4.心臓は2度おどろく(前編)

館内を歩いているとき、頭上に「自販機はこちら」という矢印看板が目に入ったもので、なにか飲み物を買ってから観覧席に行こう、という気になった。しかし、いくら歩けど自販機は現れなくて、あっちに行ったりこっちに行ったりしているうちに目的の機械は見つかったものの、一体いま自分がどこにいるのか完全にわからなくなってしまう。壁に貼ってある簡素な地図をのぞきこんでも、あまりに簡単に書かれすぎているため、それは地図としての役割を成していなかった。

「ねえ君さ、もしかして道に迷ってる?」
声のした方を見ると、ジャージのポケットに手を突っ込んでわたしを見つめている男の子がいた。見たことのない校章が胸元についている。
「あっ、そうなんです…なかなか観覧席に行けなくて…」
「ふうん、じゃあ俺が連れてってあげるよ」
男の子は細い目をさらに細めてニッと笑った。その瞳の奥が全然笑っていない気がして少し怖かったけれど、やっと観覧席に行けるんだとホッと胸を撫でおろした。

男の子はパーソナルスペースという概念がないみたいに、肩がくっつきそうなほどの至近距離でわたしの隣を歩いていた。かなり嫌だったけれど、観覧席に行くまでの間だからと我慢した。そして彼は歩きながら、自分の高校や名前を明かすなどして、親し気に自己紹介をしてくれた。
「ねぇ、君はどの学校の生徒?」
「え、っと…たぶん、わたしの学校の選手は出場してないと思う。今日は付き添いで来たというか…」
「へえ!ならさ、俺の学校応援してよ。ていうか、俺を応援してよ、ねっ」
そう言って彼がわたしの右手を握ろうとしたので、驚いて手を引いてしまう。彼の目がすうっと細められた。わたしは怖くなって逃げ出したくなるも、気づけばまったく人気のない場所に連れてこられていた。
「あの…本当にこっちが観覧席なの?」
「つれないなぁ、本当は君だって出会い目的でここに来たんじゃないの?どうせ好みの男でも見繕ってたんでしょ。あんな場所でウロウロしちゃって、バレバレなんだよ」
「……は?」
「俺にしなよ、今ちょうど彼女もいないしさ。剣道も部内で1位2位を争うくらい強いんだぜ。な、悪くないだろ」
彼がわたしの顔の横に手をつき、壁に追いつめる。最悪だ。本当に最悪の気分だ。尻軽女のように見られた挙句、こんな死ぬほどどうでもいい男に口説かれるなんて。
頭の中では強気な言葉が溢れているのに、体はすくんだように動かなかった。相手は自分よりも体の大きい男子、しかも剣道で体を鍛え上げた男子だ。なにかあったときに勝ち目はない。気持ち悪くて、最低で、その横っ面をはたいてやりたいくらいだったけれど、わたしの心は恐怖で支配されていた。

舌なめずりをするように唇を湿らせて、彼が距離を縮めてきた。熱い息が顔にかかり、吐き気がこみ上げる。死にたい。こんなわけのわからない男に襲われるくらいなら、死なせてくれ。そう思って体を縮こませたとき、
「んあっ?!」
目の前の男が素っ頓狂な声を上げて、視界から姿を消した。

「…誰の許可を得てこの子に迫ってんだ、おい」
低く掠れた声がそう言った。恐る恐る顔を上げると、眉間に深くしわを刻み、憤懣やるかたないといった表情で、袴姿の善逸くんが立っていた。どうやら善逸くんに思いきりジャージの襟首を引かれたらしいその男子は、勢いで激しく尻餅をついたようだった。
そして善逸くんはわたしの方を見ると、「大丈夫?なにかされてない?いや、されかけてたよね?未遂?未遂で終わった?未遂であってくれマジで」と心配そうに畳みかける。わたしは、うん、未遂だから大丈夫…と小さく頷いて見せた。
「んだ、テメェ。人が彼女とイチャついてるってのに邪魔しやがって」
「いや、彼女じゃないでしょ。今日会ったばかりの子を彼女だなんて、お前頭おかしいんじゃないの?この子は俺の友達だよ。…そう、俺の大事な友達になにしてくれてんの?お前、剣道やってんのに礼節というものを知らないの?見ず知らずの女の子に無理矢理迫るその性根はどこで培われたものなの?もう一度イチから剣道やり直したら?
…いろいろあり得ないけど、とりあえずこの子は俺が連れてくよ。もう2度と絡んでくんなよ」
善逸くんは平坦だけれど鬼気迫る口調で一気にまくし立てると、行こう、と言うようにわたしに目配せした。

