06


翌日の夜。
いくら待っていてもナナシは現れなかった。
あいつが約束を違えるとは思えない。
島へ降りるのを楽しみにしていたのを知っている。
どんな場所かと想像する顔は、確かに綻んでいた。

…大方、仕事が忙しいのだろう。
以前も来ないことがあった。
その時の原因も仕事だった。
ならば、仕方ない。
あいつの生活にまで口を挟むのは野暮ってもんだ。
あいつにはあいつの生活がある。

─ところが。
次の日の夜も、また次の夜も。
ナナシは姿を見せなかった。
日に日に苛立ちが募っていく。
何故現れない?何故ここへ来ない?

考えうる可能性はひとつ。

“おれに会いたくない”のだろう。

ビキ、とこめかみに青筋が立つ。
苛立ちは行動に現れた。
“散歩”に出ると短くトレーボルへ告げ、拠点から糸を使って空を飛ぶ。無心で空を駆り目に付いた島へ降りれば運良く数隻の海賊船が停泊していた。
鬱憤を晴らすように、攻撃を仕掛ける。

「なん、でこんな所に…!テメェがいるんだ…ッ」
「フフフフ!いちゃ悪ィか?」
「ここはテメェのシマじゃねェだろう!?」
「ああ。だが、おれは海賊だ。同業者は潰す」

それにおれは。

虫の居所が最高に、悪い。

断末魔を耳にしながら腕を振るう。
残念ながら慈悲なんてもんは、今のおれにない。
無様に喚き散らして息絶えろ。

数隻あった海賊船全て沈め再び空へ舞った。
残念ながら気分は──晴れていない。
奥歯を噛み締め宙を蹴る。

拠点へ戻ったのは夕方頃。
汚れを洗い流し、乱暴に椅子へ座る。
苛立ちが治まらない。

……今夜で一週間経つ。
あいつは夢だった。それで終いにすりゃあいい。
運命の相手、赤い糸の女。
はなから信じていないがあいつじゃなかった。
やはりそんなものは存在しないと確信も出来た。
おれは元の生活に戻る。ただそれだけのこと。
いい加減、切り替えろ。
家族にも仕事にも支障をきたすのは良くねェ。

頭を振り机に乗せた足を降ろす。
ようやく、たまりにたまった書類へ手を伸ばした。
全て片付けてしまおう。
恐らく今夜も眠れはしないだろうから。


黙々と紙束を処理し続け最後の一枚となった。
目を通しペンを走らせ終了。
外は闇に包まれ静まり返っている。
誰も寄せ付けないよう指示を出していたが…それももはや不要だ。起きている奴を呼んで酒を飲もう。

椅子から離れベッドへ向かう。
…誰もいない。当たり前だ。夢如きに振り回されてんじゃねェ。夢を見てんじゃねェ。しっかりしろ。
端に腰掛け眉間を軽く揉む。
そうすること数分。

ベッドの中央に人の気配がした。
静かに、確かに沈みこんだスプリング。
久しぶりに香るそいつの匂い。

─…ナナシ。

いや、いいや。こいつは夢だ。おれの夢。
触れなければ起きることはない。
呼ばなければ目を覚ますこともない。
おれがお前に振り回されるなど、あってたまるか。
無意識に伸ばしかけた手に気づき引っ込める。

…くそっ、触れたい。

求めていた奴が目の前に現れただけで本能が疼く。
考えるより先に手が伸びてしまう。
その体を強く抱きしめたい。
腕を掴んで腰を抱き、己の腕の中へ閉じ込めたい。
近くで…耳元で声を聞きたい。
名前を呼んでほしい。

おれを求めてほしい。

拳を、強く握った。
なぁ。ナナシ、ナナシちゃんよ。
お前は空気なんだろう。おれの、空気だろう。
それなら離れるな。逃げるな。
お前がいなけりゃ、おれは、息が…出来ねェ。
苦しくて、たまらねェ。
お前という空気がおれを包んでいる。
そうだ。おれは気づいていた。思い知った。

お前を求めているおれに。

ゆっくり瞼が上がっていく。
何度か瞬きをしたら表情が強ばった。
視界に映る天井に何を考えたのかは明白。
…やはり、意図して来なかったようだな。

「─よォ、久しぶりだな、ナナシちゃん…?」

意を決して起き上がったナナシを見つめる。
自身から地を這うような低い声が出た。
仕方ねェだろう。おれは怒ってもいる。

だが、まァ。
弁明があるなら聞いてやろう。
事情があったなら聞くだけ聞こう。
それくらいの余裕は、まだ、ある。
目を伏せて無言のままのナナシ。
何も語らねェのか?言葉を交わすのも嫌か?
おれを見ることも?視界に入れることさえも?

