5.音柱の頼み

以前、宇髄さんは教えてくれた。霞柱が自ら志願してわたしの任務の救援に来ていると。そして、「好きな女ほど、いじめたくなるガキってのが一定数いるんだよ」とも言った。

また、霞柱は人が変わったようにわたしに謝罪の言葉をかけただけでなく、「優しくしたい」「ドキドキしてる?」などと言い、しまいには離すのを拒むかのようにわたしの右手を握り続けた。

―――それらの言動が意味するものに、わたしはようやく気づいた。
…気づいた瞬間、わたしはどうしたかというと、”逃げ出した”。肋骨を手で押さえ、痛みに歯を食いしばりながら、全力で霞柱の手を振りほどき、逃げ出したのだ。そのときのわたしは、恥ずかしさと、恐怖と、なんとも形容しがたい胸のモヤモヤとがあって、とてもじゃないがその場にいられなかった。手を振りほどいたとき、霞柱は驚いて目を見開いていたが、引き止めるようなことはしなかった。きっと彼はあのあと、普通に任務に行ったのだろう。

「ナマエさん?!歩き回ってもいいとは言いましたが、走り回っていいとは言ってませんよ!」
部屋に駆け込もうとすると、廊下を歩いていたアオイさんから注意を受ける。しかし今はそれどころではない。早く部屋に戻って頭を冷やしたいのだ。わたしは倒れこむように寝台に上がる。落ち着くために深呼吸しようとすると、肋骨が強く痛み、息を止めてしまう。こんなにひどく動揺しているのは初めてだ。わたしは寝台横にある水差しの水を少し飲み、ひとまず喉を潤す。まずは頭を整理しなければならない。

簡単に言えば、わたしは霞柱の”想われ人”ということらしい。なにがきっかけでそうなったのか、理由は……わからない。ただ霞柱は、わたしの気を引きたいからか、照れ隠しからか、もしくは単純にそういう性格だからなのか、救援時にはあのようにわたしに小言を投げつけていたみたいだ。そんな歪んだ愛情表現が存在することに信じられない。ましてやそれが霞柱で、彼に想われているのがわたしだなんて。

一体わたしはこれからどうすればいいのだろう?中途半端に霞柱の想いに気づいてしまい、逆に身動きが取れなくなる。いや…それは考えすぎかもしれない。なぜならわたしは、霞柱から”恋仲になろう”というような申し出をされたわけではない。変に意識して損するのは、わたしだ。霞柱はいわばわたしの上司だ。上司がちょっと特別に目をかけてくれていると思えば………いや、そう思えるわけがない。わたしの手を握った霞柱の手の感触、温かさは今でも鮮明に思い出すことができる。彼がどんな思いで、池に落ちそうになったわたしを救ったのか?…考えるだけで、頭を抱えたいほど恥ずかしくなる。

とはいえ、その後しばらくは霞柱と会うことがなかった。彼は長期任務にあたっていたし、わたしはわたしで骨折の治療に集中する日々を送っていた。わたしの骨折が完治したのは、それからちょうど2週間後のことだった。その頃には、霞柱に対する一種の気恥ずかしさみたいなものもだいぶ薄れており、わたしは霞柱の”想われ人”というより、ただちょっと気に入られすぎた部下みたいなものだったのではないか、という気さえしていた。

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骨折が完治したため、昨夜、早速新たな任務の指令が入った。出発は昼頃で、それまでに軽い鍛錬を行なっておこうと、わたしは早朝に起床した。夜が明けたばかりの庭で、一人木刀で素振りをしていると、ガサリと音がする。音のした方を見ると、宇髄さんが片手を上げてわたしに近づいてきた。
「おはようございます。任務帰りですか?」
「ああ。ちょっと厄介な任務でな、骨が折れたぜ。俺も毒を食らっちまったから、薬をもらいたくてな」
「それはそれは…お疲れ様です。だけど宇髄さん、ピンピンして見えますね」
わたしは汗をぬぐい、やや疲れた顔の宇髄さんを見上げる。すると彼はいやにジロジロとわたしの顔を見るのだった。
「なにか?」
「ははーん…お前は大したことねぇって、面だね」
「はい?」
「ったく、ガキの恋愛は見てらんねーよ」
宇髄さんは疲れたようにその場で胡坐をかく。彼を見下ろしながら話を聞くのは失礼な気がして、わたしも木刀を抱えたまま彼の前にしゃがんだ。
「今回俺は救援に行ったんだよ、上弦の鬼がいるっつー任務にさ。だが、本来なら俺が出るまでもねぇ任務だった。なぜって、あの”霞柱さん”が送り込まれてたんだからよ」
「あ……」
つい2週間ほど前、霞柱が告げていたあの長期任務か。しかし、結果として宇髄さんが救援に送り込まれたのだから、やはり手ごわい鬼だったのだろうか。
「実際は上弦の鬼でもなんでもなかった。だが、信じられない数の人間を喰っている鬼っつーこともあり、たしかに苦戦した。でもなぁ、それ以上に困ったのは”霞柱”が全然使えねぇってことよ」
「どういうことですか?霞柱、怪我でもしていたんでしょうか」
「いんや、まったく。ただ、理由はわからねぇが始終上の空で、戦いにまったく身が入ってねぇんだよ。だから俺が呼ばれた。困っちまったよ、本当に」
あの霞柱がそんな注意散漫な状態だったなんて、想像できないが…そうなってしまった理由が、考えられなくもなかった。
「お、やっぱり心当たりがある、ってか。おい、この優しいお兄さんに教えてみろ」
宇髄さんはニコニコとしながら、いつの間に取り上げていたのか、わたしの木刀で自身の肩をポンポンと叩いていた。宇髄さんは優しい人だが、白状しないとその木刀で一喝…なんてこともありそうだ。

