25.おかえり

あの日、鎹鴉は緊急司令を告げるためにわたしたちのもとへやって来た。しかし、実際に招集をかけられたのは時透さんだけ。彼にだけ、急いで任務に赴くようにと司令がくだったのだ。

普通ならば、その逆―――つまり柱ではなく、イチ隊士であるわたしだけが任務に行くように、という司令を受けるほうが一般的であるように思える。
「それだけ緊急性が高いってことでしょ。一般隊士10人で倒せるような鬼ならば、柱を1人送り込んだ方いいってことだ。…別にこれは能力の差をアピールしているわけじゃないよ。きっとお館様は、その10人分の労力をほかの任務に回したいと思っているんだろう。だから僕1人にだけ声がかかったってこと」
「…でも、」
「ナマエはナマエのやるべきことをやってよ。大丈夫、僕は生きて帰ってくるから」
言い分は分かっても、漠然とした不安を手放すことはできない。そんな状態で刀鍛冶の里を出て行こうとする時透さんの話を聞いている。

「そうだ、さっきの……話が途中になっちゃったでしょ。僕、けっこう残念に思ってるんだからね」
「えっ、あ、あぁ……」
先ほどまでのことは”話”というよりも、時透さんによる一方的な”行為”に近いと思う。あのまま鎹鴉が来なければ、恐らく…いや絶対に、わたしたちの唇はまた重なっていたことだろう。懸命に頭から追い出していたことだっただけに、話を蒸し返されて急に体温が上昇する。
「僕が帰ってきたら、もう一回仕切り直すから」
「それは、その…」
「君の気持ちをもう一度確認する、ってこと」
「………」
「どうして黙るの?もしかして、嫌?」
「……嫌、です」
「ふぅん、あっそ。でも僕は辞めないから」
時透さんってこういう人だ。わたしのことを尊重するような素振りだけ見せて、あとは自分の思うがまま。いつも一方的で、でも最近はそんな彼のペースに抵抗できない自分がいる。なんとも複雑な気分だ。

「う、」
突然、鼻に閉塞感を覚える。驚いて顔を上げると、時透さんが少々不機嫌な顔でわたしの鼻をつまんでいた。
「勝手に黙り込んで、なんなの。僕がこれから危険な任務に行くっていうのに、行ってらっしゃいとか、早く帰ってきてねとか、そんな気持ちのこもった言葉の一つもないわけ?」
「どうか…ご無事で」
情けない鼻声で、ひどく形式的な別れの言葉を紡ぎ出すと、彼はやっとわたしの鼻を解放してくれる。それから柱らしく背筋を伸ばし、表情を引き締めると「行ってくる」と一言だけわたしに告げた。

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あれから早2週間―――時透さんからの連絡は、ない。
仲間の隊士に確認したところ、かなり難航している任務だということだけは分かった。状況を知らせる暇もないのかもしれない。また時透さんと任務を共にしている隊士の中で、大怪我を負って帰ってくる者が日に日に増えている。それも不安を煽る要素の一つである。

わたしは、いつでも応援に駆けつけられるよう、毎日鍛錬を行なった。けれど、実際応援に呼び込まれるのはわたしよりも階級の高い隊士ばかり。結局、階級の低い者を送り込んでも戦いの邪魔になるということなのだろう。

不安ばかりが募り、毎日時透さんのことを考えた。また、彼の力になれない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。もっと強くなりたい、そう思って鍛錬を繰り返す日々だった。

そうして1ヶ月が経った頃、ようやく良い報せが入ってきた。時透さんが送り込まれた任務が、ようやく終息したというのだ。しかし犠牲になった隊士は多い。一命をとりとめても、体に毒が残っていたり、手足を激しく損傷していたりと、大怪我を負った隊士も多いのだとか。そして時透さんも、そんな大怪我を負った隊士のひとりであるということを、後になって知った。

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大怪我を負った時透さんが蝶屋敷で治療中だという話を聞いた日の夜、わたしは任務を終えるとそのまま屋敷に向かった。全身傷だらけ、隊服も汚れ、普段なら一番に湯浴みをするところだけど、そんなことに時間を割くつもりは毛頭なかった。一秒でも早くあのひとの顔を見たい、その一心だったのだ。

途中で何度もつまずいたり、転んだりした。もう体がボロボロなのだ。でも足を止めることはできない。一命をとりとめているとはいえ、体に変調が起きないとも限らない。わたしがダラダラと屋敷に向かっている間に、時透さんの命の灯が消えてしまったら……歩調を緩めると、すぐにそんな恐ろしいことを考えてしまう。だから走った。フラフラの体と、引きずる足を叱咤して、必死に走った。


蝶屋敷に着き、時透さんが治療しているという部屋の前まで来ると、濡れた布やら薬瓶やらが乗った盆を持ったアオイがさんが出てくるところだった。彼女はボロボロのわたしを見て息を呑んだけれど、ちょっと眉を下げ、わたしを気遣うように小さく微笑む。
「ようやく落ち着いたところ。今日は一日高熱が出て大変だったの」
「あ、あの……」
「山は越えたから大丈夫。顔、見てったら?お見舞いでしょう?」
わたしはぎこちなく頷くと、空いたままの戸からそうっと顔を覗かせる。掛け布が小さく上下していた。わたしが部屋の中に入ると、アオイさんは静かに戸を閉めてくれた。

「…だれ」
掠れた小さな声が聞こえる。満身創痍の状態でも、気配を察知する癖は抜けないみたいだ。わたしは恐る恐る寝台に近づく。薄暗い部屋の中で、時透さんが寝台に横たわっている。片目を包帯で多い、額や口元にはいくつもの痣とかさぶたがあった。無事な方の目は眠たそうに細められていたけれど、わたしに焦点が合うと、ふわりと目じりが緩む。
「ああ、ナマエ……」
時透さんは掛け布の下からゆっくりと手を出し、わたしの方へ伸ばす。その指先は震えており、おぼつかない。
「泣いてる、の。僕の…ために」
包帯だらけの指が、わたしの頬を滑る涙をすくった。けれど涙は、あとからあとから止めどない湧き水のごとく流れるので、時透さんに拭ってもらったくらいじゃ足りない。
「……おいで」
時透さんが無事で嬉しいからなのか、あまりに痛々しい姿で悲しいからなのか……自分が泣く理由は正直分からない。ただ、生きていた中で一番ではないかと思うほど、わたしは静かに大粒の涙を流していた。

時透さんはわたしを寝台脇の椅子に座らせると、そのままわたしの片方の手を握った。
「本当は、抱きしめてあげたいけど……いろんなとこ痛くて、ね」
はじめは仰向けで寝ていた彼だったけれど、今は寝返りを打ち、横向きの体勢でこちらを向いている。
「だから、こうして、いよう」
これまでにないほど弱々しい力でわたしの手を握る。それがまた切なくて、泣いた。
「ねぇ、ナマエ。僕、帰ってきたよ……偉い、でしょ」
声を出したいのに、涙としゃくりが止まらず上手く声が出せない。そんなわたしを時透さんは穏やかな表情で見つめている。だから、何とかして言葉を伝えなければと思った。
「おっ、お……」
「うん」
「お、おか…っえり、なさ、いっ……」
わたしの言葉に、時透さんは再び目元を優しく緩ませる。
「ただいま……ナマエ」
掠れているけれど落ち着いた彼の声が、薄暗い部屋の中にゆっくりと広がり、消えた。





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