…今のうちに話すべきだ。話させるべき、だ。

「てめぇ、何故来なかった。島を散策したかったんじゃねェの…か、………何、泣いてやがる」
「ドフラミンゴ、さん」
「…なんだ」

話を促そうとした矢先、ナナシから溢れる涙。
ボロボロと止めどなく流れるそれに怯んだ。
女の涙など見飽きるほど見てきたおれが。
涙の奥の瞳はおれを見ている。真っ直ぐ。

会いたかった。
会いたくて会いたくてたまらなかった。
言葉には出さないがそう言っているかのような涙。

おれから逃げる素振りはない。
恐怖を滲ませているわけでもない。
それならば、と、自身が纏う怒気を鎮める。
急かすことなくナナシの言葉の続きを待った。
ゆらゆら揺れる涙の膜。
瞬きしたらポロポロ零れていく。

「…こんばんは」
「……おう」
「お久しぶり、です。来れなくてごめんなさい」
「別にいい。…泣きやめよ」

柔らかな頬を包んで溢れた涙を拭う。
ここに居ることを確認するように。
夢じゃないと、己へ言い聞かせるように。

…ナナシに触れる口実なら、なんでもいい。

「ドフラミンゴさん、」
「なんだ」
「あの、今日は眠いので…横になりたい…です」
「……またおれにお預けさせるつもりか?」
「……ごめんなさい…」

謝ってほしいわけじゃねェんだがなァ。
そう言いながら正面から抱きしめた。
─ああ、ナナシだ。今おれの腕の中にいる。
触れてしまえば欲しくなる。
名前を呼ばれると欲しくなる。
夢だと理解していても、目の前に現れると揺らぐ。
簡単に揺らいでしまう。

苛立ちの原因であるお前。
苛立ちを消してしまうのも、お前。
おれはお前が欲しい。
ナナシが、欲しい。

強ばる背中を摩る。
海賊を屠った手で、頼りない背中を優しく撫でる。

「仕事か?」
「…え?」
「仕事で疲れてんのか?前に来れなかった時も仕事が原因だっただろう。身を粉にするまで働くな」
「…ふふ、私の上司に言って欲しいです」
「ああ、直々に文句言ってやるよ」
「3メートルもある人が来たら驚きますね」
「…やっと笑ったな 」

涙より見てェもんがある。
謝られるより聞きてェ言葉もある。

「もう寝ろ。そんで…明日、ここへ来い。必ずだ」
「…来れなかったら…?」
「そん時は、泣き叫ぼうが逃げようが嫌がろうが、意識がとんだ後ですらも。朝が来るまで抱き潰す」

名前を呼ばれ涙を流す姿は情事中のナナシを思い起こさせた。それだけで、自分のものが馬鹿みてェに昂り猛っている。おれの身体は言い逃れ出来ないほど、こいつを求めていた。求めていた…が、無理やり抱こうとは思わなかった。
今すぐにでも腕を拘束して、組み敷きたい気持ちがないと言えば嘘になるが。それを実行してしまえばもう二度とこいつはここへ現れない気がした。

それなら、猶予をやった方が得策だ。
無論、おれにとっての得策。

身を震わせてベッドへ寝転がるナナシ。
よくよく見れば目の下に隈が出来ている。
…仕事が原因じゃねェのは明白だった。
だが、問い詰めれば問い詰めるだけ、こいつはおれから遠ざかる。おれの元へ来なくなる。
まだ縁が切れてないなら。糸が繋がっているなら。
おれからそれを断ち切ることは…しない。

