4.”確信”は目の前に

「3日間は要安静、4日目以降に出歩いていいって言いましたよね?」
部屋に戻ると、案の定、アオイさんに怒られる。わたしは素直に謝り、明日一日は必ず安静にすると約束した。
「あれ?ナマエさん、額や衣服がところどころ濡れているようですけど…なにかありましたか?」
抜け目のないアオイさんは、そんな些細な変化も見逃さない。わたしは一瞬動揺したが、努めて平静を装い、
「池の鯉と遊んでいたら、ちょっと水を浴びちゃって…」
と答えた。「もう、子どもじゃないんですから!」とアオイさんは怒って見せたが、その件について深く追究することはなかった。霞柱とのあの出来事は、まだわたしの中でも整理しきれていなかったため、他の者に知られたくなかったのだ。

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翌日、わたしはアオイさんとの約束通り、一日を寝台の上で過ごした。たまに仲間が見舞いに来てくれたり、土産を置いていってくれるので、それほど退屈することはなかったが、早く体を動かしたくてたまらなかった。

翌々日、いよいよわたしは屋敷内を歩き回れるようになる。とはいえ、骨折が完治しているわけではないので、体は痛い。だが、ゆっくりとした動作であれば、以前のような激しい痛みを覚えなくなった。蝶屋敷の方々の治療と、回復を速める全集中の呼吸のおかげだ。わたしは屋敷をぶらつき、ほかの仲間に挨拶をしたり、機能回復訓練の見学をしたり、またできる範囲で鍛錬に挑戦したりして、一日を過ごした。


日が暮れ、空が茜色になった。そろそろ夕食の時間だ。今日の献立はなんだろうか、そんなことを考えながら屋敷の庭をゆっくり散策していると、鯉の泳ぐ池にたどり着く。一昨日の夜、ここで霞柱と不可思議な出来事があったのだ。わたしは肋骨が痛まぬよう注意しながらしゃがみ、池を覗き込む。このあいだはびっくりさせてごめんね…そんな気持ちで近づいてくる鯉たちを眺めた。

―――一昨日の夜、あの意地悪な霞柱が、申し訳なさそうな顔をしてわたしに謝罪した。あれは一体どういう風の吹き回しだったのだろう。さすがにいじめすぎてごめんね、という意味だったのだろうか。ならば、今後はちょっとだけいじめるね、という具合になるのだろうか。小言の時間は短くなるのだろうか。霞柱の謝罪と優しさは、わたしの不安をさらに掻き立てるばかりだ。

「ナマエ」
突然名前を呼ばれ、驚いて体がつんのめりそうになる。が、すぐさま岩に手をついたため、池の鯉たちに迷惑をかけることはなかった。わたしはいつになったら、この”突然現れる霞柱”に慣れることができるのだろう。
振り向く前に、霞柱が音もたてずわたしの隣にしゃがんだ。
「またここで遊んでるの。君は本当にこの魚が好きだね」
そう言ってわたしの顔をじっと見つめる。
「あ、霞柱、このあいだは失礼いたしました…」
わたしは慌てて先々日のことを詫びた。
「別にいいよ。僕が助けないと、君はあのまま池に真っ逆さまだったし」
「はあ…」
霞柱を前にすると、どうしても激しい緊張と不安を覚えてしまう。心拍が上がり、じんわりと汗をかく。次になにを言われるのだろうと、落ち着きがなくなる。

「あのさ、今日は君に意地悪を言いにきたわけじゃないよ」
「えっ!ああ、そうですか…」
急に霞柱がわたしの顔に手を伸ばした。わたしは驚いてその手を避けてしまい、彼は明らかにムッとする。
「あの、えっと…」
「動かないでよ」
なにをされるのか不安でたまらないが、わたしは唾を飲み込み、顔を動かさぬようじっとした。霞柱の手はわたしの首筋に触れ、数秒その状態を保つ。異性に触れられているという意味での心拍の上昇はなく、ただ、わたしは霞柱に殺されるのだろうか………という漠然とした不安と緊張で、なんだか泣きそうになった。
「君、僕といるとき、こんなに脈が速いんだ。僕が怖いの?」
霞柱はそう問うと、わたしの首から手を離す。彼は心なしか、寂しそうな表情だ。
「ねぇ、僕が怖い?」
どう答えようか考えあぐねているわたしに、霞柱はもう一度問いかけてくる。
「いえ、あの、そんなことは…!」
慌てて否定するも、わたしの声は情けなく震えているので説得力がない。すると霞柱は小さくため息をついた。ああ、わたしは彼を怒らせてしまったのだろうか。

