8.サイケデリックララバイ

暦は無慈悲だ。わたしの気持ちを置いてけぼりにしたまま進んでいく。長い夏休みを終え、わたしたちは9月からまた学校に通いはじめることになる。


「おっ、ミョウジ」
背中を丸めながら教室に入ると、隣の席の我妻くんがすぐに声をかけてくる。
「あ、おはよ…我妻くん」
「うん、おはよ。それより、夏休みどうだった?もちろん、炭治郎と会ってたんだろ?」
我妻くんの口からさらりと出た”炭治郎”という言葉に驚いて、わたしは机に置くべき鞄を床に落としてしまう。半開きになっていた鞄の口から、教科書や水筒が飛び出し、「えぇっ?!」と我妻くんが声を上げた。

「ご、ごめん!なんか、ボーッとしてて…」
ははは、と愛想笑いを張りつけながら散らばったものを集めていると、「大丈夫か?ミョウジ」と、またもやわたしの名前を呼ぶ別の声が聞こえた。
「おっ、炭治郎!いいところに!」
「おはよう善逸」
……竈門くんが登校してきたのだ。
彼は自分の席に行く前に、わたしのところにやってきたらしく、肩に鞄をかけたまま床に散らばる荷物を一緒に集めてくれる。
「はい」
彼はにこやかにわたしのハンカチと手帳を手渡してくれた。けれど、肝心のわたしは竈門くんのことを直視できず、もごもごと歯切れの悪いお礼しか言えない。そして、そんなわたしたちを見ていた我妻くんがポツリとつぶやく。

「………おかしい」
「なにがおかしいんだ?善逸」
「おかしい、おかしいだろ。なんかお前ら…いつもと様子が違う」
「そうか?」
竈門くんは涼しい顔で我妻くんに笑いかけるけれど、わたしは我妻くんに心内を気取られるのが怖くて、心臓がバクバクしていた。
「だって、夏休み前のミョウジはこんなに挙動不審じゃなかったぜ!なんだよ、夏休みになにかあっ………」
我妻くんは言葉を途切れさせると、すぐさま両手を口に当てた。

「っ嘘だろ……お前ら、まさか!!」
「さっきからなにを言っているんだ?俺たちはなにも変わりないよ」
「嘘だ!!そんなわけない!!俺にはわかる、わかるぞ……隠しても無駄だからな…!!
でも、そんな……信じたくねぇよ……まさか、炭治郎の方が先に卒業するなんて……」
そう言って我妻くんはすすり泣きはじめた。竈門くんが困惑しながら彼に近寄る。
「卒業…?俺たちが卒業するには、まだ1年あるぞ善逸」
「そういう卒業じゃねぇよ!!男女交際における”卒業”だよ、男ならわかるだろ!つーかわかれよ!!!」
「男女交際における……?」
「ちょちょちょちょ我妻くんっ!!!あの、そういうんじゃないから!!」
あまりの際どい会話の応酬に思わず割って入る。

「そういうんじゃないって、じゃあ、どーいうことよ!?変にフォローすんなよ!そういうのが一番傷つくんだよぉぉお!!!」
「あの、だから、別にわたしたちはそこまで…っていうか」
そのとき、タイミングよくチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。竈門くんは困惑し、首を傾げながらも自席につく。そしてその数秒後、「…ああ、なるほど」と彼が小声でつぶやいていているのを、わたしは聞き逃さなかった。

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新学期を迎えてからも、良くも悪くもわたしたちの関係はほとんど変わらなかった。
学校内では適度に交流し、ときどき我妻くんや嘴平くんを交えてお喋りをし、そして都合が合えば一緒に帰る。しかし、一つだけ決定的に違うことがある。それは、わたしがあの夏祭りの出来事以来、完全に竈門くんを”意識”してしまっている、ということだった。

だから、以前と変わらない関係に見えるのは外側だけで、わたしは竈門くんを前にすると平常心を保つので精一杯だったし、無意識に彼のことを避けようとしている自分もいた。だけど、そんなわたしの”変化”に竈門くんが気づかないはずないのだ。


「ねぇミョウジ、今日うちに来ない?」
新学期がはじまって2週間が経った頃、一緒に帰り道を歩いていると竈門くんがそう言った。わたしはじわりと手に汗をかく。また彼の部屋で2人きりになるのだろうか。そうして、唇が触れそうな距離まで迫ってくるのだろうか。
「ミョウジ、」
いつの間にか竈門くんの手がわたしの頬に触れている。びっくりして距離を取ると、彼は目を丸くしてから小さく苦笑いをした。

「ミョウジ、顔が真っ赤だ」
「えっ…あ……」
「俺の、せいだよな。ごめん」
「………」
「ちゃんとミョウジと話をしたいんだ。その…前みたいなことはしないから、うちに来てくれないか?」
困ったような顔でお願いしてくるので、強く突っぱねることもできず、わたしは大人しく彼についていくしかなかった。