相当眠たいようで瞼は閉じたまま。
ナナシを見つめていたら自身にも睡魔がやって来る。お前がいることでおれも眠たくなる、とは。

「……おやすみ、ナナシ…」

現れた時に出した低い声ではない。
本当にこのおれの口から出てるのか怪しんでしまうほど優しくこいつの名前を呼び、額に唇を寄せた。

ここまで優しく触れるのはお前だけだ。
こんなおれを知るのも、お前だけ。
静かに流れた一筋の涙を指で拭う。

眠るナナシを腕の中に閉じ込めて横になれば、その体温に意識が微睡む。…おれの体も、相当睡眠を欲していたらしい。抗うことなく瞼を閉じた。



◇ ◇ ◇



夢を見た。

おれの元へやって来る女の夢。
顔も声も鮮明に浮かぶ。
おれを見つめ微笑むそいつはやけに嬉しそうだ。
離れることはなく、女の手を取り引き寄せる。
ふと女の指に視線を落とすと絡まっていたのは糸。
次いで己の指も確認した。出した覚えはない糸。

だが確かに絡まる…その糸の色は。

─明確な意図を持って笑う。
ああ、そうだな。お前はおれと繋がっている。
お前はおれが手繰り寄せた。
逃がしはしないと、絡めとった。
微笑む女の頬に唇を寄せる。嫌がる素振りは見せない。くすぐったそうに小さく笑うだけ。

お前は、おれの女。
この赤い糸はおれとお前を繋ぐもの。
おれにとってお前は、ナナシは…。



「───ドフィ!!敵襲だ!」

大声と共に勢いよく開かれた扉。
ぱっと目を覚ましたがもう一度静かに閉じた。

そうだ、ここは海の上。
物資補給のために航行していた。
島へ到着するまでに資料を確認するつもりが、いつの間にやらうたた寝をしてしまったようだ。
この短時間でナナシを夢見てしまうとは。
どれだけ求めてるんだ。…ああ、早く触れたい。

瞼を押し上げ、扉を開け放った人物に声をかける。
状況を尋ねれば複数の大型帆船がおれの船を取り囲んでいるらしい。見たことがない海賊旗。
おれを仕留め、名を轟かせようって魂胆だろう。
全く馬鹿な連中だ。

「フフ…フッフッフ、楽しませてもらおうか」

椅子から立ち上がり扉へ向かう。
誰もいない船内。だが、鍵をかけた。
家族であれ仲間であれ入れるわけにはいかない。
昼間は来ないと分かっていても、だ。

敵の喧しい声とそれに応戦する野郎共の声。
桃色のコートを羽織り戦闘音が飛び交う甲板へ。
とっとと片付けよう。フフフ、造作もねェさ。

四方を取り囲む敵船。
本船は東側に位置づけるガレオン船だろう。
確かに見たことのない海賊旗だ。
まァ、その辺の海賊旗など覚える必要がない。
戦況としては…当然だがこちらが押している。
南側はすでに落ちた。北と西側もまもなく落ちる。
ならば本船へ向かい、潰しにかかるとしよう。
入ったばかりの新米共はうちの甲板で戦えば良い。
多少の損傷は目を瞑ってやる。

最早おれの出る幕は無さそうだが、ひとつくらいは遊ばせてもらおうじゃねェか。
本船に降り立ち、周囲を見渡す。

「んねー!ドフィ、船内を確認してくるぜ!」
「ああ。根こそぎ頂くとしよう」
「べへへへ!そうこなくちゃなァ!」
「任せたぞトレーボル」

金品はもちろん海図やエターナルポース、医療品、あるかは不明だが本でさえも全て奪わせてもらう。
おれと戦うなら全てを奪われる覚悟がねェとなぁ?

剣を振り下ろす奴をいなし、一撃。
大勢でくるならふわりと交わして糸を纏わせる。
テメェらは踊るのが好きか?
味方を切り刻むダンスだ。切れねェ糸で踊り狂え。


己は傷を負うことなく数分が経った。
そろそろ遊びを終わらせるとしよう。
幹部たちを見やり、終了の意図を伝える。
各々頷き行動に移した直後。

「そこまでだ、ドフラミンゴォ!!!」

メインマストから大声が響いた。
黒髪長髪、口の周りに汚ェ髭を生やした男。
そいつの傍らに……ナナシの、姿。
小さく息を飲む。

何故、ここに?
お前は夜にしか現れねェはずだろう?

恐らく銃口が後頭部につき付けられている。
腕と手首を拘束され、男に掴まれる痛みで顔を歪めたナナシ。唇が震えているのも確認できた。
海賊を知らねェというナナシ。
そいつに捕らえられているという恐怖心。
唇どころか、全身を震わせていそうだ。

…お前の視界に、おれは写っているか?

