のない会話を律の横で続ける。
その、王路の赤く照らされた首筋を律はじっと見つめる。いまは、とてもあたたかそう。きっとあれが温度を失くした時は、律が好ましいと思う瞳を見せてくれるのかもしれない。それか、本当の意味で律を「つまらない女」と認識したときに。
どちらが簡単なのかは考えるまでもないが、どちらの場合もそれは律が「王路巧」という人間を勘定から失くすときだ。
「……不毛な片思いね」
口から滑り出た言葉は、律自身が驚くほどに白々しかった。
やはり、馬鹿みたいに不毛なたられば論を思考するのは向いていない。紙束をバッグに押し込めて立ち上がる。
「二階堂さん、今なにか言いました?」
「相変わらず仲が良くて妬けちゃうわねって言っただけよ」
「本気で思ってます?」
「いや〜、照れるね紺くん」
「は?」
部屋から出る間際に、室内灯のスイッチを入れる。
煌々と照らされた王路の顔はやはり白々しい、と興味が失せたように律は踵を返して部屋を後にした。