6.意地悪な記憶領域

竈門くんとはじめてデートを終えたその夜、わたしはなぜだかずっと胸にモヤモヤが残っていた。デートは正直楽しかった。彼の自然なエスコートのおかげで変な空気になることもなかったし、最後つれて行ってくれた神社で見た夕日もすごく綺麗だった。突然手を繋いだり、キスをするような暴挙に出ることもなかった。すべてが”ちょうどいいデート”だったと言えるだろう。

―――じゃあ、一体なにが不満なの?

そうだ、わたしはなにかに『不満』を抱いている。きっと、あの日の竈門くんはいつもと”なにか”が違った。きっとわたしが知っている竈門くんらしさが欠けていたのだ。……しかし、実際になにが違って、どんな彼らしさが欠けていたのか、わたしにはわかるよしもなかった。

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そんなデートから2日後、竈門くんから「うちに来ないか?」という誘いが来る。彼が引き取ってくれた猫の様子を見に来ないか、とのことだ。連絡があったその日、特に用事がなかったわたしは、昼食をとったあと彼の家に行くことにした。

その日の竈門くんの家はとても静かだった。夏休みを迎え、彼の弟・妹たちは学校のプールに行ったり、友達と遊びに行ったりと、家にいないことが多いらしい。
居間に案内されると、すぐに壁際のカレンダーが目に入る。夏休み初日の土曜日に『ミョウジとデート』と書かれた、あのカレンダーだ。そして本日、月曜の欄にも『ミョウジが家に来る』と書いてある。わたしと連絡を取り合っている最中、彼は嬉々として書き込んだのだろう。相変わらず家族に堂々と交際の様子をさらけ出す竈門くんに、頭が痛くなってくる。

そしてよく見ると、そのカレンダーの端々になぜかわたしの名前がいくつもある。『ナマエちゃん』『ミョウジナマエ』など、たどたどしい文字で書いてあるのだ。
「あの、これは?」
わたしがカレンダーを指すと、竈門くんは照れたように頭をかいた。
「あぁ、驚かせて悪い…これは弟と妹たちが書いたものなんだ。みんなミョウジの名前を知りたがってさ。フルネームを教えたら、今度は練習するって聞かなくて」
人懐っこい顔でわたしを見上げてきた、竈門くんの弟・妹さんたちの顔を思い出し、嬉しいようなむずがゆいような気持になる。

そんな風にカレンダーを眺めていたら、いつの間にか猫が足元にすり寄ってきていた。学校の体育倉庫裏で暮らしていたときよりも毛並みが艶やかで、ふっくらとしたその猫は、すっかり「家猫」の顔になっている。抱っこして欲しそうにわたしの足にしがみつくので、両脇の下に手を入れ抱き上げた。すぐにゴロゴロと喉をならし、顔をすり寄せてくる。

「もうすっかり竈門くんの家に馴染んでるみたいだね、安心した」
「いたずらも粗相もしない、手がかからない猫で正直びっくりしてる。でも、おかげで今じゃうちのアイドルだよ」
竈門くんが優しい目で猫を見つめるので嬉しくなる。
正直、最初はこの猫をちゃんと可愛がってくれるか心配だった。だって、彼は猫をわたしと付き合うための”脅し”に使うような男だからだ。けれど、猫の幸せそうな顔を見るに、ちゃんと家族の一員として大切にされているようなので、彼に引き取ってもらえてよかったと思えるのだった。


竈門くんが冷たい麦茶とお菓子を持ってきたので、テーブルの前に座る。わたしに挨拶をし終えた猫は、今度は竈門くんに甘えに行った。
「ところで、改めて土曜日はありがとうな。すごく楽しい時間を過ごせたよ」
竈門くんがにっこりと笑いかけてくれたが、わたしは「う、うん」と曖昧な反応を返してしまう。すぐさま彼は不思議そうな顔でわたしを見つめる。
「どうした?やっぱり、ミョウジはあまり…」
「ううん、楽しかったよ、ありがとう」
それから、なんとなく気まずい沈黙が流れた。竈門くんはなにかを考えているようで、静かに猫を撫で続けている。けれどなにか思い立ったのか、猫を膝から降ろすと、立ち上がってわたしの方を見た。
「ミョウジ、ちょっと俺の部屋に来てくれないか?」