「おっと、攻撃なんてしてくれるなよ。こいつがどうなってもいいなら構わねェが!鍵をかけた部屋にいたんだ。お前の大事な大事な女なんだろう?」

鍵を閉めたのが仇となったか。
自身の行動が裏目に出るとはな。

……そうさ、そいつはおれの女。
テメェなんぞが触れていい女じゃねェ。
今すぐにでもその首、掻き切ってやりたい。
ナナシのトラウマになるだろうから出来ないが。

「……フ、フフフ。おれを脅すつもりか」
「つもりじゃねェ、脅してんだよ!こいつを返して欲しけりゃあテメェを含めた幹部共々、大人しく捕まってテメェの船にある財宝全てを寄越しやがれ!!そんでそのまま海軍へ引き渡してやらァ!」

脅す。
このおれを、ねェ…?男の言葉でナナシの姿を捉えたうちの野郎共がざわざわと反応を示す。

あの女誰だ?
見たことねェ格好してンな。
若様の女?どこの島のどの女だ?
娼婦だろ、脅しの材料にすらならねェよ!
おい、構わずあの馬鹿を撃ち抜け!
船長!よろしいですね!?

「待て」

喧騒が一瞬で止む。
男と、何故かナナシもビクリと反応した。

「おれを捕まえた後、そいつをどうするつもりだ」
「あ、あァ!?ンなもん、テメェの女だってんなら余程イイんだろう!遠慮なく楽しませてもらうぜ?たっぷり可愛がったら、うちのクルーへもマワして最後は海へドボン…!だなァ!!」

下卑た笑い声が遠くから聞こえる。

ナナシ、ナナシちゃんよ。
海賊ってのはこういう馬鹿ばかりだ。
品位もねェ、かといって虚勢を張る腕っ節もねェ。
そういうクズやカスが集まってできる集団。
たまたま海にいるから“海賊”なんて呼ばれる。
民間人からすりゃあ、最低で最悪の奴らだ。

「そうかい。…ナナシ、お前はそれでいいのか」

震える体。揺れる瞳。
それでもおれを真っ直ぐ見つめるナナシ。

…やはりお前は。綺麗だ。

おれに助けを求めろ。
怖いと。助けて欲しいと。
お前が望むなら、おれは躊躇いなく手を伸ばす。

「この人に抱かれるくらいなら、死にます」

震える唇でしっかり紡いだ。
助けを乞うわけでも、恐れを言うでもない。
紡いだ言葉からは強い意思さえ感じ取れる。

最低最悪の奴ら。
それは当然おれ自身も該当する。
突然おれの元へ現れたナナシを抱いた。
嫌がるお前を組み敷いた。
その時も…お前は死にたくなったのか?
見ず知らずの男に、抱かれたお前は。

しん、と静まる二つの船。
サングラス越しにナナシと目が合う。
その目が、言っている。

“おれしか、欲しくない” と。

「フッフッフッフ!!フフフ、そうだな。名も知らねェ下級海賊に抱かれるなんざ屈辱以外の何物でもねェよなァ。ナナシちゃんよ、おれァな。この海じゃそこそこ名の通った海賊だ。お前が思ってるよりおれは強い。もちろんおれのクルーもそうさ」

両手を広げて笑った。
震えているくせに、怖いくせに。
お前はそいつを拒絶し、死を覚悟した。
なんて馬鹿正直で、弱く、強がりを言う女なんだ。

ナナシ。
おれはお前が欲しい。
欲しくて欲しくて、たまらねェ。
男が触れた箇所は全て洗い流しおれのもんだと証を刻みつけたい。狂おしいほど、お前を求めている。

「ここからお前を殺すも救うも、どちらも容易い。
さあ、どうしたい?おれを動かしてみろ」

お前はどうだ?
その目は、台詞は、おれを求めているだろう?
なァ、ナナシ。お前が決めろ。
自分の気持ちを吐き出せ。
おれはそれを受け入れられねェほど狭量じゃない。
どのような選択であれ、おれは動く。

好いた女の言葉を、蔑ろになどするかよ。

「ナナシ」

名前を呼べば瞳が潤む。

赤い糸。
運命の人。

それはお前ナナシだ。
お前と繋がるこの糸を切ることは絶対に、ない。
引き寄せて、絡ませて、またおれの元へ。

「ドフラミンゴさん、…たすけて」

意を決して紡がれたそれに口角が自然と上がる。

たすけて?
答えるまでもねェ。

───当たり前だ。


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