24.たしかめたいひと

「………はぁあ」
知らず知らずのうちに気の抜けた溜息が漏れる。きっとわたしの表情も緩みきっているはずだ。こんなに気持ちのいい温泉に入っていたら、誰だって同じような状態になるだろう。「刀鍛冶の里に来てよかった」という思いがひしひしと沸き上がる。もともとは刀が折れてしまったことによる、やむを得ない訪問だったけれど、美味しい朝食を振舞われ、そのうえこんなに気持ちのいい温泉で寛げるのだから、もはやこれは”ご褒美”と称してもいいくらいだ。

「………ふあぁ」
突然背後から小さな欠伸が聞こえ、わたしは慌てて緩んでいた表情を引き締めた。一人で温泉に浸かっていると思っていたが、近くに誰かがいるらしい。乳白色の温湯の中で身じろぎせずに耳を澄ませていると、相手が体を動かしたのか、ちゃぷ、ちゃぷ、と水音がした。
「そんなに耳を澄まさないでよ、助平だなぁ」
…聞こえてきたのは、耳慣れたあの人の声。しかも、わたしを茶化すような軽薄な調子でそんなことを言うものだから、一人で赤面してしまった。

そう、よく考えれば分かることだ。時透さんと一緒に朝食をいただいたあと、それぞれの担当刀鍛冶に会うためにいったん別れたけれど、そのあと彼が温泉に入りに来たっておかしくはない。だって、この里で鍛錬以外でやれることは「温泉に入ること」ぐらいしかないのだから。

「一応、混浴は避けた方がいいかなと思って隣の温泉に入ってるんだけど。そっちに行ってもいい?」
「ダメです」
「どうしても?」
「どうしても」
「絶対に」
「絶対に、ダメです」
「ふぅん、つまんないの」
この温泉は竹でできた低い仕切りで分けられており、どうやらこの心もとない仕切りのすぐ後ろに時透さんがいるらしいのだ。これじゃあまともに寛げない。早いところ上がってしまおうかと考えていると「ナマエ」と名前を呼ばれ、上げかけた腰をもう一度下ろす。

「風の噂で聞いたんだけどさ」
「はい?」
「炭治郎に気持ちを伝えられたって、本当?」
「たっ…炭治、郎?」
「あは、わっかりやすいなぁ」
どうしてそんなことを聞くのかという疑問と、そんなこと聞かれたくなかった、という妙な後ろめたさがない交ぜになり、わたしの心拍数は急上昇する。
「それで炭治郎のこと、断ったとも聞いたよ」
「………」
「どうして?どうして断ったの?」
時透さんはひどく軽い口調でわたしに尋ね続ける。居心地が悪い。それに温泉に浸かったままだからか頭も少しぼうっとしてきた。でも時透さんの声には、この質問に答えなきゃここから立ち去れないような、有無を言わさぬ調子も含まれていた。
「……なんで、そんなこと聞くんですか」
「なんで、って。そりゃあ……」
一瞬間を置いたあと、彼は再び口を開く。
「俺はナマエにあった出来事や、そのとき君がどう思っていたのかも含めて、ぜんぶ知りたい。だって君が好きだから。…それ以外に理由なんてある?」

時透さんの言葉を最後まで聞く前に立ち上がっていた。バシャバシャと音を立てながら湯の中を進み、温泉から上がる。早くこの茹で上がった頭と体を冷やさなければと、それだけを考えていた。それだけを考えるように努力した、と言った方が正しいだろうか。脱衣所で乱暴に体を拭き、用意されていた浴衣に身を包む。髪から水がしたたり落ちるのにも構わず、里の中を足早に練り歩いた。だけどわたしの体からは一向に熱が逃げていかなかった。