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竈門家の居間でひとしきり猫を可愛がったあと、彼は当たり前のように2階の自室へわたしを招いた。いつものように出された座布団に座り、お互い無言で冷たい麦茶をすする。やがて、その沈黙を竈門くんが破る。

「ミョウジはさ、やっぱり、その……怒ってるか?夏祭りでのこと」
「………」
「そう…だよな」
怒っているかどうかは正直わからない。ただ、今も混乱している。竈門くんに混乱している、というよりかは、自分自身の心境の変化に混乱しているのだ。

わたしは別に竈門くんのことなど好きではなかった。それなのに、あんなキス一つでこんなに心がかき乱されている。今では彼の声を聞くだけで、あの優しい視線を注がれるだけで、初恋のときのように心臓をわななかせているのだ。

「ミョウジが俺を好きになってくれるのを待つ、ミョウジのペースに合わせると言ったのに…約束を守れなくてごめん。結局俺は、俺の気持ちのままに動いてしまった」
そう言って竈門くんは深く頭を下げた。
「もし、今からでもやり直せるなら、やり直したい。俺に…チャンスをくれないか?みっともないのはわかってる。でも、俺はやっぱりミョウジのことが好きだから…」
ああ、竈門くんはわたしを傷つけたと思っているんだ。実際わたしは傷ついたんだろうか?竈門くんのキスが嫌だったんだろうか?そう考えたところで、わたしは一つの結論にたどり着き、思考が停止してしまう。


「ミョウジ?」
わたしの目の前で手をひらひらとさせる竈門くん。ハッと我に返ると、彼の澄んだ優しい瞳とぶつかった。びっくりして身を引くと、その拍子に麦茶の入ったコップを倒しそうになる。あっ!と手を伸ばすと、反対側からも竈門くんの手が伸びていた。わたしたちの手はコップの上で見事に重なってしまった。

……竈門くんが手をどかさない。だから、いつまでたってもわたしたちの手は重なり合ったままだ。
竈門くんは有言実行できない男だと思った。ほらまた、そうやってわたしに触れているじゃないか。熱っぽい視線でわたしを見ているじゃないか。さっきの謝罪はなんだったんだ。

心臓が忙しく鼓動を刻み、正常な脈拍を維持できそうにない。だから諦めてこのまま話をするしかないと思った。
「あのね、わたし、ずっと…どうしていいかわからなくて」
「……うん」
「ずっと、ドキドキしてるから」
「…それは、いつから?」
「に、二度目にこの部屋に来たとき、から……」
竈門くんは一瞬思案した後、初めてのデートの後のことだね、とつぶやいた。

「わたし、竈門くんのこと好きじゃないよ」
「…うん」
「ただ竈門くんに引っ張られるがままに、ここまで来ただけで…。だから、こんな風になってるのも本当、不本意って言うか……」
「うん」
いつの間にか竈門くんの口元には緩く弧が描かれていた。嬉しそうに、穏やかに、相槌を打っている。

「でも、それじゃあおかしいと思う。考えていることと、体の反応が、バラバラだから」
「うん」
竈門くんはコップを覆うわたしの手をそっと外し、倒れない場所にそれを置いた。
「……竈門くんも、おかしいと思う?」
「思わない」
「どうして?」
「俺は、嬉しいから」
また距離が近い。竈門くん、どさくさに紛れてわたしに近づいているんだ。
「…嬉しいの」
「うん」
「じゃあ、わたしの、これは…別におかしくないの?」
「おかしくないよ」

ミョウジ、と竈門くんが言った。ゆっくりと動いたその唇を見て、”キスがしたい”と思った。だけど、そんな自分をおかしいと思わなかった。だって竈門くんが「おかしくない」と言ってくれたから。

「ミョウジ、俺のこと、好き?」

静かに尋ねる竈門くんの声が心地いい。その声をもっと聴きたいと思う自分も、きっとおかしくないのだろう。だから、わたしはひどく滑らかな動作で頷いて見せる。首肯することによって、これまで抱いていた自分への戸惑いが少しずつ解消されていくのを感じた。


「……嬉しいなぁ」
絞り出すような歓喜の声が竈門くんの口をついて出る。わずかに震える語尾が、歓喜の大きさを表しているようだった。そして、彼の唇はそのままわたしの唇に重なる。

開け放した窓から、17時を知らせる防災無線の音楽が聞こえた。ノスタルジックなその音楽に耳を傾けながら、わたしは目を閉じる。ふわりと部屋に入り込んだ風に、夏の終わりの匂いを感じた。
少しぎこちない2度目のキスは、熱くとろけるようだった。




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