24.「3日前」のこと

今日はお客さんが少ない。夕食時の18時をまわっても客足は少ないまま。いつもなら、のんびりできてラッキーと思う状況だけれど、今日はそんなゆったりとした時間が苦痛だった。忙しく働いていれば、今わたしの頭の中を支配している事柄を忘れられるのに。今のわたしにとって考えることができる時間を与えられるのは、辛くて仕方なかった。

「おい」
わたしがグラスやシルバーを磨いていると、いつの間にか宇髄さんがそばにいた。眉根を寄せ、しかつめらしい顔でわたしを見下ろしている。「はい」と返事をするのとほぼ同時に、宇髄さんはわたしが磨いていたグラスをひょいと取り上げた。そうして先ほどよりもまじまじとわたしの顔を覗く。
「なんだぁ?お前、体調でも悪いのか?」
「えっ」
こんな風に宇髄さんに気にかけられるのは初めてのことだった。そしてそれは、それほどわたしの様子がおかしいということでもある。「いえ、別に、大丈夫です」と慌てて体調不良を否定するも、宇髄さんは納得していない様子で首を傾げた。
「なにが大丈夫なんだよ、お前地味に辛そうだぞ」
「いや、ですから……」
「あれか?高校生ならではの悩みかなんか、あんのか?それなら今日は店も暇だし、この天元店長サマ直々に、その悩みを聞いてやってもいいぜ」
自信満々な顔の宇髄さんから目を逸らすと、わたしは彼の手からグラスを取り返す。
「お気持ちはありがたいのですが、あの、わたしは本当にだいじょ……」
大丈夫です、と最後まで言えなかったのは、肩にズシリと重みを感じたからだ。恐る恐る顔を上げると、宇髄さんの顔がすぐそこに、そしてわたしの肩には筋肉隆々の彼の腕が乗っかっている。
「……話、聞かせろって言ってんだよ。店長命令だコラ」
わたしは知っている。宇髄さんはいい人だが、凄みをきかせるとものすごく怖いオニイサンになる。ガラの悪いお客さんが来たとき、新しく入ったバイトが言うことを聞かないとき、宇髄さんはそうやって凄んで物事を解決してきた。わたしは今、まさにそうやって凄まれている。
「……分かり、ました」
ガチガチに固まった首をなんとか縦に振って、わたしは3日前の出来事をポツリポツリと話しはじめた。

+++

―――3日前。それは、わたしがキメツ学園の文化祭に行ったときのことだ。あの日の帰り際、わたしは善逸くんに気持ちを伝えられた。予想だにしていないタイミングの、予想だにしていない言葉に、わたしはおおいに戸惑った。でも、あのときの気持ちを「戸惑った」とだけ表現するのは嘘かもしれない。わたしはあのとき、たぶん、少しだけ嬉しかった。割合で言えば6割が驚きと戸惑い、2割が恥ずかしさ、そして残りの2割が嬉しさだったと思う。でもそれは数日経った今だからこそ自覚した気持ちであって、あのときは混乱で頭が爆発しそうだったのだ。

ふわりとコーヒーの香りがして顔を上げると、柔らかな湯気が上がっているコーヒーカップが置いてあるのに気づく。いつの間にか宇髄さんがコーヒーを淹れてくれていたらしく、本人も隣でコーヒーを啜っていた。一通りの話を終えたわたしは喋り疲れていたので、ありがたくカップに口をつける。じわりと口内に苦みが広がり、香ばしいかおりが鼻を抜けた。やっぱり宇髄さんの淹れるコーヒーは美味しい。強張っていた体がリラックスしていくようだった。

「じゃあお前は、善逸の告白を断ったわけでも、受け入れたわけでもないってことか」
「そう…なりますね」
「ふぅん」
そう言って宇髄さんはなんとなしに店の外を眺める。薄いコートを羽織った人、やや厚着をしている人の割合は半々だろうか。そろそろ冬がやってくるんだなぁと思いながらも、わたしは宇髄さんの言葉を心の中で反芻する。

―――そうだ、わたしは善逸くんの告白を断ったわけでも、受け入れたわけでもない。そもそもあれが”付き合ってほしい”という意味を含んだ告白であったかも不明だ。善逸くんの口から無意識に出てしまった本音のようにも思える。
そういうこともあって、わたしは彼になんと返事をするのが最善なのか分からなかった。そもそも自分の気持ちさえよく分かっていないのだから、どうにも答えようがないのだけど。ただ胸の奥にはきっと”嬉しさ”があって、でもそれを自覚するのが恥ずかしくて。だからわたしは彼に「ありがとう」とだけ言った。その場に相応しくない、ひどく堅い声で言葉を絞り出した。そうして、夕日に負けないくらい真っ赤になった善逸くんを残して、その場を立ち去ってしまったのだ。後を引くような罪悪感と、気まずさと、恥ずかしさが心の澱となり、それは今でも残っている。