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わたしの新しい刀が出来上がる頃、空は茜色が広がる夕暮れどきになっていた。刀鍛冶の方はわたしのために急ピッチで刀を打ってくれたらしい。隊服に着替え、練習用の人形で早速試し斬りをしてみる。新しい刀はこれまで以上に手に馴染み、切れ味も抜群。素晴らしい出来だった。刀鍛冶の方に何度もお礼を言い、上機嫌で自分が休ませてもらっている里内の屋敷に戻る。すると屋敷の前にはわたしを待ち伏せていたかのような時透さんがいた。
「その様子だと、いい刀を打ってもらったようだね」
「ええ、素晴らしい刀です」
「僕もしっかり研いでもらったよ、これでまた最前線で戦える」
そう言って柔らかい笑みを浮かべた時透さんは「ところで、」と言葉を続ける。世間話はここまで、というような雰囲気があった。
「ちょっと僕についてきてほしいんだけど……大丈夫、取って食ったりはしないからさ」


時透さんに連れてこられたのは、小高い丘のような場所だった。きっとここは里の中でも一番高い場所にあたるのだろう。薄明りのついた里の人たちの家々を見下ろすことができ、なんだか平和的な、それでいて切ないような気持ちになってしまった。
「今朝、温泉に入ってるときさ、話が途中になっちゃったでしょ」
「…まだあの話の続きをするつもりですか」
「まあ正直、あのことはもういいんだけど。僕、あのときもう一つ君に聞きたいことがあったんだ」
「………」
「ナマエは今でも僕のことが嫌い?」
「なんです、その質問…」
わたしはわざと大きな溜息をついてみせたが、時透さんは質問をやめる気がないようだった。
「今僕が純粋に知りたいことだよ。まだ君に嫌われているのかどうか、僕にとっては非常に重要なことだからね。で、どうなの?」
嫌な質問だなぁと、茜色が段々と夜の色に近づいていく空を見上げる。そんな質問、絶対に答えたくない、という思いがある一方で、手はじわりと汗をかき、体温は着実に上昇していた。なんという正直な体だろうか。

「じゃあ聞き方を変えようか。ナマエはさ、僕のこと、好き?」
「はぁ?!」
声を上げた直後、後悔する。これじゃあ、あまりに正直すぎるだろう。
「へぇ、随分な反応をしてくれるね」
時透さんはクスリと笑うと、突然わたしの左手を握った。飛び上がりそうなほど驚く。
「こうして攻め続けたかいがあった、ってわけだ」
「な、何を言ってるんです?自惚れすぎですよ…」
「そう?じゃあ自惚れかどうか、たしかめさせてよ」
そう言って時透さんはわたしの左手をグイと引っ張る。体が左に傾き、自然と彼に体を寄せるような体勢になった。時透さんの瞳をマジマジと見つめられるくらいに、距離が近い。これは、あのとき―――大きな橋の上で、唇を重ねられたときの距離だ。そう思った瞬間、逃げ出したいような羞恥に包まれる。
そんな思いが顔に出ていたのか、時透さんは小さく笑った。
「ほら、君って正直」
彼はもう一方の手でわたしの隊服の胸倉あたりを掴む。そうしてゆっくりと自身の方へ引いた。

どんな馬鹿でも分かる。このまま距離がゼロになれば、お互いの唇が重なるんだと。恥ずかしい気持ちはある。戸惑う気持ちもある。でも、この行為が嫌なのかどうか…はっきりとは分からない。恥ずかしい。怖い。胸が騒ぐ。……目を瞑った。


「アーッアーッ!!」


突如、乱暴な羽音と共にけたたましい鳥の声がした。わたしと時透さんはビクリとして同時に顔を上げる。すると、慌てたような飛び方の鎹鴉がこちらに飛んでくるところだった。わたしは少しだけホッとしたけど、時透さんは聞こえるか聞こえないくらいの音量で舌打ちをしていた。しかしその鴉の様子から、ただ事ではない”何か”が起こっているらしいということは、時透さんも察したらしい。彼は名残惜し気にわたしの隊服から手を離したのだった。




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