5.鼻歌を殴る日

都内にある水族館の中でもそこそこ規模の大きい方に入るその水族館は、土曜ということもありそれなりに混んでいた。家族やカップル、中学生くらいの子どもたちのグループなど、お客さんはさまざまだ。気を抜くとすぐに人波に呑まれてしまう。けれど館内を進むとき、竈門くんが何度もこちらを確認してくれたり、声をかけてくれるので、はぐれるようなことはなかった。

ああ、わたしは今水族館で竈門くんと2人きり。はたから見れば「カップル」に見えるんだろうなぁ。…そんな風に思っていたのは、最初の5分くらい。色とりどりの魚が泳ぐ水槽や、ペンギン、イルカの巨大パネルなどを発見してからは、そんなことどうでもよくなってしまった。純粋に水族館を楽しむことに気持ちをシフトできた自分の単純さに若干呆れるも、せっかくの夏休みなのだから、それでいいじゃないか、という気もした。

わたしも竈門くんも、同じタイミングで声を上げることが多い。綺麗なクラゲを見たとき、グロテスクな顔の魚がこちらに泳いできたとき、ペンギンたちが可愛らしく毛づくろいをしているとき……わたしたちは「わぁ……」と感嘆の声を上げた。
「ミョウジ、ここのヒトデ触ってもいいんだって」
「えぇっ、わたしはやめておくよ…」
「そう?じゃあ俺は触ってみようかな」
水生物と触れ合えるコーナーに来ると、竈門くんは迷うことなくその水槽に手を突っ込んだ。そして、ヒトデをつまみ上げるとなんともいえない声を上げる。
「どう?どんな感触?」
「うぅ…なんか、ぐにぐにして、変な感じ…」
不快さを必死に隠すような竈門くんの表情がおかしくて、ヒトデと2ショットの彼を無意識に携帯で写真を撮っていた。そして、ヒトデを解放した竈門くんは水槽の近くの水道で手を洗う。そんな彼にハンカチを差し出すと、「ありがとう、やっぱりミョウジは優しいんだな。俺は君のそういうところが好きだなぁ」となぜか公開告白をはじめたので、余計なことをしたと激しく後悔した。


「ミョウジ!これからイルカショーがはじまるらしい、観ないか?」
水族館の3階は大きなショーステージのあるフロアらしい。ちょうど10分後にショーがはじまるとのことで、わたしたちは嬉々として会場に向かった。

真ん中に巨大プールがあり、そのプールを囲むように階段状に客席が設けられている。すでに多くの客が待機しており、わたしたちは空いている前の方の席に座った。
「竈門くん、それなに?」
「ん?あぁ、これ…」
竈門くんの手には折りたたまれたビニールのようなものがあった。
「ショーの最中は、イルカたちがあげる水しぶきがかかりやすいらしいんだ、特に前の席は。だから、会場入口に置いてあった防水カバーを持ってきたんだよ」
その防水カバーは広げると2人分の体を覆えるくらいの大きさがある。「これで防げればいいけど…」とつぶやきながら、竈門くんはそのカバーを膝の上に置いた。

―――結果的に、竈門くんの判断は正しかった。
イルカショーのパフォーマンスは想像の100倍以上も激しく、わたしたちには容赦なく水しぶきが浴びせられた。
「ミョウジ、あぶなっ……!!」
イルカがヒレで大きく水面を叩いたとき、竈門くんがわたしに防水カバーをかけてくれた。そのあと土砂降りのように降り注ぐ水からわたしは身を守れたものの、竈門くんはびしょ濡れ。呆然とした様子でぐっしょりと濡れた竈門くんを見て、わたしは「ごめん」とか「ありがとう」とかなにか言葉をかけようとしたのだけど、それよりも先に口から笑いがこぼれ落ちてしまった。

「ふ………ふふっ」
「くっ……はははっ」
わたしの笑いにつられて竈門くんも笑ってしまう。わたしは鞄から取り出したハンカチを彼に渡し、一緒に防水カバーに入るよう誘った。ぴったりと肩をくっつけて防水カバーに縮こまっていると、早速水しぶきの第二波がやてってきた。
「わっ!!」
「あははっ!!」
声を上げる竈門くんと、それに笑ってしまうわたし。結局2人で大笑いした。竈門くんと一緒にイルカショーを見ているこの瞬間が、なんだかすごく楽しかった。久しぶりに大きな声で笑った。そうしてわたしたちは、2人で笑い転げながらイルカショーを楽しんだ。

