3.摩訶不思議

まとまった睡眠を取ったからか、寝起きは非常にすっきりとしていた。あまりにもすっきりとしているので、宇髄さんが見舞いに来たことは夢だったのではないか?という気がしてきた。霞柱のことが苦手なあまりに、わたしが作り出した夢と妄想だったのかも、と。

アオイさんに運ばれてきた夕食をとったあと、わたしは夜風にあたりたくなり、部屋を出た。アオイさんからは、”最低3日間は安静にするように”、”歩き回るのは4日目以降から”と言われていたのだが、我慢できなかった。あとで怒られてしまうかもな…と、アオイさんの怒った顔を思い浮かべ苦笑する。

全集中の呼吸を使って痛みを緩和させながら、一歩一歩廊下を歩いていく。やがて、広い庭が現れた。わたしは砂利が敷かれた庭に慎重に下り立つ。痛みで息が上がりそうになるが、全集中の呼吸を繰り返し、体を落ち着かせる。庭には岩に囲まれた池があった。そっと近づくと、金色や朱色に輝く美しい鯉たちがこちらに寄ってくる。
「キレイ…」
優雅に泳ぐ鯉たちを眺めていると、痛みで緊張した体がほどけていくようだった。心地よい温度の風が、わたしの頬や髪を撫でる。風にくすぐられた庭の木々がさわさわと音を立てるだけで、それ以外は静寂に包まれていた。なんとも幸福な空間だった。

―――しかし、そんな幸福な空間は、何の前触れもなく壊される。

「ねえ」
心臓が口から飛び出るかと思った。わたししかいないこの庭に、いつの間にか彼…”霞柱”がいた。なぜ?いつから?いや、今はそんなことよりも、背後にいる霞柱の方を振り返らなきゃ。早く、早く。でないとまた小言を言われる。
ところが、あまりに動揺したわたしの体は言うことを聞かない。続けていた全集中の呼吸も忘れてしまい、一気に体に痛みが押し寄せる。その状態で体を反転させ、声を出そうと息を吸ってしまった。
「はっ…、うっ……」
わたしは頭がくらくらし、後ずさった。まずい、後ろには池が…そう思ったときには遅かった。わたしは池の岩につまずき、鯉の住処である池にまっすぐ落ちる。諦めからか無意識に目を閉じ、池の水の冷たさについて考えている自分がいた。

バシャンッ

そう派手な音がして、わたしの顔に水しぶきがかかる。しかし、不思議と体に水の冷たさは感じず、むしろ温かさを感じるくらいだった。なぜだ?恐る恐る目を開けると、わたしの目に映ったのは雲一つない澄んだ夜空。
「怪我人がなにをしているかと思えば…」
頭上から低いつぶやきがして、体がギクリと強張る。震えながら視線を上に移していくと、長い髪から水を滴らせた霞柱がわたしの顔を見下ろしていた。わたしはたちまちパニックになる。
「君、肋骨折ってるんでしょ。なんで安静にしないで、こんなところで遊んでるの」
霞柱は池の中に立っていた。全身水浸した。彼の両腕はわたしの脇を支えている。つまり、岩につまずき背中から池に倒れていったわたしを、霞柱が目にもとまらぬ速さで池に移動し、後ろから抱きとめてくれた、という構図のようだ。わたしの体は一切池の中に入っていない。両足は不安定な岩にあり、そして霞柱に背中から寄りかかり、全体重を預けている状態なのだ。

「ちょっと、早く自分の足で立ってくれない?こっちは水浸しで寒いんだけど」
霞柱のぼやきにやっと状況を飲み込み、慌てて体勢を立て直そうとする。彼は多少わたしの体を気遣っているのか、「いくよ」と小さく声をかけてくれたあと、わたしの体をゆるく押し、地面に立てるよう手伝ってくれた。そのあと自身も池の中から上がる。負傷中とはいえ鍛錬でもしていたのか、霞柱は隊服だった。オーバーサイズのその隊服から、また彼の髪から、ぽたぽたと水が滴り落ちる。そんな彼の姿を見て、ああ、なんということをしてしまったんだ、とわたしは絶望の淵に立たされたかのような気持ちになった。

