1.嘘、鼻歌と諦観

『炭治郎って、ミョウジのことが好きらしい』
―――この噂が流れはじめたのは、高1の秋口あたりだったと思う。しかもその噂が、わたしの耳にまで届くのだから迷惑だ。そういうのは、本人の前ではなく秘密裏に話してほしい。

竈門炭治郎という男子生徒がいることは、わたしも知っていた。校則違反なのにピアスをつけているし、額に目立つ痣もあるし、でも不良というわけではなく、むしろ教師からも生徒からも受けがいい。はっきり言って”いい子ちゃんタイプ”だ。真面目で真っすぐで、勝負事には燃えるような人間。暑苦しい。そういう印象だった。

そんな彼がわたしを好きになる理由がわからない。だから最初はデマだと思っていた。だけど2学年に進級し、その竈門くんと一緒のクラスになってからは、あ、この人、本気でわたしを好きっぽい、と実感せざるを得なくなった。だって、ものすごく見てくる、わたしを。視線が尋常じゃない。ストレートすぎる。恋って普通はもう少し、コソコソするもんじゃなくて…?

でも、竈門くんはぐいぐいアタックしてくるわけではなかった。ほかの生徒と同じように、親切に接してくれる。本当にわたしのことが好きなの?と思うくらい、普通の接し方だ。でも、『炭治郎って、ミョウジのことが好きらしい』という噂は絶えない。逆にどんどん広がっていく。誰かの視界にわたしと竈門くんが入ると、「おっ、あの2人は…」という具合になる。みんなにやけ顔をする。まったくもって迷惑だ。この中途半端な状況が、気持ち悪くて仕方なかった。

そんなわたしの日々の息抜き方法は、体育倉庫裏でこっそり餌付けしている野良猫を愛でにいくこと。茶色い毛に縞模様がある、いわゆる”キジトラ”と呼ばれる柄の猫で、今年の春から餌付けし続けている。
学校内で動物を飼育することはもちろん禁止なのだけど、だんだんとやせ細っていく猫がかわいそうで、毎日お昼時と下校時に会いにいくようにしている。この猫のために、バイトで稼いだお小遣いで専用の餌まで買っているのだから、結構本気だ。飼えるものなら飼ってあげたいけど、家族に反対されているので、わたしにできるのは毎日餌をあげることだけだった。

つまり、教室で竈門くんの視線に耐えること、猫の愛らしさに癒されること、この2つがわたしの学校生活の主な活動だった。

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そんなある日のこと。下校時間になり、コンビニでもらったビニール袋に猫用おやつを入れて体育倉庫裏に行くと、そこには思いがけない人がいた。そのときのわたしは、もうすぐ夏休みに入るけれど、その間の猫の餌やりはどうしよう、毎日学校に来るのもなんだかなぁ…などと考え事をしていたところで。だから体育倉庫裏にまわり、その人―――竈門炭治郎くんが胡坐をかいて猫を撫でている光景を目撃したときは、驚きのあまり「あ、夏休み……」と意味不明なことを口に出してしまったのだ。

「夏休みがどうかしたか?」
竈門くんは不思議そうな顔をして、こちらを見上げる。
「いや、別に…」
わたしは立ち尽くして、竈門くんと猫を交互に見た。この一人と一匹、かなり信頼関係が築かれている。これは今日初めて出会った仲ではない。竈門くん、こっそりこの猫に会っていたのではないか。絶対そうだ。やがて、竈門くんに愛想を振りまき終えた猫が、わたしの足にすり寄ってきた。
「この猫、ミョウジが可愛がっているんだろ。よく懐いているな」
「え、あっ…そうかな、うん」
わたしはしゃがんで猫の頭を撫でてやる。その小さな生き物はグルルルと喉を鳴らし、目を細め、自分がご機嫌であることを精一杯アピールしていた。
「ていうか、あの、なんでここにいるの?竈門くん…」
彼がここにいる理由は、正直わたしにとっていいものだとは思えない。
「ミョウジを驚かせていたらすまない。実は、ちょっと相談があってな…」
竈門くんは立ち上がってわたしの方にやってきた。そして同じようにしゃがんで、猫の背中を撫でる。

「ミョウジ、ここで猫を飼っているんだろ。結構前から」
「…知ってたの」
ふふふ、と竈門くんが小さく笑う。嫌な予感がしてきた。
「だけど、こんなことバレたらマズいよな。校内で動物を飼うことは禁止されているし…」
猫がごろんとお腹を見せた。竈門くんは優しい目をしながらその腹を撫でている。しかし次の瞬間、彼の口からは全然優しくない言葉が飛び出た。

「だから、この猫のことをバラされたくなかったら、俺と付き合ってほしい」

―――こいつ、頭がおかしいのか?
思わず乱暴な言葉が出そうになったが、慌てて飲み込む。まずは冷静な対応だ。
「なに言ってるの。いや、なんでそうなるの」
「俺は本気だ」
「いや、本気かどうかの問題ではなく…」
「もしミョウジが俺と付き合ってくれるのなら、俺はこの猫を飼ってもいい。うちは一軒家でパン屋をやっているから、猫を飼う十分なスペースがあるし、すでに家族からの了承も得ている」
―――やっぱりこいつ、頭がおかしいのでは……?
竈門くんの顔を見ると、表情は真剣そのもの。彼は大真面目にわたしを”脅している”のだ。