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水族館をたっぷりと楽しんだあと、わたしたちは館内のカフェで休んだ。時刻はもう夕方だった。今回のデートはそろそろお開きだろうか、と考えていると、「ミョウジ。最後にもう一つ、君をつれて行きたいところがあるんだが…」と竈門くんが切り出した。断る理由もなかったので、わたしは素直に頷いて見せる。

水族館を出ると、竈門くんは真っすぐ繁華街の方へ向かう。居酒屋やファストフード店、ゲームセンターなど雑多に店が続いた後、風俗店やよくわからないいかがわしい店なども現れはじめた。そして、いわゆる”ホテル街”に入ったときは、さすがに足が止まりそうになったが、
「いや!ミョウジ違うんだ、俺は君をつれこもうとかそういう気持ちは一切ない!!この先を抜けたところに目的の場所があるんだ、信じてくれ!!!」
と竈門くんが必死に弁解するので、信じて彼について行くことにする。

こうして竈門くんに案内されてたどり着いたのは”神社”だった。
都会の中にある神社というだけでそれなりに珍しいのだが、その神社は割合広々としており、境内の中には傾斜もある。長い階段を上り、拝殿まで行くと、まずは参拝をする。夕方ということでわたしたち以外に参拝客はいなく、辺りは鴉の鳴き声と風が木々を揺らす音しかしなかった。
「ミョウジ、ゆっくり振り返ってくれ」
参拝を終えた竈門くんが声を潜めるようにして言った。不思議に思いながらも、わたしは言われた通りゆっくりと体を反転させる。

そこには、息を呑むほどの美しい夕焼け空が広がっていた。高さのあるこの場所からは、都会の町への見通しがよく、オレンジ色の夕日がビルとビルの合間に隠れていく様子がよくわかる。また夕日が高層ビルの窓に反射し、キラキラと輝いている様子もたまらなく綺麗だった。
「俺、ミョウジと一緒に綺麗な夕日を見たかったんだ」
オレンジ色に照らされながら竈門くんが言った。きっと彼のことだから、夕日が綺麗に見られる場所をわざわざ探し、この神社を見つけたのだろう。そういう竈門くんのいじらしい行動が、今では迷惑どころか、少し好意的なものに思えていた。

「今日は本当にありがとう、ミョウジ。俺は君とデートができて、すごく楽しかったよ」
にっこりと優しい笑顔を向ける竈門くんに、わたしはなぜだか動揺した。好きだのなんだの言われ続けてきたのに、こうして素直に感謝の気持ちを伝えられることのほうが、よっぽどストレートに”来る”感じがしたのだ。
そんな彼に、わたしは相変わらず上手い返事ができない。「こちらこそ、ありがとう」と当たり前のような言葉を返すわたしを、竈門くんはやっぱり優しい笑顔で見つめるのだった。


夕日が暮れるのは早い、辺りは少しずつ暗くなっていた。その空の様子を見計らって、
「それじゃあ、帰ろうか」
と竈門くんが言った。そして彼は先に立って階段を下りていく。トントントンと、軽い足音を立てながら。だけど、わたしは固まったように動けなかった。

……なんで?

心の中で疑問が浮かぶ。
いつもの竈門くんだったら、もっと無理矢理に距離を縮めてくるのに。今日はなんでそんなに控えめなの。いつもなら、きっと夕日を見ながら手を握ろうとしてきたはずだ。もしかしたら、それ以上に触れようとしたかもしれない。なのに、なんで。

階段の下から下手くそな鼻歌が聞こえてくる。それが、わたしの心をますます歯がゆく苛立たせた。
完全なる『矛盾』だ。なにかがおかしい。
そもそも、竈門くんのことを好きじゃないと言ったのは自分じゃないか。だから、気安く触れるなと牽制したのも自分だ。それなのに、竈門くんが一定の距離を保っていることに不安を感じている。……そうだ。おかしいのはきっと”わたし”のほうなんだ。


だけどこんなこと、考えていたって仕方ない。今日はもうデートが終わり、帰らなきゃ。
一度大きくため息をつき、足を踏み出す。彼の後を追ってわたしも階段を下りた。前方から漂ってくる鼻歌を殴りたいような気持ちで、乱暴に自分の足を動かした。




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