「に、っが」
口に入った薬湯を吐き出しながらぼやくと、カナヲが小さく笑った。
「それに……薬湯ってこんなにひどい臭い、してたっけ………っけほ」
「そうね、特に調合は変えていないわ」
「そう……」
「まだやる?」
「うーん、今日はここまでにして、明日また出直す。相手してくれてありがとね、カナヲ」
わたしがお礼を言うと、薬湯を一滴も浴びていないカナヲはにこりと笑って「また風邪を引かないように、早く着替えてね」と言った。
機能回復訓練をはじめて今日で3日目になる。思ったよりも動ける、と勘違いしたのは初日だけ。しっかりとなまった体は文字通り言うことを聞かず、その結果、3日連続で反射訓練中に薬湯をぶっかけられ続けているのだ。カナヲは容赦なく顔面に薬湯をかけてくれるので、顔を逸らすのが遅いと、あの死ぬほど苦い液体が口にまで入ってしまう。おまけに全身、苦い臭いに包まれ気分も最悪だ。しかしそれは、わたしがまったく本調子を取り戻していない紛れもない証拠であり、まだまだ自分を追い込む必要があると気づかせてくれる効果もあった。
まずは病室に戻って着替えよう。それから敷地内で走り込みだ。塀や屋根も使って走ろう。
それから……とそこまで考えたところで、足を止める。久しぶりに、あの人の姿を見たような気がしたからだ。といっても、あの特徴的な長い髪が廊下の曲がり角に消えていったのを一目見ただけなのだが…。少しだけ迷った末に、私は廊下の角まで行ってみることにした。
無意識に忍び足になりながら、そうっと廊下を歩く。そして廊下の突き当りまで来ると、左に曲がる廊下の壁際からゆっくりと顔を覗かせてみた。
「ばぁ」
慌てて両手で口を塞いだから悲鳴を上げなかったものの「ひっ」という情けない声が漏れてしまう。だって、覗いてみた先に、しかも鼻と鼻がぶつかりそうなほどの至近距離に人の顔があれば、誰だって悲鳴を上げたくなるだろう。しかし、当の本人はわたしを驚かすことができたのが大変満足なようで、口の端を吊り上げた意地悪な笑みを浮かべている。
「嬉しいなあ、君が僕を追いかけてきてくれるなんて」
「あ、悪趣味ですよ、待ち伏せするなんて…!」
「不用心に追いかけてきた君も悪いでしょう?これが鬼だったらどうするの?君襲われてるよ?」
警戒心が足りないんだよ、なんてもっともらしい小言まで付け足すんだから、この柱―――時透さんは相変わらず絶好調みたいだ。ただ、こんなくだらない悪戯を仕掛けられたおかげで、変に彼を意識していたこれまでの気持ちは消え失せてしまった。
「その様子だと……もう機能回復訓練に出てるんだね」
さっさと病室に戻ろうと彼に背を向けかけたところで、そう声をかけられる。そこで、わたしは自分が薬湯まみれであることに気づき急に恥ずかしくなる。
「ええ……本調子を取り戻すには、もう少し時間が必要ですけど」
「まあ、そうだろうね」
乾いた笑い声を上げる時透さんにムッとしつつも、今日この人は随分とご機嫌なんだなと思った。
「さ、早く着替えておいでよ。それで僕と少し話そう」
「えっ?」
「なに?僕と話すのが嫌?」
そんな憎まれ口を叩きつつも、時透さんの口角は上がっている。そしてこちらに手を伸ばすと、隊服の袖でわたしの額を拭った。
「いつまで薬湯の苦い臭いをさせてるつもり?こんなんじゃ、君に口付ける気も失せちゃうなぁ」
「…じゃあ、着替えません」
「意地を張るなよ、着替えておいで」
わたしは最後にひと睨みすると、時透さんに背を向け、病室へと戻った。
+ + + + + + + + + + + + + + + + + +
新しい入院着に着替えてから病室を出ると、盆にのせたお茶を運んでいるきよちゃんと遭遇する。
「あ、こっちですよ!」
彼女はそう言って、わたしを案内するように先に立って歩きはじめた。よく分からないままついて行くと、そこには縁側でくつろぐ時透さんがいた。