「おい!ちょっと待てよ。人に怪我させといて、そのままサヨナラとはどういうことだ」
「は?怪我?」
善逸くんは盾になるようにわたしの前に立つと、いまだに床に座り込んで腰をさすっているその男子を見下ろす。
「そんなの受け身を取れなかったお前が悪いだろ。まあ、1000歩譲って俺がお前の襟首を引いたことが悪かったとしても、その前にお前がこの子を怖がらせていたことを鑑みると、1億パーセントお前が悪いわけで、だから文句を言われる筋合いは1ミリもないと思うの、俺は」
「あーーっうるせえ!よく喋る奴だな!」
その男子は気だるげに立ち上がると、メンチを切るように善逸くんのことをグッと睨み上げた。しかし、善逸くんは微動だにしない。いつもは弱々しく、キョドキョドとした様子なのに、こんなにもどっしりと構える彼の姿に驚いた。
「あぁー…よく見りゃあお前、キメツガクエンの生徒じゃねえか。控室で試合に出たくねえ、帰りてえって泣き喚いてる馬鹿がいるって噂だったが…まさか、こんなところでご本人登場だとはな。俺はこんな野郎に喧嘩売られたのかよ」
しかし、善逸くんはそんな煽りに一切乗らず、冷静な口調のままだった。
「お前こそ初戦に出るくせにジャージ姿とは、随分余裕だな。俺は個人戦の1回戦に出る我妻善逸、お前の相手だ」
相手の男子は一瞬ポカンとしたあと、大きな声で笑いだす。
「あぁそう、お前が俺の相手なのね。わかった、じゃああとは試合で話をつけてやろう。もう女の前で格好つけられないくらい、めちゃくちゃに負かしてやるよ」
それから彼は、「じゃあね」と笑顔を作りわたしに愛想を振りまこうとするも、すかさず善逸くんが両手を広げて近づくことをガードしたので、大きな舌打ちをして去っていった。


「なんか、ごめんね。変なことに巻き込んで」
先ほどの男子の姿が見えなくなると、善逸くんは困ったように眉を下げて笑った。いつもの、柔らかい雰囲気の善逸くんがそこにいた。
「本当嫌な奴だね、あいつ。下品で乱暴で……俺、あんな奴に絶対負けないから」
独り言のように漏らすその言葉を、わたしは意外な思いで聞いていた。善逸くんはこの大会に嫌々出場しているようだったけど、それでも一人の選手として勝利を掴み取るための並々ならぬ闘志を抱いている。初戦の相手とこういう形で顔を合わせてしまう、イレギュラーなケースが災いしたこともあると思うけれど。

「善逸くんって、個人戦に出るの?」
ふと、疑問に思ったことを口にする。わたしは、剣道の試合がどういう形式で行なわれるのかすら知らなかったのだけど、なんとなく炭治郎くんたちと一緒にチームになって戦うのかと思っていたのだ。
「そうそう、俺は個人戦で、炭治郎と伊之助は団体戦に出るんだ。個人と団体って、実は試合の時間も会場も違うの。だから、もし俺が勝ち進んだら、団体戦の時間と被っちゃうから、どちらかの試合しか観れなくなっちゃうんだよね……あっ!でもたぶん俺は負けるから大丈夫!大丈夫だよ!ナマエちゃん、炭治郎たちの試合も観れるよ!」
負ける負けると連呼して、善逸くんはフォローになっていないフォローをしてくれる。
「でも、1回戦だけは勝ちたい…絶対に」
少しだけ顔をしかめて、善逸くんはそう言った。

「遠慮せずに2回戦も勝ってよ。1回戦だけだなんて、もったいないもん」
ピリピリした善逸くんの気をほぐしたくて、軽い調子で言ってみた。善逸くんはちょっとだけキョトンとしたあと、「そっかぁ、もったいないもんね」と笑った。それから、わたしを観覧席まで連れて行ってくれた。
「ナマエちゃん、今日は来てくれて本当にありがとね。俺、頑張るから」
別れ際、そう言った善逸くんはいつもよりずっと大人っぽくて、背もしゃんとしていて、お店に来てくれるときとはまるで別人のようだったから、そういう顔もできるんだなぁ、と少しびっくりしてしまった。





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