園崎涼

2019/07/22

愚か者の後悔





「園崎君って、どうして医者になったの?」

6時間、向き合っていた赤い景色を払拭するようにデスクの上にある緑色のまるいサボテンを眺めていた。それを遮るように白いマグカップが置かれた。嗅ぎ慣れたインスタントコーヒーの香りが鼻につき、目の奥で張りつめていた神経が弛む。

「親が、医者だったので」

顔をあげると疲労を滲ませた顔で上司が同じマグカップを持って立っていた。短く礼を言うとマグカップを持ち上げ、そっと口づけると眼鏡はあっという間に曇った。まだ熱湯に近いそれを口に含むと、舌先が痺れた。不愉快気に眉を潜めた園崎を見て、上司は声をあげて笑った。

「そうか、そうだったね……でもなんで脳外?」

幾度となく聞かれたことがある問い。答えるべく口を開いたものの、音に出来るような明確な答えが思いつかずに数秒、沈黙する。園崎にとって医者になることは、当然のことだった。親に特別厳しくそう言われたわけでは無かったけれど、そうすることが当たり前だと、そういう家だったのだ。そのなかでたまたま自分の興味を強くひいたのが、脳、だったのだ。脳の仕組みを面白いと感じたから、ただそれだけの理由でこの道を選んだ。

「プレッシャーも多いしさ、呼び出しも多いし手術も長時間になるし…しかも大学病院で…って、いや僕もそうなんだけどさぁ。園崎君はまだ若いから別の道も考えてるのかなあ〜なんて」
「いえ、それは考えてません」

反射のように答え、先ほどよりも慎重にコーヒーを口に含むが舌先がじりじりと痛んでまるで味なんてわからなかった。嬉しそうに「そうなのかい!?」とはしゃぐ上司はもうコーヒーを飲みほしていた。


* * *


いつもは殆ど病院に置きっぱなしにしている道具を鞄に詰めていると、寝室から寝ぼけ眼の同居人がふらふらと覚束ない足取りで出てきた。おはよう、と声をかけると寝起きの掠れた声を返された。とりあえず意識ははっきりしているようだ。どちらかと言えば夜に活動している同居人がこんなに朝早くに起きるなんて珍しいこともあるものだ。
丁度落ち切ったコーヒーを自分のカップと同居人のカップにそれぞれ注いで、自分の分には一粒小さな氷を浮かべる。「ほら、」とカップを差し出す。カップを受け取ろうとして、ようやくこちらをはっきりと見た同居人は少しだけ眉を下げた。

「ねえ、涼くん本当に良かったの?」
「なにがだ?」

疑問の意味がわからずに首を傾げると、同居人はコーヒーを一口飲んでから「本業っていうか……大学病院休ませてまであっちに向かわせちゃうじゃん? しかも精神科だしさあ」「いや行ってくれるのはありがたいし、すっごく嬉しいけどね!?」とまとまらない言葉をぽつぽつと呟く。

「気にするようなことじゃない。俺がやりたくてやっているだけだ。精神科の方面も興味が無いわけじゃないしな」

園崎のカップの氷は半分ほど溶けている。口をつけまいか悩んでいると、同居人 ―――根黒は、小さく声を漏らして笑う。

「それはわかってるけどさ、でもほら、涼くんって脳外科の仕事好きじゃん。だから悪いなあって」
「…………、」

変なこと言ってごめんね、弁当これからパパッとつくるからちょっと待ってね!と台所に向かう根黒の背中を黙って見つめる。それから手元のカップに目線を移す。
仕事のことを好きか嫌いかなんて、自分では考えたことも無かった。根黒の言葉にどこか気恥ずかしいような思いがわく、それが喉から溢れないように氷の溶けきったぬるいコーヒーを流し込んだ。


* * *



目が覚めてから、何もかもが園崎の頭のなかで整理がつかずにいた。拘束された身体では痛む頭を押さえることすら出来ない。
部屋に入ってきた八木にも驚いたというのに、畳み掛けるような蓮田の信じがたい言葉。

やはり、やはり、患者のあの症状は、あの処方は、と合点がいった。まさか自分が王路巧に語ったオカルト話が現実として存在していると思わなかった。そうしてほんの少し状況を理解した園崎の頭からそれまでの困惑や混乱が吹き飛んだ。
ふざけるな、と叫びだしたくなった。気味悪く笑う顔に一発殴りつけてやりたいと肩が揺れて、手首がきつく縛り付けている縄に擦れてそれが苛立ちをさらにかき立てた。猿轡をきつく噛みしめ、蓮田が出て行った扉を睨みつけるが、それを続けるだけの気力は最早残っていなかった。
薄暗い部屋をぼんやりと眺める。眼鏡のない視界ではもはや天井の高さを測ることすら出来ない。

痛む身体と、朦朧とただよう意識の中で、園崎はいつか上司に言われた言葉を反芻した。
「園崎君って、どうして医者になったの?」
響く能天気なその声色に少しだけ、気が楽になる。
なんのことは無かった。親が医者だったから、だから、同じように人の命を救う仕事をしたかったんだ。
「でも、なんで脳外?」
祖父が内科で、父が呼吸器外科、兄は整形外科。母は看護師。だから、彼らの救えない人間を俺は、救いたいと思ったんだ。患者数も多く死亡率も高くて、呼び出しが頻繁で、手術するにも1日がかりがざらで、それでも、自分の技術で助かる患者がいるのなら何一つ苦では無かった。
だから、患者を利用して何かを楽しんでいるような蓮田の言葉が、許せなかった。


「涼くんって、脳外科の仕事好きじゃん」

―― その通りだ根黒。
俺にとって医者になることは息をすることと同じくらいに当たり前のことで、好きだとか嫌いだとかそんな意思を持ったことは無かった。患者を救いただとか、一人でも多くの人間を助けたいだなんて志も無かった。無かった、はずだった。


「…………俺はバカか」
その言葉は音にはならなかった。疲弊した身体から意識が滑り落ちていく。もしも、次また眼を開けることが出来たなら、あの家に帰ることが出来たら、根黒に伝えようと思う。やはり俺は脳外が性にあっていると。それから、食べ損ねたカレーをドリアにでもして貰って、ぬるいコーヒーを淹れよう。それを飲みながら、上司に電話をしなくては。
次に、眼が開いたら、きっと。

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