9.感情の露呈

カチャカチャという器具を動かすような音が聞こえる。しかし、視界は真っ暗だ。まだ寝ていたい、そんな気だるい意識の中で、わたしは聞こえてくる音に耳を澄ませていた。誰かが歩く音、衣服が擦れる音がする。やがて、左手にチクリとした痛みが走った。この”痛み”という感覚は、わたしにとってひどく懐かしいもののような感じがした。なぜだかわからないけれど。

「おや」
涼やかな女性の声がした。誰かが近くにいるのだ。わたしはどうやって目を開けるのか忘れてしまったから、”その声の主を見せてくれ”と、瞼にお願いする。ゆっくりと目に光が入ってきた。暗い洞穴から這い出てきたときのような、眩しさを覚える。

わたしを見下ろしている人が微笑んだ。
「ようやくお目覚めですね」
だんだんと焦点が合ってくる。わたしを見下ろしているのは、蟲柱・しのぶさんだった。わたしの左手から素早く注射針を抜くと、「痛かったですか?」と笑った。
「それでは確認です。あなたは自分の名前を言えますか?」
「……ミョウジ、ナマエ」
「ええ、その通りです。あなたの年齢と階級はどうでしょうか?」
「16歳、階級は…き、乙(きのと)」
「そうですね。では、わたしは誰ですか?」
「む、蟲柱の…胡蝶、しのぶ、さん」
「正解です!意識に問題はないようですね」
それからしのぶさんは、わたしの口元に水薬を近づけた。
「まずはこの薬を飲んでくださいね。少しだけ、口を開けられますか?」
わたしはその薬を受け取ろうと右手を動かしたが、体がまったく動かないことに驚いた。不思議に思ったが、大人しく口を開ける。とろみがあるこの水薬はほのかに甘く、飲み下したあとはピリッとした辛みが舌に残った。そんなわたしを穏やかに見守っていたしのぶさんは、静かに口を開く。
「それではまず、あなたがどのような状態に陥っていたのか説明しましょう」

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しのぶさんは、わたしの寝台のそばにある椅子に座って話し出す。
「ナマエさんは前回の戦闘時、鬼によって体に毒が注入されたことを覚えていますか?その毒によって、あなたは全身麻痺状態になりました。幸い、脳などの神経に後遺症が残ることはありませんでしたが、毒素を抜くのに時間がかかったこともあり、2週間と少しのあいだ昏睡状態だったんです。そして、先ほどようやく眠りから覚めた…というわけですね」
2週間以上ものあいだ昏睡状態だった…まるで信じられない。驚愕するわたしの顔を興味深そうに眺めながら、しのぶさんは話を続ける。
「ちなみに今は鎮痛剤を打っているのでほとんど痛みがありませんが、ナマエさんは現在、全身打撲および肋骨、大腿などの複数箇所を骨折しています。それはそれは、重症です。しばらくは療養生活が続くでしょうし、鎮静剤が切れるとものすごく痛いので、覚悟しておいてくださいね」
しのぶさんは笑顔を絶やさないが、わたしは恐怖で背筋が寒くなった。どうりで思うように体が動かないわけだ。
「それにしても、ナマエさんは本当に上手に肋骨を折りますね!今回も他の臓器を傷つけることなく骨折していたんですよ、素晴らしい!」
「は、はは…」
力なく笑うと、目じりから涙がこぼれた。そういえば先ほどから目が潤んで仕方なかった。しのぶさんがわたしのおでこに掌をつける。
「ナマエさん、発熱していますね。しばらくは仕方ないかもしれません。ですが、今後は屋敷の者たちがしっかりとあなたを治療するので、安心して休んでくださいね」
「はい、ありがとう…ございます」
「とにかく、あなたが目を覚ましてくれて本当によかったです。他の隊士たちもみな、心配していたんですよ」
しのぶさんの穏やかな微笑みと、優しい言葉が身に染みて、彼女をはじめとするわたしの命を全力で救ってくれた人たちに、深い感謝を覚えた。