「どうぞごゆっくり」
きよちゃんに案内されてしまった手前、そのまま立ち去れるのもはばかられると思い、わたしは大人しく彼女から2つの湯飲みを受け取った。
片方の湯飲みを無言で時透さんに渡すと、彼はわたしの手を包み込むようにしてそれを受け取る。露骨な接触に嫌な顔をして見せると、時透さんはクスクス笑った。
「よかった、元気になったようだね」
「ええ、まあ……」
「前に会ったときは、口付けるのも悪いと思うくらい弱ってたから。でも今思うと、あのときしちゃえばよかったなって思ってるよ」
「………」
今のは聞かなかったことにしようと、蝶屋敷の庭に咲く花々に注目した。
「そういえば少し前に炭治郎に伝言を頼んだんだけど、届いたかな?」
「伝言?ええと、時透さんが遠方の任務に行くから、よろしく伝えておいてくれ…っていう伝言なら、伺いましたが」
「あれ?それだけ?」
時透さんは大げさに目を見開き、わざと驚いた様子を作った。
「おっかしいなぁ。愛してるよ、1日も早く君に会いたい……っていう風に伝えたはずなんだけど…」
「………」
「あれ?ときめいちゃって言葉も出ない?」
「………あのぉ、」
「うん?」
「なんだか今日は、よくご冗談をおっしゃいますね」
丁寧に嫌味を言ってやると、再びくだらない冗談を言うんだろう、という予想に反して時透さんは「あはは」と声を上げて笑った。久しぶりに見る、無邪気な笑顔だった。
「当たり前でしょ、だって君と久しぶりに会ったんだもの。少しぐらいはしゃがせてよ」
時透さんは手に持っていた湯飲みを脇に置くと、わたしの右手に自分の左手を重ねた。
「ナマエはどう?久しぶりに俺と会って、なんとも思わない?」
ぎゅ、と何かを握らされた。自分の右手に視線を落とすと、わたしの手には濃いすみれ色の花が一輪握らされていた。
「これは……」
「桔梗(キキョウ)、だよ。もしかして君って花に疎い?」
「……」
「あとで花言葉でも調べるといいよ」
時透さんは意味ありげにそう言うと、わたしの右手から手をどけた。そして傍らの湯飲みを取り上げ、中身を飲み干すと立ち上がる。
「さて。君の顔も見れたことだし、任務に行こうかな」
「……え。あの、」
忙しい合間にわざわざ蝶屋敷に寄ってくれたのか、という驚き、申し訳なさで、引き留めるような半端な言葉が漏れてしまう。
「どうしたの?僕がもう行っちゃうの、もしかして寂しい?」
振り返った時透さんが、またおどけた調子でそんなことを言う。本当なら、すぐに反論したかった。もしくは無視してやりたかった。でも結局わたしは、小さく息を吸っただけで何にも言葉を返すことができず、ただただ妙な間を生み出してしまった。
そんなわたしを見て、時透さんは目を丸めると「驚いたな……」と呟いた。
「え?あ、ごめんなさい、今のはその……」
「どうやら、希望がないわけではない、ってことか」
一人で納得したような彼を見て、わたしは言い知れぬ不安と恥ずかしさを覚える。何か言い訳をしなくては、と頭を働かせていると、頬に体温を感じた。時透さんの手がわたしの片頬を包み込んでいる。
「それじゃあ行ってくるね、ナマエ」
あまりに優しく自然な別れの挨拶に、わたしは反射的に「…行ってらっしゃい」と答えてしまう。そんなわたしの言葉に満足したのか、彼は柔らかく目を細めてからその場を後にした。
庭を横切り、蝶屋敷を出て行く時透さんの姿を、わたしは呆けたように見つめていた。その姿が完全に見えなくなってから、脱力したように縁側に座る。「それじゃあ行ってくるね、ナマエ」「行ってらっしゃい」という自分たちのやり取りが、何度も頭の中で繰り返されては、沸々と体が熱くなった。
「なんなの、さっきのは……」
まるで恋人同士のようなやり取りをしてしまったこの出来事を、今すぐ消してしまいたいと思い、恥ずかしさを追い出すように彼が触れていった額を乱暴に擦った。
☞拍手☜