「僕、君に優しくしたいんだけど。どうすればいいかな」
「は…」
「正直、優しくするって、よくわかんないんだよね」
霞柱はつまらなさそうな顔で、楽し気に泳ぐ鯉たちを目で追う。わたしは投げかけられた問いの内容をいまいち理解できず、彼の横顔を眺めるしかなかった。
どうすれば優しくできるのか。それはつまり、霞柱がわたしに優しくしたい、ということだろうか。なぜ?そうだ、なぜわたしに優しくするのだ?なぜ優しくする必要性を感じているのだ?まずそれを確認する必要があるだろう。
「あの…霞柱。失礼ですが、なぜわたしになど優しくしたいのですか?」
「……は?」
「も、申し訳ありません。わたしはその根本が理解できなくて…」
霞柱はポカンとした表情でわたしを見つめる。こんなに気の抜けた霞柱の顔を間近で見れることにやや驚きつつ、彼の返答を待つ。
「あー……そうだなあ。でもこれって、直接君に伝えることじゃないと言うか…」
霞柱は俯き、ぶつぶつと独り言を漏らす。はっきりと言えない、なにかがある様子だ。もしかしたらわたしに優しくすることで、霞柱にとってなにかいいことがあるのではないか?それがどんなことかはわからないが、だとすればわたしがその件についてとやかく言うのは失礼かもしれない。そう思い、答えづらい質問をしてしまったことを詫びようとすると、急に霞柱が立ち上がった。

「うん、この話は今度にする」
「あっ、そ、そうですね」
「君も立てば?もうすぐ夕食でしょ、部屋に戻りなよ」
霞柱はわたしに左手を差し出した。どういう意味かわからずその手を見つめていると、「早く立てば」とぶっきらぼうに言われ、彼がわたしが立ち上がるのを手伝ってくれるのだと理解した。
「失礼、します」
わたしは右手で彼の手を握る。すると、霞柱は小柄な体躯に似合わず、力強くゆっくりとわたしを引っ張り上げてくれた。
「ありがとうございます、霞柱」
軽く頭を下げてその手を離そうとすると、逆に強く手を握られ動揺する。
「僕、これから任務に行くんだ」
「そ、うですか。もうお怪我の具合はいいんですね」
「うん、大した怪我じゃなかったから」
わたしたちのあいだに沈黙が流れるが、そのあいだも握られている手を意識してしまい、落ち着かない。
「僕がこれから行く任務先には、上弦の鬼がいる可能性がある。だから、ちょっと長い任務になりそう。でも、ナマエが任務に復帰できる頃までには、きっと僕の任務も終わってるよ」
「…なるほど、わたしも霞柱のご無事を願っています」
「うん、ありがとう」
そして二度目の沈黙。少し手を引いてみるも、霞柱は依然としてわたしの手を離さない。ただ、ただ戸惑う。

急に霞柱の右手が伸びてきた。またその手を避けてしまいそうになるが、彼のムッとした表情を思い出し、我慢してとどまる。霞柱はまた、わたしの首筋に触れた。
「どう?」
「どう、って…」
「今、ナマエはドキドキしてる?」
「…えっ」
「優しくするより、こういう風にしたほうが手っ取り早いと思って。優しくするって、やっぱりよくわかんないし」
霞柱は表情のわからない、青みがかった目でわたしを見据える。そして、彼はクスリと笑うと「あ、脈、速くなった」と言った。
「あの……あなたは、なにがしたいんですか?」
気づけばそう口に出していた。わたしは今、”確信”めいたものを掴みかけている。でも、それを知るのが少し怖い。だって、こんなの普通じゃない。こんなやり方、普通ではないからだ。霞柱は口の端を微かに上げ、目元を緩ませた。わたしが初めて見る”微笑み”に近い表情だった。
「それ、僕に言わせるの?」
その言葉で、わたしは”確信”を掴んだ気がした。




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