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彼の部屋に上がるのは2度目だった。相変わらず清潔で綺麗な部屋だ。出された座布団に座りながら、わたしはなんだか逃げ出したくなる。これ以上、彼と親密になってはいけないような気がする。いや、親密になるかどうか、今ここで決めなきゃいけないような、そんな強迫観念みたいなものが生まれていた。

「ミョウジ、君に聞きたいことがある」
「…うん」
「土曜日のこと、ミョウジは本当に楽しんでくれていたのか?」
「それは、もちろん楽しかったよ。わたし、動物が好きだし…」
「そうか、それならよかったんだが……でも俺は、ミョウジがなにかに納得していないように感じるんだ」
ドキリとした。竈門くんにバレている、わたしの胸のモヤモヤが。だけど、彼にはその正体を知られてはいけない。なぜだかそう感じた。

「正直に言う。俺はこのあいだのデート、かなり自分を抑えていた」
竈門くんはひどく真剣な表情でこちらを見つめている。強い瞳に射すくめられ、適当に話を切り上げなきゃと焦りを感じている自分がいた。
「ミョウジと付き合うとき、俺は欲望の赴くままに君に接しないと、約束したからだ。だから俺は我慢した、さまざまな場面でものすごく我慢した」
彼の”我慢した”という言葉に凄みがあって、わたしはじわりと手に汗をかいた。
「だけど、結果的にそれは正しかったんだろうか?偽りの俺のままでは、いつまでたってもミョウジと距離を縮められないんじゃないか?」
正面に座る竈門くんが拳ひとつぶんくらい距離を縮めてくる。わたしはびっくりして上体を逸らした。

「もちろん俺はミョウジのペースに合わせると約束したんだから、男として、長男としてそれはしっかりと守る。そのうえで、俺はもっとミョウジに近づきたい」
「ちょっと、待っ…!!」
じりじりと距離を縮めてくる竈門くんにとうとう追い詰められてしまった。後ろにはベッドがあり、逃げ場がない。
「なぁ、教えてくれ…ミョウジ。俺はもう少し前に進みたいんだ、もし君がいいと言うのなら…」
発火したように顔が熱く、心臓がはちきれそうなほどドキドキしている。そんな自分に戸惑いながらも、わたしは竈門くんに脅されたあの日のことを思い出していた。


―――意味のわからない独自の理論をかまして、わたしに付き合えと迫ってきたあの日のこと。
そもそも、なんであんな脅し突っ放さなかったのか?たとえ猫のことをバラされても、きちんと説明すれば学校側もわかってくれたんじゃないか?それなのに、竈門くんの要求を呑んでしまったのはなぜなのか…?

すべては、彼がこうしてなりふり構わずわたしに迫ってきたからだ。真剣そのもの、という表情で。そして、そんな竈門くんに呆れかえりつつも、心の奥底ではドキドキしていたんだ。

それが今、完全に彼にバレてしまった。わたしが”どんな竈門くん”に弱いのかを。
そして気づいてしまった。わたしが彼に抱いていた『不満』の原因を。


お互いの手が触れるか触れないかの距離で、おでこがついてしまいそうな距離で、吐息が唇にかかりそうな距離で、竈門くんはじっとわたしの答えを待つ。涙が零れそうなほど緊張して、体が熱くて、逃げ出したくて、でも逃げられないから思考が停止しそうだった。

わたしはぎこちない動作で頷く。竈門くんを受け入れる、わずかな動作だ。すると、彼がふっと息を漏らし、笑った。わたしの指に、彼の指が少しだけ触れた。




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