「心当たりというか、その…どこから話せばいいのか…」
「ようし、じゃあ俺の質問に答えろ。まず、お前は”霞柱さん”となにかあったのか?」
「ええと………はい」
「襲われたか?」
「お、襲われてません!」
「じゃあなんだ、あいつのことだから、手でも握ってきたか」
「へ………」
「おいおい!大胆だねえ、あのおチビちゃんも」
宇髄さんはニヤニヤ笑いを隠そうともせず、わたしの顔を覗き込む。
「さしずめ、お前はその手をはたいたりでもしたんだろう」
「はたいてはいませんが、その…ふ、振りほどいてしまいました」
「ふーーーーーーーん」
宇髄さんはさらにニヤニヤ笑いを深め、面白そうにわたしのことを観察していた。
「あの……それが、霞柱の不調の原因でしょうか?」
「ああ、間違いねぇな」
「はあ、申し訳ありません……」
わたしが頭を下げようとすると、宇髄さんが木刀の剣先をわたしの顎下に差し入れ、それを止める。
「それで?もっと聞かせてくれよ、お前らの話を」
「別に、なにもありませんよ!」
「んなわけねえだろ。手を握ったってことは、好きだなんだって言われたのか?あいつに」
「言われては…いませんが、」
「が?」
「うーーん…霞柱は実力行使に出たといいますか…その、わたしもよくわからないんですけど…」
「やるねえ!つまり言葉じゃなく、体でわかれってか。それでお前の手を握った、と。んで、お前はそれを振りほどいた、と!」
「宇髄さん!!からかわないでください!」
宇髄さんがあまりにも面白がるものだから、さすがにわたしも怒ってしまった。けれど、そんなことで怯むような人ではない。宇髄さんは今度は、木刀の剣先でわたしの頭をポンポンと軽く叩きながら、なおも尋問を続ける。

「なぁ、お前は本当にダメなのか?あいつを、想ってやれねぇのか?」
「そんなこと急に…。今までずっと恐怖の対象だった人ですよ。それに、わたしはそういうことが、まだよくわからないです」
「かーっ!お前らってば、本当に馬鹿で可愛いな!いいぞ、いつまでもそうやってろ!俺が見守ってやる!」
宇髄さんは悶えるようにして、わたしの頭を何度も木刀で叩く。心なしか、先ほどより力が強い気がする。
「ただな、あいつを戻せるのはお前しかいねぇんだ。ちょっと気つけてやってくれよ」
「気つけるだなんて、そんなこと、どうやって…」
「お前はあいつのこと、本当に嫌いか?これまでの言動が愛情表現だったとしても、やっぱり受け入れられねぇか?」
「……………」
「ナマエに手を振りほどかれて、戦えなくなっちまうほど、お前に惚れ込んでんだよ。まぁ、生意気なクソガキだが、正真正銘、お前に首ったけってわけだ。なぁ、ちょっとだけでいい。あいつに優しくしてやってくれねぇか?」
そんな、柱にここまで頼み込まれたら、拒否できないではないか。
「……わかりました」
「恩に着るぜ!じきにあいつもここに来るだろうから、そうしたらちょっとばかし顔でも見てやってくれよ」
そう言って宇髄さんは、木刀ではなくその大きな手でわたしの頭を乱暴に撫でた。

わたしは今日の昼には、任務のために屋敷を発たなければならない。それまでに霞柱と会えればいいのだが…。ガシガシと宇髄さんの手で撫でまわされている中、漠然とそんなことを考えているのだった。




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