「霞柱、申し訳ありません」
わたしは彼に頭を下げる。なるべく体を折りたいのだが、肋骨の痛みがそれを激しく拒否し、思うように体を動かせない。はっ、はっ、と息が短くなっている。緊張からか、痛みからか、過呼吸を起こしかけている。それが余計にわたしを焦らせた。
霞柱は黙ってわたしに近づき、震えるわたしの右手を取ると「落ち着いて」とささやく。
「大丈夫だよ、ちょっと息を止めて。そう、それからゆっくり吐いて」
霞柱の手は濡れていたが、ぬくもりがあった。それが妙にわたしを落ち着かせた。
「うん、上手。じゃあもう一回、息を吸って。深くなくていいよ。それから、またゆっくり吐いて。痛いかもしれないけど、頑張って」
わたしは震えながら息をゆっくりと吐く。霞柱がわたしの手を握っていることに、もはやなんの違和感も覚えていなかった。わたしの呼吸は段々と落ち着き、息苦しさも薄らいでゆく。
「どう?落ち着いた?」
通常の呼吸を取り戻したわたしを見て、霞柱がたずねる。「はい」とわたしが弱々しい声で答えると、霞柱はわたしの右手を離した。ぬくもりが離れていく瞬間、わたしはずっと彼に右手を握られていたんだと自覚した。

「君のこと、ちょっといじめすぎちゃったかな」
自分の髪から滴り落ちる水を眺めながら、霞柱はそう言った。わたしに言葉をかけたというよりも、独り言をつぶやくような口調だった。
「追いつめて、ごめんね」
霞柱は眉を下げ、わたしに言葉をかける。そんな顔を見るのは初めてだった。無表情にわたしを叱りつける彼の顔以外、見たことがなかったからだ。
「あ…いえ、あの……」
「ナマエがこれ以上、怪我をしなくてよかったよ」
これは本当にわたしの知っている霞柱?あまりの変わりように、居心地が悪くてたまらない。
「あの、霞柱、どう…したんですか?」
「どうした、って?」
「その…いつもと様子が、違うので……」
「様子が違うって…。僕が素直になっちゃおかしい?」
霞柱はムッと、機嫌を損ねたような顔になる。
「ちょっとやりすぎちゃったって僕が素直に謝ってるんだから、そっちも素直にそれを受け取ってよね」
「す、すみません……」
「別に謝らなくてもいいけどさ」
そのとき、わたしと霞柱のあいだを、一陣の大きな風が吹き抜けた。落ち葉や花びらが舞い上がるほどの強い風で、わたしは思わず目をつむる。すると、目には見えないが霞柱の動く気配がした。
「じゃ、僕はいくから」
そう声が聞こえ、手にぬくもりを感じる。驚いて目を開けると、もうそこに霞柱の姿はなかった。残ったのは、そよそよと木々を揺らす優しい風だけだ。

狐につままれたような、摩訶不思議な心地がしてならない。どうやら、霞柱は去り際にもう一度わたしの”手”を握ったらしいのだ。池を見ると、変わらず鯉たちが遊泳を楽しんでいる。しかし、その池を囲む岩や付近の草は水に濡れ、そこで何者かが池で水濡れになったことを物語っていた。

「ナマエさーん!ナマエさーん!!どこにいるのー?!」
池を眺めながら思案していると、アオイさんのよく通る声が聞こえた。きっと部屋を抜け出したわたしを探しにきたのだろう。わたしが理解できる物事の範疇を超える出来事が起こり混乱しているが、ひとまずはアオイさんに怒られるため、部屋に戻ることにした。




拍手