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それからは、アオイさんやキヨさんたちがわたしに薬を飲またり、食事を与えるために起こしてくれるとき以外は、基本的に眠って過ごした。さすがに今回は、屋敷内を歩き回ろうという気になどなれない。発熱のせいで始終頭がぼうっとしているし、鎮痛剤が切れはじめると、ズキズキと蝕むように体に痛みが起こる。とてもじゃないが、体の回復を早めるための”全集中の呼吸”を使える状態ではない。

そうして、重たく熱い体の気だるさに耐えながら眠り続けていると、真夜中に突然目を覚ました。いや、正確には言い合いをするような”声”が聞こえて、目を覚ましてしまったのである。その声は、わたしの部屋の外から聞こえており、やがてドタドタと足音が近づいてきた。そして勢いよく戸が開かれる。


「馬鹿!やめろって、お前…!」
そんな制止する声をよそに、何者かが部屋に入ってきた。わたしの寝台の横に誰かが立ている。目を開けると、戸の外に大きな人が立ってこっちを見ていた。あれは、宇髄さんだ。戸惑ったような、呆れたような表情でこちらを見ている。

すうっと小さく息を吸い込むような音がした。その音がした方へ、ゆっくりと顔を傾ける。隊服が見えた。しかし、随分と汚れている。ところどころ血がついているし、破れている箇所もあるようだ。そこから視線を上に移していくと、毛先が澄んだ青色の髪が揺れている。というよりも、小刻みな体の震えに合わせて、髪が揺れているようだ。そのまま、さらに視線を上げると俯いている顔が見えた。薄暗い部屋の中では表情が分からないが、きつく唇を噛んでいるのが見える。
「………よかった」
消え入りそうな声が聞こえた。その声が懐かしく、わたしはもっとその人の声を聞きたくなった。熱で体が熱く、ときどき焦点が合わなくなるが、長い髪に隠れた顔を見続ける。

窓の外が白んできた。目覚めたときは真夜中だと勘違いしていたが、どうやら今は早朝のようだ。寝台の横に佇むボロボロの隊服を着た人の顔や表情も、少しずつ明らかになっていく。
「…よかった……生きていて、よかった……」
ぽとりと一滴、寝台の布団を濡らした。わたしは2,3度ゆっくりと瞬きをする。その人の顔がはっきりとわかった。
「か、すみ…ばしら……」
ほとんど空気のような声だったが、その言葉は自然とわたしの口をついて出た。そう、その人は霞柱。彼の目は涙でいっぱいだった。
「ナマエ、ごめんっ……僕、僕君に…こんな思いを………」
「おい!」
霞柱がわたしの方へ手を伸ばそうとすると、鋭い叱責が飛ぶ。霞柱はビクリと体を震わせて、手を止めた。
「ナマエは重症者だ、触るんじゃねえ」
宇髄さんの声だ。戸の方から声が聞こえるため、いまだに宇髄さんは入室していないのだろう。
「まずはお前自身が治療を終えろ。それからこいつに会いに来い」
そう言って宇髄さんは部屋を離れたのか、遠ざかっていく足音が聞こえた。

そうか、霞柱は任務明けなのか。よく見たら、隊服だけでなく手や顔にも生々しい切り傷があった。
「ナマエ、本当にごめん。全部僕のせいだ」
霞柱は声を震わせながら言った。わたしはぎこちなく、首を左右に振った。
「だけど……、ナマエが目を覚ましてくれて、本当によかった。
君を失うかと思って、僕……ずっと生きた心地がしなくて………」
再び彼の美しい瞳が、今にも零れそうなほどの涙で覆われてしまった。こんなに感情を露わにする霞柱の姿を見るのは初めだった。そして、こんなにも熱く愛しそうな目でわたしを見つめる霞柱の姿も。
「……起こしてごめん。また、来るね」
霞柱は溢れそうになる自分の感情を抑え込むように、静か言う。わたしは黙って首を縦に動かした。


一人きりになった部屋に、心地よい静寂が訪れる。かすかに鳥のさえずりが聞こえ、窓からは薄く日が差していた。食事や薬が運ばれてくるまで、もうもうひと眠りしようと、わたしは目を閉じた。




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