「いや……えっ?それが、竈門くんの”相談”ってやつ…なの?」
「ああ、そうだ」
わたしの言いたいことはただ一つ。私利私欲を満たすために、なんの罪もない猫を使ってわたしを脅すな、だ。しかし、なんというか、そういう言い分が通じなさそうな雰囲気が彼にはある。
「あのー…付き合うっていう話と、猫の話。これは一緒くたにしてはいけない気がするんですが…」
「どうしてだ?俺と付き合うことで、ミョウジは困っていることがすべて解決するんだ。猫の安全も確保される、餌をやり忘れる心配もない」
「それはそうかもしれないけど、わたしの気持ちは…?普通は好きな人同士が付き合うもんでしょう?」
竈門くんは猫を撫でる手を止め、目をまん丸にしてわたしを見つめた。

「……そうか、そうだった。俺はミョウジのことが好きだが、ミョウジは俺のことを…」
「うん、別に好きじゃないよ」
「……それは、完全に見落としていた」
突然猫が起き上がり、ぴょんと竈門くんの膝に乗った。彼の制服に顔をこすりつけ、目を閉じる。このまま眠るつもりらしい。
「というわけで、猫のことはバラさないでほしいし、付き合うことも無理です」
すると竈門くんが黙り込んでしまったので、もう話を続けるのは難しいかと思い、わたしはコンビニ袋を彼のそばに置いた。今日の餌付けは彼にお願いしよう。


「ちょっと待ってくれ!」
わたしが立ち上がって背を向けると、切羽詰まったような声が追いかけてくる。振り向くと、猫を抱き上げ真剣な目でこちらを見ている竈門くんがいた。猫はにゃあ、と不機嫌な声を上げる。
「ダメだ、俺は諦めきれない。ミョウジと…ミョウジと付き合えないだなんて、納得できない!」
そして、ぎゅっと猫を抱きしめると「ミョウジが俺と付き合ってくれないなら、この猫を返さない!」と言った。
「はあ?」
「いいのか、ミョウジ!…もうこの猫と会えなくなるんだぞ!?だけど、俺と付き合ってくれるなら…俺はこの猫を飼うし、ミョウジはこれからもこの猫を可愛がることができる!」
「…だからね竈門くん、それとこれとは話が…」
「俺を好きになってくれるのは、あとからでいい!時間がかかってもいい、俺はずっと待つから!ミョウジに好きになってもらえるよう、俺も頑張る!だから、頼む……!!」
付き合うって、恋人になるって、お願いされてなるものだっけ?だんだんと、わたしも思考が馬鹿になってきた。話がむちゃくちゃすぎるせいだ。

「でも、そんなの嘘じゃん。嘘ついて付き合うことになるよ」
「俺はそれでもいい。それでも、俺がミョウジを好きな気持ちは変わらない!」
にゃあ、にゃあ、とまた猫が不機嫌な声を上げた。竈門くんの大きな声が気に障るらしい。わたしは近づいて、彼から猫を引きはがす。猫はわたしの肩に抱きつくようにしがみついたあと、ぐりぐりとわたしの顔に自分の頭をすりつけた。ああ、可愛い。この猫には幸せになってほしい。健康で長生きしてほしい。竈門くんと付き合うことで、この猫の幸せと健康が保証される。それって、まあ悪くないのかな、と一瞬思ってしまった。特に、夏休みになっても猫が安全な場所にいられることは、かなり嬉しい。

「わたし、竈門くんを好きになるまで、手を繋いだりとか、恋人っぽいことするの…嫌だよ」
「わかった、そういうことは絶対に強要しない」
「好きになるのが、半年後とか1年後になっても、いいの?」
「もちろん、それまで待つ。俺は絶対に待てる、長男だから!」
腕の中で猫が一鳴きした。竈門くんの家に行ってもいいよ、そう言っているような甘えた声だった。
「じゃあ……いいよ。付き合っても」
竈門くんの顔に満面の笑みが広がる。目がキラキラと輝き、それから崩れるようにその場に座り込んだ。
「よかった…あぁ、本当に俺は嬉しい……一世一代の大告白だったんだ、これは」
一世一代の大告白で相手を脅すなよと思ったが、今ではそんな竈門くんのめちゃくちゃなところも、ちょっと面白いと思えてしまう。猫の安全が確保される安心からか、少しだけ彼を贔屓目で見られるようになったのかもしれない。

「よし、じゃあ今日から一緒に帰ろう、ミョウジ」
「えっ、でも」
「鞄を取ってくるから、ちょっと待っててくれ!」
竈門くんはそう言って倉庫裏を出て行く。まるで人の話を聞いていない。実はものすごいマイペースな人なのかもしれない。
遠ざかっていく彼から、微かに鼻歌が聞こえた。びっくりするぐらいの音痴だ。でもいつか、そんな鼻歌も好きになれるのかもしれないな、そう思いながらふかふかとした猫を抱きしめた。




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