26.体温

優しく名前を呼ばれている。落ち着くその声をこのままじっと聞いていたいけれど、わたしは気だるい眠りの沼からゆっくりと這い出る。この声の主に今すぐ会いたい気がしたからだ。

薄っすらと目を開くと、まず白い布が目に入った。それから隊服に身を包んだ自身の腕も確認する。どうやらわたしは自分の腕を枕にするようにして、うつぶせて寝ていたらしい。なんとなく状況を理解したところで、重たい頭をゆっくりと持ち上げた。ああ…全身凝って体がバキバキだ。丸椅子に座ったまま腰に手を当て、思いきり体を伸ばそうとしたところで、わたしは目の前の人物と目が合った。相手は目を細め、嬉しそうな顔でこちらを見つめている。
「おはよう、ナマエ。よく寝ていたね、僕の手を握ったまま」
その瞬間、わたしはすべてのことを思い出した。

そう、ここは時透さんの病室で、わたしは昨夜遅くにお見舞いに来たのだ。そして、いろいろと泣き言をこぼし、でも彼の手の温かさが嬉しくて……それで安心しきって、そのままこの寝台にうつぶせたまま眠ってしまったのか。
「君のそんな無防備な寝顔、初めて見たかも」
彼は自分の頬を指さすと「ここ、隊服の袖の跡ついてるよ」と笑った。そんなことをしても意味はないのに、わたしは慌てて自分の頬を擦る。
「朝起きて、好きな子がそばにいるってこんなに幸せなんだね。生きててよかった」
「そ、そんな大げさな」
そこでわたしは、部屋の外から「お薬の時間ですよー!」という快活な声がするのを聞き取った。どうやら隣の部屋に向かって、アオイさんが声をかけたらしい。つまりそれは、じきににこの部屋にも彼女がやってくるということだ。わたしは椅子から転げ落ちそうになりながらも立ち上がり、隊服の皺をあちこち伸ばす。
「もう行っちゃうの?」
「はい、わたしも…その、任務がありますし」
「少しゆっくりしていったっていいじゃない。朝ご飯、ここで食べていったら?」
「いえ、あの、また来ますから…たぶん」
わたしは軽く頭を下げると、そのまま小走りに戸に向かう。そうして外に出ようとした瞬間、外側からその戸が開かれた。

「わっ」
そこには目を丸くしたアオイさんがいた。手には薬がのった盆が持たれている。そして彼女の顔からは、わたしが一晩中この部屋にいたことへの驚きがありありと表れていた。それが途方もなく恥ずかしくて、わたしは妙に大きな声で「おはようございます!」と挨拶をすると、逃げるように部屋を出て行った。

+++

それからわたしは、これまでと同じように、日々任務や鍛錬に打ち込んだ。貴重な柱である時透さんが療養中、というのは鬼殺隊にとって大分痛手であったため、誰もがその状況をカバーしようと懸命に任務に励んだ。そして、わたしが時透さんの二度目のお見舞い行ったのは、あれから1週間も後のことだった。忙しいことを理由にしていたが、正直言うとどんな顔をして会えばいいか分からなかったのだ。

時透さんはわたしに対して確実に好意を示すようになった。しかも、会うたびにその表現は直接的になっていく。冗談みたいに愛の言葉を送られてきたけれど、それもいい加減どうすればいいか分からなくなってきていたのだ。わたしは、自分のことがよく分からない。時透さんが生死をさまよっていると聞いて必死になった。一命を取り留めたと聞いて心の底からホッとした。ボロボロな姿の彼を見て、安心と痛ましさに涙を流した。これまでのわたしじゃ考えられないほどの情緒の変化で、きっと見えないところで、わたしの心は確実にその形を変えていたのだと思う。


1週間ぶりに会った時透さんは、いまだ包帯や傷あてをしている部分はあれど、かなり元気そうに見えた。以前は自分で体を動かすことすらままならなかったのに、今では寝台から起き上がることは造作もないらしい。
わたしが来ると、時透さんは感じの良い笑みを浮かべた。幼さが残る、可愛らしい素直な笑顔だった。
「ナマエ、会いたかったよ」
「…調子はいかがですか」
「だいぶいい、でもあと1週間はここにいろって。たしかに、手足に力が入りにくかったりするし、まだ万全ではないんだよね」
でもね、と彼は言葉を続けたかと思えば、急にわたしの腕を掴み強く引っ張った。ぼうっと寝台脇に立っていたわたしは、突然の動きに対応できずバランスを崩す。柔らかな寝台に片手をつくような形でよろけると、彼はそのまま抱きつくようにわたしの背に手を回した。
「こういうことくらいなら、もうできるよ」
いたずらっぽい声でそう言うと、彼は図々しくわたしの肩に顎を乗せた。

なんでこんなことをするんだ、とはもう思わない。こんなことをしてしまうくらい、彼がわたしに好意を持っていることは、もう十分に分からせられたからだ。だからといって、こういう大胆な触れ合いに慣れているわけではなく、わたしは体温が急上昇していることがバレる前に…と彼の手を引きはがそうとした。

「…ちょっとくらい許してよ、寂しかったんだから」
ボソリとこぼした彼の言葉に心臓が跳ねる。そして、彼がわたしを抱きしめる力はさらに強まり、わたしたちが触れ合う面積がさらに大きくなった。時透さんの体温は子どもみたいに高く、温かかった。でもそれは、わたしの体温が高いせいなのかもしれない。どちらにせよ、わたしたちはポカポカとその体温を共有し合っていた。

「ねぇ、ナマエ。今週末、少し時間を作ってくれない?」
時透さんは突然耳元でそう言った。吐息がかかるくすぐったさに驚き、わたしは「今週末っ、ですか?」と声を上ずらせながら聞き返す。
「うん。僕、来週から任務に復帰するんだけど、任務に行く前にちょっと体を動かしておきたくてさ。僕に個別に機能回復訓練をつけるとでも思って、付き合ってよ」
「それは構いませんけど…それ、わたしでいいんですか?」
「もちろん。じゃあ詳しいことはまた、鎹鴉を通して伝えるからさ」
それから彼は、やっとわたしを解放してくれた。(わたしが体を起こす直前、どさくさに紛れてわたしの前髪に口付けをしたのは、いかがなものかと思ったけれど…)


そのあとすぐに、別の見舞客がこの病室に入ってきたので、わたしたちを包んでいた一種の甘やかな雰囲気は雲散霧消した。新たな見舞客のおかげで二人きりだった緊張感から解放されたので、わたしは密かにこの状況を喜ぶ。しかし時透さんはというと見るからに不貞腐れており、見舞客の話を話半分に聞き流していた。そんな幼い表情がどこか新鮮で、わたしはそっと笑いを噛み殺した。




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