宇髄さんは茶々を入れてくるかと思えば、意外にも始終真面目に話を聞いてくれた。ありがたいような、それでいて少し居心地が悪いような、妙な感じがする。お互い黙ってコーヒーを啜る時間が続く。やっぱり話さなければよかったかも…と後悔しはじめたところで「ナマエ」と名前を呼ばれた。
「はい」
「お前、この仕事楽しいか?」
なんの脈絡もない質問に一瞬戸惑う。けれど、この質問に特別な意図はないように思う。だからわたしも素直に答えることにした。
「はい。接客はちょっと苦手ですけど、仕事は好きです。コーヒーも美味しいし…」
宇髄さんはじいっとわたしの顔を見つめたあと、再び店の外に目を向けた。
「あ、そ。ならよかった」
それから突然、頭に重みを感じる。その重みのせいで、危うくコーヒーカップに顔を突っ込むところだった。さらに頭が右に左にと動きそうになるので、力を入れて必死に支える。なにかと思えば、宇髄さんが乱暴にわたしの頭を撫でまわしているのだ。無表情なフリをしているものの、その口角は緩やかに上がっている。

「じゃあ、ついでにもうひとつ」
「はい」
「お前は善逸のこと、人として好きか?」
「え、」
宇髄さんは黙ってコーヒを飲んでいる。きっとこれも、純粋な質問なのだと思う。コーヒーカップを両手で包み、心地よいぬくもりを感じながら思考を巡らす。そして気づいた。善逸くんを人として好きかどうか、それは実はわたし自身が知りたいことでもあった、と。

想いを伝えられた恥ずかしさから、いろんなことから目を逸らしていた気がする。でも善逸くんのことが好きなら、ちゃんと向き合わなければいけない。向き合ったうえで、自分の気持ちを考える。それが善逸くんへの誠意だろう。

時間をかけて答えを見つけるわたしを、宇髄さんは咎めない。それが嬉しかった。わたしはゆっくりと息を吸う。
「好き、です。人として」
コトリ、と宇髄さんが静かにカップを置く。それからわたしの方に手を伸ばし、ポンとひとつ頭を撫でると「ん、ならよかった」と言った。そうしてニッコリ笑うとキッチンの奥に行ってしまった。

+++

その後、数組のお客さんが店にやってきたので、次に宇髄さんと話ができたのは閉店間際になってからだった。わたしが少なくなったブラウンシュガーや調味料の補充をしていると、近くでレジ締めをしている宇髄さんが口を開いた。
「俺はな、ナマエと善逸、どっちの味方でもねぇし、お前らをどうこうしようって気もねぇ」
手際よくレシートを分けながら、宇髄さんが話を続ける。
「でもな、俺にとっちゃナマエも善逸も可愛い後輩だ。だから、お前が悩んでたら話を聞いてやりてぇし、できる範囲で助けてもやりてぇのよ。それが善逸であっても、俺は同じことを思う」
意外な優しい言葉に心を打たれかけるも、チャリンチャリンという派手な音でその感動はかき消される。宇髄さんが随分と派手な音を立てて乱暴に釣り銭を補充したのだ。この人、ときどきものすごく大雑把なところがある。

「まあ、なんつーか、また話聞かせろよ。いつも以上に地味で辛気くせぇお前の顔見るのつまんねぇし。暇なら美味いコーヒーも淹れてやるから」
最後の皮肉は、やや湿り気を帯びた雰囲気を一掃するためのものだろう。宇髄さんのそういうところが、わたしは嫌いではなかった。「ありがとうございます」とお礼を言うと、彼は満足げな顔で笑った。しかしそのあと、衝撃の事実を知らされる。

「そういえば、このあと善逸が来るから、ちょっと話してやれよ」
「………は?」
「30分くらい前にあいつから連絡来ててな。ナマエが今日店に出てるかって聞いてきやがって…俺に聞く必要あんの?あ、もしかしてあれか、やっぱお前ら気まずくて今連絡とってないのか?」
さっきまでの大人なお兄さんはどこに行ったのだろうか、というくらい”明らかに面白がっている顔”でわたしに言葉をかけてくる宇髄さん。正直脳が追いついていない。
「ってことで、もう上がっていいぞナマエ。お疲れさん」
「ちょ、ちょっと…」
「お、来た来た。早く行ってやれって」
宇髄さんがニヤニヤしながら店の外を顎でしゃくる。外には見覚えのある金髪で学ラン姿の男の子が、こちらに背を向けて立っていた。





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